桜の季節
大釋 空良
桜の季節
秋の陽射しが、車椅子のスポークに細かく反射している。
私は、彼女の車椅子を押しながら、住宅街の緩やかな坂道を下っていた。午後3時過ぎ。風はまだ冷たくないが、空気には確かな秋の気配が漂っている。街路樹の葉が、ところどころオレンジや黄色に色づき始めていた。
「今日はどこまで行く?」
私が尋ねると、彼女は振り返らずに答えた。
「いつもの公園まで」
いつもの公園。二人が週に二度は訪れる、小さな近所の公園だ。遊具は古びているが、木々が多く、季節の移ろいを感じられる場所だった。
私は彼女の肩越しに、彼女の横顔を見た。整った顔立ちは以前と変わらない。むしろ、陸上選手時代の張り詰めた表情が消えた分、柔らかな印象さえある。だが私には分かっていた。その穏やかな表情の奥に、どれほど深い喪失が横たわっているかを。
公園に着くと、私は彼女を木陰のベンチの前に停めた。自分はその隣に腰を下ろす。
「ねえ、朱里」
が口を開いた。
「まだ答えは変わらないの?」
私は黙って頷いた。彼女が何を聞こうとしているのか、もう説明は要らなかった。
「一緒に住もうって、何度も言ってるよね」
彼女の声には、諦めと、それでもなお希望を手放せない者特有の切なさが滲んでいた。
「私の答えは変わらない」
静かに、しかしはっきりと答えた。
「あなたを壊してしまったのは私。その責任は、あなたと幸せに暮らすための免罪符じゃない」
「壊したって……」
彼女が小さく息を吐く。
「もう、その言い方やめてよ」
「でも事実でしょ」
私の声が、わずかに震えた。
あの日のことは、今でも夢に出る。いや、夢というより悪夢だ。三十キロ地点を過ぎたところで、彼女の身体が左に傾いた。そのまま、まるでスローモーションのように、彼女は崩れ落ちた。スタジアム全体から悲鳴にも似たどよめきが起こり、医療スタッフが駆け寄る。もうすべてが遅かった。
彼女の左足首は、不自然な角度に曲がっていた。
それは、自国開催の世界陸上だった。
荒木優希。当時23歳。女子マラソンの新星として、メディアは彼女を「10年に一度の逸材」と称していた。実際、彼女の走りは美しかった。無駄のないフォーム、的確なペース配分、そして何より、ゴールまで決して諦めない精神力。
加えて整った容姿も手伝って、「美貌のランナー」というキャッチコピーまで付けられていた。
国民の期待は、日に日に膨らんでいった。スポーツニュースは連日彼女の特集を組み、街頭インタビューでは老若男女が彼女の名前を口にした。「自国開催で、ついに日本人がマラソンで表彰台に」。その期待は、もはや個人の夢を超え、国民的な悲願となっていた。雑誌の表紙を飾る彼女の笑顔は、希望そのものだった。だが、その笑顔の裏で、彼女の身体は確実に悲鳴を上げ始めていた。
代表選考レースの2ヶ月前から、彼女の左足首には違和感があった。コーチである私は気づいていた。練習後、彼女が足首を押さえる仕草。走行フォームに現れるわずかな歪み。いつもより長く続くアイシングの時間。
「休んだ方がいい」
私は何度も進言した。だが彼女は首を縦に振らなかった。
「大丈夫。本番まで調整できる」
その言葉に、私は何度も説得を試みた。だが彼女の目には、譲れないものが宿っていた。コーチと選手という関係を超えて、私は彼女を理解していた。彼女がどれほどこの舞台を夢見てきたか。幼い頃から走り続け、無数の挫折を乗り越え、ようやく掴んだチャンス。それを手放すことが、どれほど困難かを。
そして選考レース当日。彼女は一位でゴールした。テレビカメラの前で、彼女は笑顔を作った。だが私には分かっていた。あのゴール後、彼女がすぐに立ち上がらなかったこと。スタッフに支えられながら、一瞬だけ表情を歪めたこと。控え室に戻った彼女の足首は、明らかに腫れていた。
「世界陸上、出場を辞退しよう」
マスコミの喧騒が遠く聞こえる中、私は彼女に告げた。
「無理でしょ。もう発表されてる。国民が期待してる」
彼女の声は、いつもより低かった。
「あなたの身体の方が大事。選手生命の方が大事」
「でも……」
