竜の峰の医者 腹に巣食う顔

栗印 緑

1.キール・メディウスの庵

「せんせーい、おらへんのん? キールせんせーい、来たでー」

 甲高い呼び声と立て続けのノックに、キールはベッドの中で微かに苦笑した。夜更けも夜更け、こんな夜中に彼の庵を訪問する客に心当たりはそう多くはない。隣のベッドで、スコウプが低い唸り声を上げた。

「畜生ッ、まぁた来やがったかよ。なんだってあの野郎はひとの寝てるのを起こしに来るかね!」

「そう怒るものではありませんよ、スコウプくん。彼等にだって、しかたのない事情というものがあるのですから」

「へッ、あんなコウモリ、日光に当たって干からびちまえばいいんだよ!」

 不機嫌そうにスコウプの点けたランプを、寝起きとはとても思えない優雅さで受け取るキール。ガウン代わりに傍らの椅子の背から古びた白衣を取ると、振りかえってスコウプに言った。

「チェルをお願いしますね。起こしてしまわないように」

 スコウプはがりがりと頭を掻いて、返事の代わりに追い払うような手つきで合図を送った。


 長い金色の髪を緩やかにかきあげ、キールは分厚いだけの簡素な扉を開けた。漆黒の闇を背に、小柄な少年が笑いかけている。少年は、肩越しに見える蝙蝠に似た翼を惰性で揺らしながら、両腕に抱えた籠をぬっと差し出した。真紅のつぶらな瞳を細めて快活な笑顔を見せる。唇の端から、左右の鋭い牙がちらりと覗いた。人間、ではない。

「黒苔、いつもより多く持ってきたで。最近雨多くて、苔よく採れるん」

「ありがとうございます。ちょうど使いきって、困っていたところですよ」

 籠を受け取ったキールはそう言うと、奥の研究室へ入っていった。中の包みと引き換えに、数本の小瓶を籠に入れる。キールが戻ると、蝙蝠羽の少年は勝手知ったる様子でテーブルの上に座り込み、卓上の蝋燭をかじっていた。

「少し重くなってしまいますが、憐蛇香を多く入れておきましたよ」

 そう言ってキールの手渡した籠を、少年は鼻を突っ込むようにして覗き込む。片手に蝋燭を握ったまま、嬉しそうに籠を抱えて立ちあがった。

「ありがとな。ほな、また来月やね」

 微かに夜露に濡れた翼を広げて少年が飛び去っていくのを、キールは微笑ましげに見送っていた。


 リージェルコア大陸北部を横断するパ―チ山脈の最高峰、通称『竜の峰』の頂に、キールの庵はあった。周囲は巨大な魔物の巣窟で、常人には山頂を訪れることはおろか、入山することすらままならない。翼を持つ数種の獣人だけが魔物を避けて庵を訪れることができたが、リージェルク帝国内では存在そのものすらはっきりとは認知されていない有翼人たちのこと、定期的に薬草や食料を運んでくる数人を除いて、庵の扉を叩くものはほとんどなかった。


「さて、日が昇る前に、処理をしてしまいましょうか」

 庵の主人はキール・メディウス。この庵には、愛娘のチェルの他に、助手のスコウプ・ネレイドと、その妻でありキールの患者であるプライムが身を寄せている。

 キールは少年から受け取った包みを開き、中身を選り分けた。わずかに俯いたキールの髪がさらりと流れる。ほとんど白に近い、ごく淡い金色だった。まっすぐ腰まで伸びた絹糸のような髪は、ランプの届かない暗がりでところどころ微かに青く光っているようにも見えた。

「なるほど。確かに黒苔が多めに入っていますね」

 丸い眼鏡をずり上げて、キールが言う。ランプのオレンジ色の光を受けてなお、キールの瞳は良質のエメラルドそっくりに透き通った緑色をしていた。極端に白い肌は、古びた白衣のほうが煤けて見えるほどだ。二十代中盤といった外見ではあるが、その物腰や表情にはどことなく年経たものの深みのようなものが見え隠れする。

 ランプの光がもう一つ入ってきた。寝室から来たスコウプは、不機嫌そうにそのままキッチンへ向かう。

「チェルなら熟睡だぜ。どーせあのコウモリガキの売りもんだ、すぐ煮ないとダメになるんだろ?」

「ありがとうございます。お湯はいつもより多めでお願いしますね」

 短めの茶色の髪に黒い瞳をしたスコウプは、二十歳そこそこの若さでありながら、数年前にプライムを背負って単身この庵に飛び込んできた。それだけの腕を持つ剣士である。

「瓶は? 湯沸かしついでに煮ておくが、いくつだ?」

「四つでお願いします。念のため、にはなりますが」

 ん、と答えて、スコウプは慣れた手つきで戸棚から黒い瓶を四つ取り出す。火にかけていた鍋の水に無造作に放り込むと、かまどに薪を追加して火力を上げた。助手としてのこうした仕事も、だいぶ板についてきていた。

 妻プライムの治療費代わりに助手として働くことをスコウプが承諾してから、もう随分経つ。畑仕事や炊事といった雑用から危険な魔物のサンプル採取、果てはキールの実験の被検体まで、やらされる仕事は多岐にわたっていた。決して好きでやっているわけではないが、妻の治療に必要なことなら何でもする、その覚悟だけは揺るがないつもりだった。

「おや、スコウプくん、今回は入っていましたよ、溶連胡桃です」

 キールの声に、キッチンからマジか!とうれしそうな声が上がる。

「それ、待ってたやつだな!? じゃあ、作れそうか、例の道具」

「はい。プライムさんの治療が、また一歩進展するはずです」

 キールが微笑むと、よっしゃあ!とスコウプはガッツポーズを見せた。途端にキッチンの中で、シュウゥゥ、と鍋の噴きこぼれる音がする。やっべぇ、と慌てて、スコウプはかまどの火を調整した。


 新月の曇天。真っ暗な空に朝はまだ遠い。荒涼とした魔物の巣窟の頂点で、この小さな敷地内にだけはいつでも穏やかな空気が流れていた。涼やかに日は昇り、緩やかに日は沈む。一年を通して気温はほぼ一定で、山そのものに宿る魔力の影響を受けて、標高一万メートルを超えようという高地にもかかわらず、寒さはほとんど感じない。

 そこでは本当に、本当に時が止まって見えた。

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