第13話∶嵐の前の静けさと、松茸の土瓶蒸し
十月。神無月(かんなづき)。
日本中の八百万(やおよろず)の神々が出雲へ会議に出向くため、国中が「留守」になる月。
ここ鎌倉も例外ではない。いつもなら街を守っている社(やしろ)の神気が薄れ、どこか心許ない空気が漂い始める時期だ。
そんなある日の放課後。
古都宮(ことみや)紬(つむぎ)が『萬(よろず)相談所』の暖簾(のれん)をくぐると、いつもとは違う異様な気配が肌を刺した。
「……ッ、が、はっ……!」
苦しげな呻き声。
土間の上がり框(かまち)に、金髪の少年が崩れ落ちていた。
西園寺(さいおんじ)琥太郎(こたろう)だ。
いつもなら憎まれ口を叩いて出迎える彼が、今日は顔面蒼白で、脂汗を流して震えている。
「琥太郎君!?」
紬はカバンを投げ捨てて駆け寄った。
彼の体に触れようとして、ハッと手を引っ込める。
熱い。まるで高熱の鉄に触れたようだ。さらに、彼の学ランの胸元から、ドス黒い血管のような紋様が首筋に向かって這い上がっている。
「近寄るな、紬」
奥の間から、清水(しみず)が現れた。その表情はいつになく険しい。
彼は琥太郎のそばに膝をつき、眉間に指を当てた。
「……やはりか。『呪毒(じゅどく)』が回っている」
「呪毒? 風邪じゃなかったんですか?」
「神が風邪など引くものか。こいつは隠していたんだ。西の地で受けた、深刻な穢(けが)れをな」
清水は苦々しく吐き捨てた。
琥太郎が薄く目を開け、自嘲気味に笑った。
「へっ……バレちまったか。カッコ悪いぜ……」
「喋るな、馬鹿猫。霊核まで腐るぞ」
琥太郎の正体は、西の守護神・白虎だ。
本来なら強大な力を持つ彼が、ここまで追い詰められている。それはつまり、西の方角で「神を殺すほどの何か」が起きているという証明だった。
「清水さん、どうすれば……! 私にできることはないですか?」
「……神気を与えれば一時的には抑えられるが、今の時期は俺も力が不安定だ。神無月だからな」
清水は悔しげに拳を握った。
土地神である彼もまた、この時期は結界の維持だけで手一杯なのだ。
「食い物だ」
清水が顔を上げた。
「滋養があり、香りが強く、邪気を払う力を持った『秋の王様』が必要だ。それがあれば、こいつの自己治癒力を底上げできる」
「香りが強くて、秋の王様……」
紬の頭に、一つの食材が浮かんだ。
高価すぎて普段は手が出せないけれど、今は緊急事態だ。
紬は財布を握りしめた。
「買ってきます! 八百屋のおじちゃんに頼み込んでくる!」
◇
三十分後。
紬は息を切らして台所に戻ってきた。
手には、桐箱に入った二本のキノコ。
**『松茸(まつたけ)』**だ。
なけなしのバイト代と、清水のへそくり(壺を売った金)を合わせて手に入れた、国産の極上品である。
「よし……やるぞ」
紬は呼吸を整え、調理に取り掛かった。
松茸は「香り」が命だ。水洗いは厳禁。
濡らしたキッチンペーパーで、表面の汚れを優しく、赤ちゃんの肌を拭うように拭き取る。
石づきを鉛筆削りの要領で削り落とす。
包丁は使わない。手で裂く。
繊維に沿って裂くたびに、松茸特有の、土と森の芳醇な香りが台所に爆発的に広がる。
(いい香り……! これならいける!)
メニューは二品。
『松茸の土瓶蒸し』と『松茸ご飯』。
弱った体には、液体と炭水化物が一番吸収されやすい。
まずは土瓶蒸し。
一番出汁(だし)に、塩と薄口醤油、ほんの少しの酒を加える。
具材は松茸、海老、銀杏、三つ葉。そして、名脇役の**『酢橘(すだち)』**。
土瓶に具材と出汁を入れ、火にかける。
沸騰直前で火を弱めるのがコツだ。グラグラさせると香りが飛んでしまう。
次に松茸ご飯。
研いだ米に、昆布出汁、酒、醤油、塩。
その上に、裂いた松茸をたっぷりと敷き詰める。
炊飯のスイッチを入れる代わりに、土鍋を火にかける。
(元気になあれ。悪いものは飛んでいけ)
紬は鍋の前で手を合わせ、祈りを込めた。
いつもの光の粒子が、湯気と共に立ち上り、松茸の香りを依代(よりしろ)にして部屋中に充満していく。
それは単なる料理の匂いを超え、強力なアロマテラピーとなって空間を浄化し始めた。
「……ん、ぅ……」
居間で寝かされていた琥太郎の呼吸が、少し楽になったようだ。
やがて、土鍋からパチパチという音が聞こえ始めた。お焦げができた合図だ。
火を止め、蒸らすこと十分。
「お待たせしました」
紬は土瓶と茶碗をお盆に乗せ、琥太郎の枕元へ運んだ。
彼の上半身を清水が支え、起こしてやる。
「……いい匂いだな。森の中にいるみてぇだ」
琥太郎が虚ろな目で笑った。
「喋らなくていいから。まずはこれ」
紬は土瓶の蓋を取り、お猪口(ちょこ)に出汁を注いだ。
黄金色のスープ。
琥太郎が震える手でそれを口に運ぶ。
ズズッ……。
「……はぁ」
深いため息。
松茸の鮮烈な香りと、カツオ出汁の旨味。それが弱った内臓に染み渡り、冷え切った芯を温めていく。
次に、酢橘をひと搾り。
爽やかな酸味が加わり、味がキリッと引き締まる。
「美味い……。生き返るぜ」
「ご飯も食べて。松茸たっぷりだよ」
茶碗によそった松茸ご飯。
蓋を開けた瞬間、湯気と共に立ち上る香りの暴力。
お焦げの香ばしさと、松茸の風味を吸い込んだ米の甘み。
琥太郎は一口食べると、目を見開いた。
「……っ!」
彼の胸元の黒い紋様が、ジュウウ……と音を立てて薄くなっていく。
松茸の持つ強い「陽」の気が、呪毒の「陰」を中和しているのだ。
完食する頃には、彼の顔には赤みが戻り、金色の瞳に力が宿っていた。
「……サンキュな、紬。マジで助かった」
「よかった……!」
紬は安堵のあまり、へなへなと座り込んだ。
清水もホッとしたように肩の力を抜く。
「ふん。高い松茸を使った甲斐があったな。代金は出世払いで請求してやる」
「ケチくせぇ龍だな。倍にして返してやるよ」
いつもの軽口が戻ってきた。
これで一安心。
そう思った、次の瞬間だった。
ヒュォォォォォォ――ッ!!