彼女の目に、初めて迷いが浮かんだ。
「私、走りたい。あの舞台で。ここまで来た。あと少しなの」
私の胸が痛んだ。彼女の気持ちは痛いほど分かった。だからこそ、コーチとして、大人として、彼女を止めなければならなかった。
だが、私もまた、夢を見ていた。自分が育てた選手が、世界の舞台で輝く瞬間を。表彰台に上る彼女の姿を。その夢が、私の判断を鈍らせた。
「……分かった」
私は、そう言ってしまった。
「でも、少しでも痛みが増したら、すぐに棄権する。約束して」
「約束します」
彼女は頷いた。だが、その約束が守られることはなかった。
結局、彼女は世界陸上に出場した。
レース当日、スタジアムは熱気に包まれていた。7万人の観衆が、日本人選手の活躍を期待して集まっていた。スタートの号砲が鳴り響き、選手たちが一斉に走り出す。
レースは序盤から彼女のペースで進んだ。彼女は冷静だった。先頭集団の後方につき、体力を温存しながら、確実に距離を刻んでいく。彼女の走りは安定していた。
そして30キロ地点。彼女は依然として先頭集団にいた。アジア人最高順位。テレビの実況アナウンサーの声が上ずった。
私は、スタジアムでその光景を見ていた。胸が高鳴ると同時に、不安が拭えなかった。彼女の走りは確かに美しかった。だが、私の目には見えていた。わずかに不自然な着地。左足をかばうような、ほんの少しの躊躇。
「頼む、無事に……」
私は心の中で祈った。
だが、その祈りは届かなかった。
30キロを過ぎたところで、それは起きた。
彼女の身体が、突然左に傾いた。まるで糸が切れた人形のように、彼女の膝が折れた。そして、アスファルトの上に崩れ落ちた。
スタジアム全体から、悲鳴が上がった。
医療スタッフの方が彼女を囲み、すぐに担架が運ばれてくる。
カメラが彼女の顔を抜いたとき、彼女は涙を流していた。痛みからの涙ではなかった。それは、失われたすべてに対する涙だった。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
彼女は、か細い声でそう繰り返していた。
彼女の左足首は、明らかに異常な角度に曲がっていた。
病院での診断結果は、私の最悪の予想を超えていた。左足首の複雑骨折。靱帯の完全断裂。神経の損傷。
医師の説明は、冷酷なまでに明確だった。
「今後、競技レベルでの走行は不可能です。日常生活においても、歩行には困難が伴うでしょう。車椅子生活になる可能性が高いです」
彼女は、その宣告を無表情で聞いていた。私は、彼女の隣で、ただ震えていた。
バッシングは、すぐに始まった。
事故の映像は、何度も何度もテレビで流された。彼女が倒れる瞬間。苦痛に顔を歪める瞬間。担架で運ばれていく瞬間。それは、国民的な期待が砕け散る瞬間でもあった。
SNSは炎上した。私への批判だけではなく、彼女自身への心ない言葉もあった。
彼女は、公の場から姿を消した。引退会見すら開かなかった。「改めて報告する」という旨が短くまとめられた短い声明文だけが、彼女の意思を代弁した。
だが、その「改めての報告」が来ることはなかった。彼女は、陸上界から、そして公の場から、完全に姿を消した。
私は、陸上界に留まった。
それが自分への罰だと思った。逃げるのは簡単だ。陸上界を去り、どこか遠くで新しい人生を始めることもできた。だが、ここに留まって、人々の視線に耐え、二度と同じ過ちを繰り返さないこと。それが、彼女への、そして陸上界への責任だと考えた。
最初の一年は地獄だった。どこへ行っても、人々の視線が突き刺さる。「あのコーチだ」という囁き声。「選手を壊した人」という陰口。かつての仲間たちも、私を避けるようになった。
私は、それでも耐えた。そして、変わった。
指導は以前の3倍細かくなった。選手の身体の変化を、ミリ単位で観察した。少しでも異常があれば、すぐに休養を指示した。
選手が「大丈夫です」と言っても、私は決して許さなかった。「過保護すぎる」という批判もあったが、私は意に介さなかった。
選手を守ること。それ以上に大切なことはない。二度と、選手を壊すわけにはいかない。
