僕の師匠は鹿野さん喜古さん
桃馬 穂
第一話:異世界は、苦くて甘い飴の味
善意で死ぬのは、案外むずかしい。
およそ、二三夫という男の人生において、何ひとつとして「首尾よく」運んだためしはなかった。
小学校の運動会では、ここ一番で靴紐がほどける。試験の解答欄は、最後の一行で一段ずれる。恋をすれば、相手にはたいてい先約がいて、二三夫はいつも「都合のいい相談相手」に落ち着いた。
空はこれほど青いのに、彼の頭上だけは湿り気の多い雨雲が、まるで専用席みたいに居座っている。だから、雨の交差点で――。
「おっと、いけない。あんなところに、可哀想な子猫が」
視線の先、泥水にまみれて震えている小さな影。
二三夫は考えるより先に飛び出した。これまでの人生が散々でも、せめてこの小さな命だけは「首尾よく」助けてやりたい。それこそが、徳というものではないか。
キキーッ、という鼓膜を劈く悲鳴。視界が九十度回転し、空が足元に、アスファルトが目の前に迫る。
二三夫は薄れゆく意識の中で、その「子猫」を抱き上げた。――ところがどうだ。掌に触れたのは、柔らかな毛並みでも温かな鼓動でもなかった。
それは、どこかの子供が放り出した、安物のポリエステル綿が詰まった「猫のぬいぐるみ」であったのだ。
(ああ、やっぱりだ……。俺の人生、死に際までこれか……)
だが、二三夫はただでは転ばない男であった。
(待てよ。トラックに撥ねられて死ぬ。これは、巷で噂の『異世界転生』の黄金パターンじゃないか! よし、次は魔法だ。エルフだ。バラ色のハーレムだ!)
☆
そうして二三夫が次に目を開けたとき、そこには白い髭を蓄えた、いかにも「事務手続きが面倒そう」な顔をした神様が立っていたのである。
「二三夫くん、君の人生は、いわば『書き間違い』だらけの答案用紙だ。しかし、最後の一行。あのぬいぐるみを助けようとした飛躍。あれだけは、文法は間違っているが、内容が実に美しい。そこでだ。君を異世界へ送ることにした」
「異世界! 待ってました! 剣ですか、魔法ですか、それとも耳の長いお姉さんですか!」
「……まあ、行ってみればわかる。条件はひとつ。その世界で『徳』を積み、記録簿を真っ当な言葉で埋め尽くすこと。さすれば、元の世界へ返して遣わそう」
☆
眩い光。二三夫は期待に胸を膨らませ、新しい人生のページをめくった。
ところが、まぶたの裏に焼き付いたのは、燦然と輝く王宮でもなければ、鬱蒼とした魔力の森でもなかった。
そこにあったのは、少々くたびれたアーケード、夕飯の惣菜を揚げる油の匂い、そして「本日特売」と書かれた、ひどく見覚えのある赤い
「……神様、ここは、どこかの商店街じゃないですか」
「いかにも」
どこからか神様の声が響く。
「ここは異世界『ニッポンポン』。君のいた世界とよく似ているが、決定的に違う。そこでは、『自分を笑える者』だけが、徳を積めるのだよ」
二三夫が呆然と立ち尽くしていると、背後から声をかける男があった。
「あんた、新入りか。派手に転んだねぇ」
名は
「いいか、この世界で徳を積む近道は、あの神社の前で逆立ちして三時間叫ぶことだ。そうすりゃ、空から小判が降ってくる」
「本当ですか! やってみます!」
もちろん嘘である。二三夫は三時間後、不審者として近所の住人に通報され、あわや御用というところで、二人の人物に首根っこを掴まれた。
「……阿呆が。徳を積むのに、近道なんてあるわけなかろう」
雷鳴のような声の主は、
「あらあら、鹿野さん。そんなに怒鳴っては、この方のなけなしの徳が逃げてしまいますわ」
隣で鈴を転がすような声で笑うのは、
「あんたを『二三夫』といったか。気に入った。今日から俺たちが、お前の歪んだ人生にアイロンをかけてやる。稽古の始まりだ」
鹿野の手には、容赦のない
「さあ、まずはこの商店街のドブさらいから始めましょうか。首尾よくいけば、この飴を差し上げますわよ」
二三夫は思った。異世界にきても、結局やることはドブさらいか、と。
しかし、不思議と心は軽かった。これまで一人で失敗し続けてきた二三夫に、初めて「叱ってくれる師匠」ができたのである。
「よし、やってやろうじゃないか! 俺の徳積み、一世一代の大勝負だ!」
威勢よくドブに突っ込み、案の定、頭から泥を被った二三夫を、小武が遠くで鼻で笑い、鹿野が怒鳴り、喜古が微笑む。
二三夫の「異世界」は、元の世界よりも少しだけ、騒がしくて温かかった。
(第一話 完)
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