第1話(2) 女だと、言えない(春風がつかせたウソ)

 ――で、めでたく大阪の専門学校へ通うことになった、2010年の春――

 

 特急電車に揺られること4時間。

 まんまと憧れの大阪に移住することに成功した亜希は、新大阪駅のホームに降り立つと小さくガッツポーズした。


 亜希は右に目をやった。

 

〘……さすが大阪……〙


 左にも目をやった。

 

〘これだけ人がおれば……〙

 

 と怪しげに笑みを浮かべる――



〘自分のことを好きになってくれるお姉さんの、

 1人や、2人や、もしかしたら3人、4人も……!〙



 ピンコーン! ガシャンッ!



「す、すみません…」

 妄想に気を取られた亜希は改札を通るのに失敗した。


〘イカンイカン、期待に胸が高鳴り過ぎじゃ〙


「ふんふん~♪」

「うわっ危なっ」


 と、反省した亜希が、傘をぐるぐると回しながら構内を歩いていた、その時――

 


「うわ、めっちゃ美人!」



〘そう、できれば美人のお姉さんの――えっ、美人?〙


 『美人』と聞こえて、亜希は足を止めた。

 ふと見ると、周囲のサラリーマンたちが亜希の後ろを見ながら、口々に「かわいい」とこぼしていた。

 

〘大阪の美人? ――はたしていかほどの――〙


 くるりと後ろを振り返る亜希。

 と、向こうで、肩にトートバッグを掛けた女の子が

「あっ」と小さく声を上げた。


 ばささーっ!


 女の子の手から大量のプリントが床に落ち、周りにいた男共が一斉に彼女の足元に群がる。

「俺が拾うっ」

「いや俺がっ!」


〘そ、それほどの美人っ?!〙


 大阪のリーマンたちの勢いに呆気に取られる亜希。

 と、足元に、すっ……と1枚のプリントが流れてきた。

 

「…ん?」

 拾い上げると、『会計学』の文字……何やら難しそうな問題が載っていた。

「勉強のプリント……?」


 亜希が拾ったプリントに気を取られている間、女の子はサラリーマンたちからにこやかにプリントを受け取りつつ、しかしその後の誘いにはつれなくフイ、と背を向けていた。


「どうぞ!」

「ありがとうございます」

「あの、これ僕の連絡先――『30代で家が建ち、40代で墓が立つ』って聞いたことあります? 僕、あの超優良企業の――」

「はは、結構です。ありがとうございました」フイ。


「あれー? 1枚足りん」


〘うげ、きれい……〙


 亜希は首を傾げる女の子の、その均整の取れた後ろ姿にドキリとした。

 まっすぐと落ちた薄茶色の髪の遊ぶ細い肩――

 その肩から彼女の細い腰までをなぞるように薄手のニットがやわらかに落ち、 裾の下に淡いブルーの細身のジーンズがすらりと続いていた。


「あの、こっちにも落ちて……」


「あ。」


 亜希が気後れしつつ声を掛けると、彼女が気付いて振り返った。


 薄茶色の髪がサラとこぼれ、耳元でシルバーのピアスが揺れる――

 彼女がにこりと笑った瞬間――亜希の心に、ぴゅーと春風が吹いた。



〘――す、好きかも知れん、大阪……!〙



 左右に流れた薄茶色の髪から覗く、ゆるやかに垂れた瞳。

 にこりと笑う彼女の、その横長の深く大きな瞳に見つめられ、亜希はぽうっとなった。


「ど、どうぞ…」

「ありがとうございます」

 春風に吹かれた亜希は、舞い上がりながら、プリントを差し出した。


 その時どこからともなく本物の風が吹いてきて、プリントもヒュッと舞い上がった。


「あっ」同時に声を上げ、見上げる二人。


「てやっ」ぱしっ!

「あっ」

 さっきのリーマンがジャンピングキャッチした。


「……ありがとうございました」

「いえ、あ、よかったら連絡先――」

「結構です」

 乱れたネクタイを直しつつもう一度ナンパを試みるリーマン。

 彼女は距離を取りつつ、いそいそとバッグにプリントを仕舞った。


「…じゃ。」にこ。


 彼女は亜希に礼と笑顔を残すと、去っていった。

 

 亜希の心の中にはぴゅーと春風が吹き続けていた。

 横で連絡先を握りしめながら彼女を見送るリーマンを肘で押しのけつつ、亜希も彼女の後ろ姿に小さく手を振ったのだった。



 ***


 

〘これが大阪のお姉さん――いや大学生? 年下かも? 兎にも角にも高まる期待……!〙


 スタスタ。

 

 スタスタ。


 と、亜希が浮かれながら駅の構内を歩いていると……

 ――目の前の人影がピタ、と足を止めて、亜希をくるりと振り返った。


「あの、なんでついてくるんですか?」

「えっ?」


 唐突に指摘され、亜希は狼狽うろたえた。

 振り返ったのは、先ほどの美人のお姉さんだった。

 気付かぬうちにお姉さんの後を歩いていたらしい。


「こっち女子トイレですけど!」

「ええっ?!」

 お姉さんは怪訝な顔をして女子トイレのプレートを指差した。

 