徐々に、信頼は戻ってきた。私の元で育った選手たちが、怪我なく結果を出し始めた。インターハイで入賞する選手。大学駅伝で活躍する選手。そして、ついに国際大会で入賞する選手も現れた。「堅実な指導」「安全第一のコーチング」「選手の身体を第一に考える指導者」。評価は変わった。
だが私自身は、決して自分を許さなかった。
毎晩、夢を見た。彼女が倒れる夢。彼女の足首が折れる音を聞く夢。彼女が涙を流しながら「ごめんなさい」と繰り返す夢。私は、その夢から逃れることができなかった。
彼女のために、私はできる限りのことをした。
まず、バリアフリーの一軒家を購入した。広いリビング、車椅子でも使いやすいキッチン、段差のない設計。私は自分の貯金のほとんどを使い、さらにローンを組んで、その家を彼女に提供した。
生活に必要なものも、すべて私が用意した。電動車椅子、特注のデスク、リハビリ用の器具。彼女が少しでも快適に暮らせるよう、私は細部まで気を配った。
月に何度も訪れ、彼女の様子を確認した。掃除を手伝い、買い物を代行し、必要があれば病院への付き添いもした。
それは責任だった。贖罪だった。償いだった。
最初の頃、彼女は私に対して冷たかった。扉を開けても、挨拶もせず、視線も合わせない。私が話しかけても、必要最低限の返事しかしない。その態度に、私は何も言わなかった。むしろ、それが当然だと思った。自分は、彼女の人生を壊したのだから。
だが、時間が経つにつれて、彼女の態度は変わっていった。
私の献身を見て、彼女の心も少しずつ溶けていったのだ。ある日、彼女が小さく「ありがとう」と言った。また別の日には、私が淹れたコーヒーを「美味しい」と言って飲んだ。そして、ついに彼女が笑顔を見せた日、私は思わず涙ぐんでしまった。
「一緒に住もう」
彼女が初めてそう言ったのは、事故から一年半が経った頃だった。
私は、すぐに首を横に振った。
「それはできない」
「どうして?」
「あなたと幸せに暮らすために、あなたを壊したわけじゃない」
その言葉が、私の全てだった。
彼女は何度も言った。だが私は、決して首を縦に振らなかった。
「ねえ、朱里」
公園のベンチで、彼女が再び口を開いた。
「もう、過去のこと、忘れちゃおうよ」
私は彼女を見据える。彼女は、遠くの木々を見つめながら続けた。
「一躍時の人になったことも、バッシングを受けたことも、あなたが私を怪我させたって思ってることも。全部、忘れちゃおう」
「優希……」
「私、ずっと思ってたの。あの怪我は、私の責任だって」
彼女の声が、わずかに震えた。
「無理して走ったのは私。足の違和感を隠し続けたのも私。あなたが何度も休めって言ってくれたのに、聞かなかったのは私。だから、あなたのせいじゃない」
私の胸が、締め付けられるように痛んだ。彼女は、ずっとそう思っていたのか。自分を責め続けていたのか。
「それでも、止めるべきだったのは私だった」
私の声も震えた。
「私はコーチだった。あなたの身体を守る責任があった。でも私は、自分の夢に目が眩んで、あなたを守れなかった」
「だからって、ずっと責任を感じ続ける必要はないでしょう?」
彼女が車椅子で向きを変え、私を正面から見た。その目には、優しさと、決意が宿っていた。
「一緒に、新しく始めようよ。二人で。過去は過去として受け入れて、これからを一緒に生きていこうよ」
私は、俯いた。そして、声を震わせながら言った。
「忘れられない」
「私たちが一緒に積み上げてきた日々を。あなたが必死に練習した日々を。早朝のランニング。夕暮れのトラック。雨の日も、雪の日も、二人で走り続けた時間を忘れられるわけがない!」
私の声が、感情で揺れた。
「二人で夢を追いかけた時間を。あなたが初めて大会で優勝した日。私たちが抱き合って喜んだあの瞬間を。そして……」
私の目から、涙が一筋流れた。
「あの世界陸上の舞台に、あなたが立った瞬間を。スタートラインに並んだあなたの姿を。30キロ地点まで、先頭集団で走り続けたあなたの背中を」
彼女の目にも、涙が光っていたが、私は続ける。
