第2話 もふもふの恩返しは、至高の聖域作りでした

ラピスを大切に腕に抱きながら、私は一歩ずつ、森の奥へと足を進めていった。

「死の森」――その禍々しい名前とは裏腹に、私の周囲だけはまるで春の陽だまりのような、温かで清浄な空気に満ちている。

古い伝承では、一歩踏み入れただけで命を落とすとされていた禁忌の地。けれど、私の頬を撫でる風はどこまでも優しく、肺の奥まで吸い込んだ空気は、洗いたてのシーツのように清々しい。


ラピスが私の腕の中で「ぐるる」と低く、喉を鳴らす。

すると、ナイフのように鋭い棘を持っていた茨の藪が、意思を持っているかのように左右に割れ、柔らかな道を開けてくれた。視界を遮っていた不気味な霧も、ラピスがあくびを一つするだけで、陽光に照らされてキラキラと霧散していく。


「不思議ね、ラピス。あなたは本当に、幸運を運んでくれる子なのね」


私が頭を撫でると、ラピスは嬉しそうに私の胸元に顔を埋め、柔らかな鼻先をぐいぐいと押し付けてきた。

指先が沈み込むほどに高密度で、シルクのように滑らかな黒い毛並み。その奥から伝わってくる、トクントクンという力強い鼓動。

冷え切った王宮の石畳に膝をつかせられ、震えながら祈っていた日々が、遠い幻のように思えた。ここには私を罵倒する声も、針を刺すような視線もない。あるのは、優しいもふもふの温もりだけだ。


しばらく森を歩き続けると、少し開けた場所に、古びた一軒の丸太小屋を見つけた。

「ちょうどいいわ、今日はここで休みましょうか」 屋根は半分ほど崩れ落ち、壁には気味の悪い蔓が絡まりつき、窓ガラスは一枚残らず割れている。

普通なら絶望するような廃屋。けれど、私はその扉にそっと手を触れ、深い吐息をこぼした。


(ああ、誰の許可も得ずに、ただここで眠れるんだわ)


それは、これまでの人生で一度も許されなかった贅沢だった。

王子の機嫌を窺い、教会の鐘の音に追われ、他人のために祈りを強制される日々。

聖女という名の檻を脱ぎ捨てて、私は今、初めて自分のためだけの夜を迎えようとしている。その実感だけで、胸の奥が熱くなった。


「よし、まずはお掃除からね。ラピス、ちょっとだけ地面で待っていてくれる?」


地面に下ろされたラピスは、私の顔を見上げると、「わん!」と短く、どこか威厳を感じさせる声で吠えた。

その直後、私の目の前で、現実が鮮やかに書き換えられていく。


ラピスの小さな足元から、漆黒の魔力が波紋のように広がった。

それは星を散りばめた夜空のように美しく、圧倒的な意思を持って廃屋を飲み込んでいく。

みるみるうちに、小屋に絡みついていた蔦がひとりでに剥がれ落ち、腐っていた木材が、切り立ての琥珀のような色艶を持つログハウスへと生まれ変わっていった。

割れていた窓には曇り一つないガラスがはまり、暖炉からはパチパチと温かな火の弾ける音が聞こえ始める。


それだけではない。小屋の周囲には、冬だというのに色鮮やかな薬草や、見たこともないほど美しい虹色の花々が咲き乱れたのだ。


「ええっ……!? これ、ラピスがやってくれたの?」


驚愕して目を丸くする私に、ラピスは「なでて!」と言わんばかりに尻尾を振り、私の足元に寄ってきては見上げてくる。

世界でただ一人、私のためだけに、彼はこの楽園を用意してくれたのだ。


「ありがとう! なんてお利口さんなの、ラピスは! 私、一生あなたを大事にするわね」


私は感動のあまり彼を抱き上げ、その柔らかい首元に顔を埋めた。

至福。これこそが、私が追い求めていた本当の幸せだ。

王宮の冷えたスープをすする時間があるなら、一秒でも長くこの芳しい毛並みの香りを堪能していたい。


喉が渇いた私は、庭の片隅にあった古井戸へ向かった。

当然、長い間放置されていた井戸の中は濁っている。私は軽く井戸の縁に手を触れ、そっと祈りを込めた。


(喉が渇いてしまったの。一口だけでいいから、綺麗な水が出ますように)


私の奥底に眠る浄化の魔力が、目に見えない雫となって井戸の底を叩く。

瞬間、井戸から溢れ出したのは、水晶よりも透明で、月明かりを液体にしたような、眩い光を放つ水の塊だった。 一口含めば、身体中の強張りがほどけ、全身の細胞が歓喜に震え出すのがわかる。


「あら、ここのお水はとっても透明で綺麗なのね。やっぱり田舎は空気がいいからかしら?」


私はその澄み切った水を沸かし、カバンに残っていた古いハーブを一房入れた。

薪の燃える匂い、ハーブの清涼な香り、そして私の膝の上には、私を愛してくれる温かな命。

王宮で凍えながら、誰からも感謝されずに祈っていた頃には想像もできなかった、至上のティータイム。

温かいお茶を一口飲むごとに、頑なになっていた私の心が、溶けたバターのようにじんわりと解けていった。


***


一方その頃。王都は「地獄の前夜」を迎えていた。


「報告します! 北門の守護結界が消失! 魔物の先遣隊が侵入しました!」


「なんだと!? ミラ、何をしている! 聖女の祈りはどうした!」


ジークフリート王子の怒号が、かつてなく不穏な空気の漂う会議室に響き渡る。

隣で震えるミラは、真っ青な顔で祈りを捧げているが、その震える指先からは、今にも消えそうなか細い光しか出ていない。


「わ、私だって一生懸命やってるわよ! でも、あんな広い範囲、一人で維持できるわけないじゃない! あのお姉様、一体どうやってたのよ!」


ミラの叫びは、図らずも残酷な真実を突いていた。

どれだけ叫んでも、祈っても、かつての鉄壁の守護が戻ることはない。

王宮の面々が、失ったもののあまりの巨大さにようやく気づき始めた瞬間だった。


「エリアナだ……エリアナを連れ戻せ。あいつがいなければ、この国はあと三日も持たん……」


王子の震える声に、誰も応えられなかった。

二人の間に、もはや言い訳も怒鳴り声も続かなかった。

ただ、冷え切った空気と、重苦しい絶望だけが部屋を満たしていく。


                  *


「ラピス、今日のご飯は干し肉のスープよ。味は薄いけれど、明日からはもっと美味しいものを一緒に探しましょうね」


「きゅうん!」


ふかふかのソファ。暖かい暖炉。膝の上には、何物にも代え難い温かな命。

私を捨てた国が今どうなっているかなんて、これっぽっちも思い出せなかった。

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