盤上の死神は、白く笑う
@lulu0418
第一章 初手
視界のすべてを、灰色の怒涛が塗りつぶしていた。
断崖に砕ける波の音は、巨大な獣の咆哮に似ている。北海に浮かぶ孤島、通称「盤の島」へ向かう小型船の中で、蓮見(はすみ)は手元のチェスボードを眺めていた。船が大きく揺れるたびに、磁石付きの駒が微かな音を立てる。
「……お顔の色が優れませんね、蓮見先生。お疲れではないですか」
隣で声をかけてきたのは、今回の依頼主の秘書、阿久津(あくつ)だった。眼鏡の奥の瞳には、名探偵に対する純粋な敬意が宿っている。
「揺れには慣れていない。だが、思考を止める理由にはならないよ。九条氏が私を呼んだのは、談笑するためではないだろうからね」
蓮見の声は、低く、落ち着いていた。彼は「名探偵」として、この数年でいくつもの難事件を解決に導いてきた。複雑に絡み合った人間関係を紐解き、盤上の詰みを見出すように真相を暴く。それが世間が彼に寄せる期待であり、蓮見もまた、その期待に応えるべく最善を尽くしてきた。
船が島の桟橋に滑り込む。目の前にそびえ立つのは、白と黒の外壁が市松模様を描く奇妙な洋館、『六駒館(ろくくかん)』。かつてチェス界で「絶対王者」と称された老人、九条兼重(くじょう かねしげ)の居城だ。
エントランスホールの吹き抜けには、巨大なチェス盤を模した床が広がっていた。そこには、遺産相続を巡って呼び集められた九条家の親族たちが、互いを探るような刺々しい視線を交わして立っている。
「……また余計な人間を招いたものね。お父様も何を考えているのかしら」
不機嫌そうに煙草を燻らすのは、長女の九条絵里奈。
「姉さん、滅多なことを言うもんじゃない。彼はあの蓮見探偵だよ。父さんが信頼して呼んだ方だ」
取りなすように笑うのは、次男の九条慎二。しかし、その笑顔にはどこか打算的な響きがあった。
その傍らで、怯えたように蓮見を見つめる若い女性は、里中志保この館のメイド。そして、ソファに踏んぞり返り、露骨に舌打ちをしたのが長男の九条貴広だ。
蓮見は彼らの間に流れる険悪な空気を肌で感じ取り、さりげなく視線を巡らせた。探偵としての直感が、この閉ざされた空間に漂う「悪意」を敏感に察知していた。
(この島で、何かが起きようとしている……)
その夜、晩餐会の席で九条兼重は、車椅子から一同を見渡し、震える声で宣言した。
「私の遺産、二十億……そのすべてを、今から行う『ゲーム』の勝者に譲る。この館に隠された、伝説の駒『黄金のキング』を見つけ出した者が勝者だ」
広間に緊張が走る。
「ただし、この中には私の『キング』を盗もうとする不届き者が紛れ込んでいる可能性がある。蓮見先生、君の仕事は、その者が誰かを見極め、私の遺産と尊厳を守ることだ」
嵐の音が強まった。窓を叩く雨音は、まるでもうすぐ始まる惨劇を予見しているかのようだった。
蓮見は自室に戻り、一人でチェス盤の前に座った。盤上に並ぶ白と黒の駒。彼は白のポーンを一歩進め、深いため息をつく。
「悪意の正体を見極めなければ……手遅れになる前に」
これが、長い夜の始まりだった。名探偵・蓮見にとって、最も過酷で、最も不可解な事件の幕が、今上がった。
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