「結果は最悪だったかもしれない。あなたの身体は、取り返しのつかないほど傷ついた。でも、あの舞台に立てたこと。世界中の選手たちと肩を並べて走ったこと。30キロ地点まで、誰よりも美しいフォームで走り続けたこと。それまでの全部を、忘れるなんて、できない」
私の涙が、次々と頬を伝った。
「不幸な結末だった。誰もが望まない、最悪の結末だった。でも……でも、私たちが描いた軌跡は、何よりも美しかった。だから……だから、忘れられない。忘れたくない」
風が吹いて、木の葉が揺れる音だけが聞こえた。秋の陽射しが、二人の影を長く地面に落としていた。
やがて彼女が、小さく笑った。
「朱里って、本当に頑固」
「……ごめん」
「でもね」
彼女が言った。その声は、とても優しかった。
「その頑固なところ、嫌いじゃない。むしろ、好き」
私は顔を上げた。彼女は、穏やかに微笑んでいた。涙の跡が残る顔で、それでも確かに笑っていた。
「じゃあ、忘れなくていい。全部、覚えててくれていい。美しかった日々も、苦しかった瞬間も、あの世界陸上のことも。全部、心に留めておいてくれていい」
彼女が手を伸ばし、私の手を握った。
「その代わり」
「責任を取って」
私は、彼女の目を見た。
「わざとじゃなかったんでしょ? 私を怪我させたの。あなたは、私を傷つけようと思って、あの決断をしたわけじゃない。だったら、責任を取ってよ。一緒に住むことで」
私は首を横に振った。
「責任を取るっていう言葉は、そんなに簡単に自分の罪を消す言葉じゃない」
私の声が震えた。
「あなたみたいな完璧な人と、幸せに暮らせる便利な言葉でもない。私は、あなたの人生を壊した。その事実は、どんな言葉でも消えない」
「完璧?」
彼女が苦笑した。
「私が? 走ることしかできなかった人間が? 怪我をして、何もかも失って、こうして車椅子に乗ってる人間が?」
「そんなこと……」
私が反論しようとすると、彼女が遮った。
「ないって言うでしょ? いつもそう言ってくれる」
彼女が私の手を強く握った。
「だから、ちゃんと見てて。私が、走ること以外でも生きていけるって、証明するから。陸上選手じゃない荒木優希として、ちゃんと生きていけるって、見せてあげるから」
だが、一緒の家に住むということへの答えは出なかった。
その日の帰り道、彼女が一本の木を指さした。
「あれ、見て」
私が視線を向けると、通りの端に、一本の木が立っていた。カエデやモミジのように鮮やかに色づいた木々に囲まれながら、その木は控えめに佇んでいた。派手さはない。だが、オレンジ色の落ち着いた葉が、夕日を受けて柔らかく輝いていた。
「あれ、桜の木」
彼女は説明を続ける。
「桜って、みんな春の木だって思ってる。ピンクの花を咲かせる、華やかな木だって。でも、桜は秋にもちゃんと色づくんだよ。春ほど派手じゃないけど、こうして静かに、優しい色で」
私は、その木を見つめた。確かに、華やかさはない。モミジやカエデのような鮮烈な赤もない。だが、その穏やかさが、心に染みた。優しく、温かい色合いだった。
「あの木と、私、似てると思う」
彼女が静かに言った。
私は黙って聞いていた。
「桜が満開になる春は、私にとって現役時代。世界陸上に挑んだ頃。あの頃の私は、満開の桜みたいだった」
彼女の声が、遠くを見るように響いた。
「ピンクの花が一斉に咲いて、みんなが見上げる。お花見みたいに、たくさんの人が私の周りに集まった。期待して、応援して、写真を撮って。私は、その視線を浴びて、輝いてた。少なくとも、自分ではそう思ってた」
私は、彼女の横顔を見つめた。
「でも私は、あの舞台で散った」
彼女の声が、わずかに沈む。
「世界陸上で、花が散った。満開だった桜が、一瞬で散り果てた。そうしたら、みんな私を見なくなった。昨日まで応援してくれた人たちも、笑顔で話しかけてくれた人たちも、みんな去っていった」
私が口を開こうとしたが、彼女は続けた。
「私ね、陸上しかできない人間だって、ずっと思ってた。走ること以外、何の取り柄もない。だから、走れなくなった私には、何も残らないって。花が散った瞬間、すべてに絶望した」