〘…って、わかってて女子トイレに来とるんじゃーい!〙


「いや、なんでって…」

 苦笑いを浮かべる亜希。が、お姉さんは騒ぎ出した。


「えっ、もしかして中に入ろうとしとった? えっ、もしかして、チカン?!」

「えっ?! いや、ちが…っ!」

 亜希は焦った。

 お姉さんはもはや、亜希を疑いの眼差しで睨み付けていた。


「じっ、自分は――!」

 言いかけて、口をつぐむ。「女」と言ってしまえば済む話、だが……



〘……い、言えん……!〙



「…!」

 亜希を睨み付けるお姉さん。その深い瞳に、亜希は口を縛り、呑み込んだ。


 べつに男になりたいわけではないが、かわいい女の子の前ではなんとなく男のフリをしていたい――それは多分いくらかの『期待』と、そして――


「駅員さん、この人です!」

「失礼、あなたがチカンですか? ちょっとこちらまで…」

「…クソ!」

 亜希が言い淀むうちに駅員がやってきてしまい、亜希は逃げるようにその場を去った。


〘クソ…〙

 亜希は自分のセクシャリティを呪った。

 男の格好をしている自分が、男と間違われてしまうのは仕方ない。

 だが、だからといって、女性らしい格好もしたくないし、気になる女性に簡単に女だと明かしたくもない――。

 

 

 それから亜希は別の女子トイレを探した。

 今度は男と間違われぬよう、不本意だが、肩をなよっとさせて、小指も無駄に立てた。

 「えっ…あの人、女、かなぁ…?」女性たちのそんな視線を感じながらも、問い詰める隙を与えぬようさも「私、女ですけど?」と言った顔で女子トイレの奥へと入り込んだ。

 

〘よし、これで……!〙


「キャーッ、男ーっ?!」

「お、女ですーっ!」



 ***


 

 サー…


「嫌いかもしれん、大阪……」


 ロータリーに出た亜希は、どんよりとした空を見上げると、遠い目をしてつぶやいた。

 地元でも女子トイレで男に間違われることは度々あったが、チカンにまで間違われたのは初めてだ。

 せっかくの大阪初日に散々な目に遭って、その上、雨に降られるなんて。


 ――そう、天気予報では晴れのはずだったのに、外に出ると雨まで降り始めていた。



〘まーこんなこともあろうかと、傘は手持ちにしたけどさ……〙


 心の中でぼやきつつ、気を取り直して手に持っていた傘の紐を解く。

 と、近くから、


「うーん」


 と悩ましい声が聞こえてきて、亜希は顔を上げた。


〘うげっ!〙


 薄茶色の髪の――さっきのチカン騒ぎの彼女が、少し離れたところに立っていた。


 ギクリとした亜希だったが、見ると、彼女は手のひらに雨粒を受けて困った顔をしている。

 彼女は屋根のあるところで雨の降るのを見上げ、この後の天気を案じながら、濡れて帰るべきか、それとも雨が止むのを待つべきかを思案しているようだった。

 先ほどは男たちの視線を集めていた彼女だったが、今はみんな雨に気を取られているのか、彼女を気に掛ける男性もいないようだ。


〘……年下、ぽいかな……〙


 こうして見ると、心配そうに空を見上げる彼女はさっきより幼く見えた。


「…」

 亜希はチラ、と自分のカバンに目をやった。

 実は、折りたたみ傘もカバンに入れて持ってきていた。

 一瞬渡してやろうか……と過ったが、思い留まった。


〘かわいそうやけど――また騒がれたらかなわんし〙


 そう思い直して、亜希は傘を開いた。

 傘で顔を隠し、彼女の脇を抜けて、ぴちゃ、と歩道に出る。

 彼女の気配が後ろに遠ざかり、ほっと胸を撫で下ろした、その時。

 

 ザーッ!

 

「えっ!」

「えっ!」


 急に大降りになり、彼女と亜希は、一斉に声を上げた。

 

「えーっ嘘やん! 最悪~!」


「…」

 後ろで彼女のわめき声がする……。亜希は溜め息を吐くと、くるり、ときびすを返した。


「あの」

「うわっ、さっきの?! ついてきたっ?!」


 声を掛けた亜希に気付くなり、彼女は身構えた。


「ちがうし! それ誤解やから!」


 だが今度は亜希も、強く訴えた。

 が、身構えたままの彼女に、すぐに溜め息を吐いた。


「…まぁ、別にもうどっちでもいいよ」

 亜希は一度横を向いて首の後ろをさすると、彼女に折りたたみ傘を差し出した。


「よかったらこれどうぞ。古いし、どうせあんま使わないんであげるよ」


 彼女はきょとんとした顔で、折りたたみ傘を、次いで亜希を見た。

 そしてにこりとする亜希に、ニ度瞬きをした。

 それからもう一度瞬きをしながら折りたたみ傘と亜希に目をやると、礼を言いながら素直に傘を受け取った。


「…ありがとう、ございます」


 そんな彼女を見て、亜希は最後にもう一度彼女に笑顔を見せると、背を向け、その場を後にした。

 そして歩き出してすぐに後悔するのであった。


〘ま、また女って言えんかった…!〙



 ***



「はは、ほんまに貰ってよかったんかな? 悪い人ではなさそうやけど……」


 遠ざかっていく亜希の後ろ姿を見届けながら、薄茶色の髪の彼女はこぼした。

 片眉を上げながらも、その口元が少しだけほころぶ。


 が、すぐに違和感に首を傾げた。

「でもなんか、にこってした時……」


「ま、えーか。念のため家つけられんように、ウロウロしてから帰ろ」

 彼女はそう言って折りたたみ傘をバッグに仕舞うと、駅の中へと戻っていった。

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