突如、家の外で暴風のような音が響いた。
いや、風ではない。何かが空気を切り裂く鋭利な音だ。
ガタガタガタッ!
相談所の雨戸が激しく揺れ、障子がビリビリと震える。
「な、なに!?」
「……チッ。嗅ぎつけてきやがったか」
琥太郎の表情が一変した。
清水が立ち上がり、素早く紬を背に庇う。
「来るぞ! 結界が破られる!」
ズバァッ!!
玄関の引き戸が、紙屑のように切り刻まれて吹き飛んだ。
風と共に侵入してきたのは、三匹の「影」だった。
小柄だが、両手に巨大な鎌(かま)を持ち、つむじ風を纏った獣たち。
『キヒヒッ! ミツケタ、ミツケタ!』
『白虎ノ首、トッタラ俺タチガ神ダ!』
『弱ッテル! 臭ウゾ、死ニカケノ臭イガ!』
「鎌鼬(かまいたち)……!」
紬が叫ぶ。
彼らは風に乗って現れ、人を切り裂く妖怪だ。
だが、普通の鎌鼬ではない。その目は赤く充血し、口からは黒い瘴気を垂れ流している。琥太郎を蝕んでいた「呪い」と同じ気配だ。
「西から俺を追ってきやがったか。……しつけぇ野郎どもだ」
琥太郎が立ち上がろうとするが、膝が折れて倒れ込む。
松茸で回復したとはいえ、戦闘ができる状態ではない。
「寝ていろ、駄猫。ここは俺の庭だ」
清水が前に出る。
その指先に水流が渦巻き、青い光を放つ。
しかし――その光はいつもより弱々しく、明滅していた。
(清水さん……?)
紬は気づいた。
神無月の影響は、清水にも出ている。
土地神の力が弱まるこの時期に、他所(よそ)から来た強力な「穢れ」を持った妖怪と戦うのは、あまりに分が悪い。
『青龍ダ! 青龍モ喰ッチマエ!』
『神ノ肉! ウマソウダ!』
鎌鼬たちが一斉に跳躍した。
目にも止まらぬ速さで、真空の刃が清水へと迫る。
「くっ……!」
清水が水の防壁を展開するが、鋭利な鎌の一撃がそれを切り裂き、彼の頬に赤い筋を作った。
血が流れる。
「清水さん!!」
「出るな紬! 結界の中にいろ!」
清水は紬と琥太郎を守るように立ち塞がるが、三匹の連携攻撃に防戦一方だ。
このままでは、ジリ貧になる。
琥太郎は動けない。清水も力が制限されている。
守られるだけでは、全滅する。
(どうする? 何か私にできることは……)
紬は必死に思考を巡らせた。
第一章の戦い。あの大百足との決戦。あの時、私は何をした?
料理を作った。彼に力を与えた。
でも、今は悠長に料理をしている時間はない。敵は目の前だ。
――いや、違う。
料理だけじゃない。
私は、「囮(おとり)」にもなれる。
紬の脳裏に、危険すぎる作戦が浮かんだ。
この鎌鼬たちは、「神の肉」や「霊力」に飢えている。
ならば、この場で一番美味しそうな匂いを放っているのは――。
「……清水さん、ごめんなさい。言うこと聞けなくて」
紬は小さく呟くと、隠し持っていた「あるもの」を取り出した。
それは、さっき調理に使った**『松茸の残り(石づき)』**だ。
香りが強い部分。
紬はそれを握りしめ、結界から飛び出した。
「こっちよ! 腐ったイタチたち!!」
彼女は思い切り松茸を放り投げ、台所の方へと走った。
強烈な香りが動く。
そして、紬自身から溢れ出る最高純度の霊力。
『ッ!? ウマソウナ女ァァァ!!』
『アッチダ! 先ニ女ヲ喰ウゾ!』
鎌鼬たちの注意が、一瞬にして清水から紬へと逸れた。
三匹が方向転換し、紬へと殺到する。
「紬ッ!!」
清水の絶叫が響く。
だが、紬の目は据わっていた。
ただ逃げるんじゃない。
彼らを「調理場(テリトリー)」へ誘い込むのだ。
そこには、七輪、油、包丁――料理番の武器が揃っている。
(神様が弱ってるなら、人間が頑張るしかないでしょ!)
嵐の夜。
相談所の台所を舞台に、料理番とあやかしたちの、命懸けの鬼ごっこが幕を開けた。
(第13話 完)
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