「解説の仕事のオファーがあった。タレントとしてテレビに出ないかって話もあった。スポーツキャスターの誘いも。でも、全部断った。だって、走れない私に、何の価値があるの? 怪我をした私を、誰が見たいの?」
私が咎めるように口を開こうとしたが、彼女はそれを制す。
「そう思ってたの。本当に。花が散ったら、もう誰も私を必要としない。そう思って、すべてを拒絶した」
彼女は私を見た。
「でも、あなただけは違った」
「あなただけは、私を気にかけてくれた。毎週訪ねてきてくれた。掃除を手伝ってくれて、買い物をしてくれて、ただそばにいてくれた」
「それは当然よ」
私が言った。声が震えていた。
「私があなたを……」
「壊したから?」
彼女が私を見る。その目は、真っ直ぐだった。
「それだけ? 責任感だけで、三年間も私のそばにいてくれたの?」
私は答えられなかった。
彼女は、再び桜の木に視線を戻した。
「今、『荒木優希』の名前を覚えてる人なんて、ほとんどいないと思う」
「『荒木優希』のことを考えてる人なんて、スポーツファンの中にも、もういないかもしれない。世界陸上で倒れた選手。それだけ。それが私の全て」
「そんなことない」
私が強く言ったが、彼女は微笑んだ。
「いいの。それでいいの」
彼女が言った。
「秋になって、注目されなくなった桜みたいに。他の木と比べて、派手じゃないから、誰も見上げない。それが今の私」
風が吹いて、桜の葉が一枚、二枚と舞い落ちた。夕日を受けて、その葉はオレンジ色に輝きながら、ゆっくりと地面に降りていった。
「いつか、葉も付かない冬が来るかもしれない」
彼女が言った。
「完全に忘れ去られて、誰も振り返らない。ただの木になる。でもね、それでもいいの。その後にまた春が来るから」
私は、彼女の言葉を静かに聞いていた。
「あの時みたいな、派手な春じゃないかもしれない。何万人もの人が見守る、華やかな春じゃないかもしれない。でも、確かな春が来る。陸上選手としての春じゃなくて、『荒木優希』っていう、ただの一人の人間としての春が」
彼女が私を見た。その目には、確かな光が宿っていた。
「その春を」
彼女が言った。
「あなたと一緒に迎えたい。二人で、静かに。誰も見ていなくてもいい。私たち二人だけの春を」
私は、もう言葉が出なかった。喉が詰まって、声が出せなかった。ただ涙が、次々と溢れてきた。
しばらくして、私はようやく言葉を絞り出した。
「もうあなたは、春を迎える間近よ」
優彼女が不思議そうな顔をした。
「私の……負けよ」
「朱里?」
彼女が驚いて私を見た。
「昔から、ずっと一緒にいたかった」
私は打ち上げる。声が震えていた。
「あなたがまだ選手だった頃から。練習を終えて、二人で疲れて笑い合った日々。レースの前夜、緊張するあなたを励ました時間。すべてが、愛おしかった」
彼女は黙って聞いていた。
「でも、意地を張ってた。責任とか、贖罪とか、そんな言葉で自分を守ってた。あなたと一緒にいたいという気持ちを、認めることが怖かった」
私の涙が、再び溢れた。
「だって、私はあなたを傷つけた。あなたの夢を壊した。そんな私が、あなたと幸せになる資格なんて……」
「ある」
彼女がはっきりと言った。
「資格なんて、最初からある。だって、私があなたを選んでるんだから」
私は彼女の目を見た。
「一度は、あなたと夢破れた女だけど」
私が言った。
「それでも、いいかな? こんな私でも、あなたのそばにいていいかな?」
彼女の顔が、ぱっと輝いた。涙が光っていた。でも、それは喜びの涙だった。
「もちろん」
彼女が答えた。声が弾んでいた。
「これで、あの寂しい家も、ようやく完成する。家具はあっても、心が足りなかった。でも、これであなたが来てくれる。本当の家になる」
「私もずっとあなたと同じ家で、同じ朝を迎えて、同じ夜に帰りたかった」
私は、初めて心から笑った。長い長い三年間を経て、ようやく笑えた。
二人は、夕暮れの道を二人だけの家へと向かった。彼女の車椅子を押しながら、私は何度も桜の木を振り返った。
「ねえ、優希」
「また、あの桜を見に来よう。春になったら」
「うん」と返事する彼女が微笑む。
「満開じゃなくても、ちゃんと春は来てる」
私が静かに言った。
「あなたの春は、もう始まってる。そして私は、いつかあなたが『散ったサクラ』なんて言葉を使わなくなるまで、ずっとそばで見守る。ずっと、一緒に」
彼女は何も言わなかった。ただ、私の手をそっと握った。
その手の温かさが、すべてを語っていた。
季節は巡り、冬が過ぎた。
長く厳しい冬だった。雪が降り、風が吹き、すべてが凍てついた。だが、二人で過ごした冬は、温かかった。
朝、私が起きると、彼女はもう起きてコーヒーを淹れている。二人で朝食を食べ、私は練習場へ向かい、彼女はそれを見送る。
夕方、再び顔を合わせて、今日あったことを話す。他愛もない会話。でも、それがかけがえのないものだと、私たちは知っていた。
そして、春が近づいてきた。
小春日和のある日、二人は再び、あの桜の木の前に立っていた。
桜はまだ満開ではない。だが、枝には小さな蕾が、いくつもついていた。ピンク色に膨らんだ蕾が、今にも開きそうに揺れていた。
「もうすぐ咲くね」
彼女が言う。
「ああ。もう少しだね」
私が答えた。
私たちは、他愛のない会話をした。今朝のニュースのこと、昨日読んだ本のこと、来週、私の教え子が出場する大会のこと。普通の会話。でも、幸せな会話。
ふと、私が遠くを見た。
小さな子供が、母親と一緒に走っている。無邪気な笑い声が、春の風に乗って聞こえてくる。その光景を見て、私は一瞬、躊躇した。でも、もう逃げない。もう、恐れない。
私は、言葉を紡いだ。
「私は、ずっとあなたの人生を壊したと思ってた」
彼女が私を見た。
「だから、責任を取ろうとしてた。贖罪をしようとしてた。でも……」
私は彼女の目を見る。
「今は、ただ一緒にいたい。それだけ。責任とか、償いとか、そんな言葉じゃなくて。ただ、あなたと一緒にいたいから、一緒にいる。それでいいんだって、ようやく思えるようになった」
彼女は、柔らかく微笑んだ。そして、静かに言った。
「私ね、ずっと『散った』って言い続けてたけど」
私が彼女を見た。
「本当は、終わった自分を認めるのが怖かっただけ。陸上選手としての自分が終わったことを、受け入れられなかった」
彼女は桜の木を見上げた。
「でも、今は分かる。終わりは、終わりじゃない。新しい始まりだって」
その時、風が吹いた。
桜の枝から、一枚だけ、去年の枯れ葉が風に舞って落ちた。茶色く乾いたその葉は、ゆっくりと地面に降りていった。
冬も、ちゃんと終わったのだ。
去年の葉が落ちて、新しい蕾が開こうとしている。それは、確かな証だった。季節は巡る。終わりがあれば、必ず始まりがある。
私は車椅子を押し始めた。公園を抜け、家へと続く道を。
もう、言葉は要らなかった。
ただ同じ季節を、同じ速さで、一緒に歩んでいく。
それが、二人の答えだった。
桜の木の蕾は、もうすぐ開く。
派手ではないかもしれない。世界中が注目するような、華やかな満開ではないかもしれない。
でも、確かに咲く。
二人だけの、小さな、けれど確かな春が。
私は、歩きながら思った。
彼女の春は、もう始まっている。陸上選手としてではなく、一人の人間として。そして、自分の隣で笑う、愛おしい人として。
それは、世界陸上の表彰台とは違うかもしれない。金メダルの輝きとは違うかもしれない。
でも、確かに美しい。
そして、これからも咲き続ける。
「ねえ、朱里」
彼女が言った。
「来年の春も、この桜を見に来ようね」
「うん。毎年来よう」
私が答えた。
「満開の時も、散る時も、紅葉する時も。すべての季節を、一緒に見よう」
彼女が微笑んだ。
桜の木は、静かに二人を見送っていた。枝についた蕾が、春の光を受けて、柔らかく揺れていた。
満開じゃなくても、ちゃんと春は来てる。
その言葉を胸に、二人は歩いていく。
同じ速さで。同じ方向へ。
桜の季節 大釋 空良 @mxxwk63225
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