最初の味見は、いつも君に
kokubo
第1話「誰かの視線と、私の嘘」
教室の後ろから、誰かの視線を感じた。
振り向かない。振り向いたら、その視線の主が分かってしまう気がして。
分かったら、自分の心まで見透かされてしまう気がして。
「じゃあ、保健係――誰か、やってくれる人いる?」
担任の声が、四月の教室に落ちた。
高校二年生のクラス。まだ新品の匂いが残っていて、机の天板には白い保護フィルムが貼られたまま。
窓際のカーテンは折り目が固く、黒板消しの粉が少しだけ舞う音がする。
誰かが周りを見回す。誰かが笑って肩をすくめる。
その"間"に――私の手は、勝手に上がっていた。
「はい、結城」
担任が迷いなく指す。
私は座ったまま、反射みたいに笑ってうなずく。
「はい。やります」
声が明るすぎて、少しだけ浮く。
けれど教室の空気は、浮いたものをすぐに飲み込んでくれる。
そして――後ろの視線が、消えた。
「助かるなあ。じゃあ、クラス委員も――」
「はい」
「購買当番は?」
「はい」
「プリント配布――」
「はい」
拍手が起きるわけじゃない。
でも、なにかが"丸く"収まっていく気配がある。私はその気配が好きだった。誰も困らない。誰も嫌な顔をしない。自分がそこにいる意味が、薄い紙みたいに一枚、ぴたりと貼られる。
「すごいね」
隣の席の女の子が笑った。れいな。去年から同じクラスで、入学式の日に私が「髪かわいいね」って言ったら、すぐ仲良くなった子。まつ毛が長くて、声が少しハスキーで、何でもズバッと言う。
「え、全然。大丈夫だよ」
私はまた、笑ってしまう。
大丈夫、の形をした笑顔。癖みたいに。
その時だった。
教室の後ろ――窓際の列の、さらに一番奥。
周防秋穂が、顔を上げた。
整えた髪が、春の光を薄く跳ね返す。
目つきは鋭いわけじゃない。けれど視線がまっすぐすぎて、誰かを迂闊に近づけない感じがする。
彼女は、手を上げない。
笑わない。
何かを言わない。
ただ――私を見た。一度だけ。
その視線が、教室の温度を少しだけ変えた気がした。
机の上に広げているのは、教科書じゃない。
薄い紙の束。表紙に小さく「PATISSERIE」と英字が見える。
ページの端から、色の違う付箋が何枚も出ている。黄色、青、ピンク。
角が丸まって、何度も開かれた痕。
――何を読んでるんだろう。
問いが浮かぶ。
答えを探そうとした瞬間、秋穂は視線を戻した。
私との間に、また透明な壁が立つ。
近寄れない。
でも――目が離せない。
理由は分からない。
ただ、彼女の存在だけが、教室の中で「温度」を持っている気がした。
私が合わせて均している温度とは、違う温度。
誰にも合わせていない温度。
私はまた担任の方へ向き直る。
空気の中で、私の「はい」が軽く弾む。
教室の温度が、私の笑顔に合わせて均されていく。
でも――胸の奥で、小さく何かが擦れる音がした。
入学してすぐのクラスは、まだ形がない。
誰と誰が仲良くなるのか、誰が中心になるのか、まだ決まっていない。だからみんな、ちょっとずつ試す。声の大きさも、笑い方も、距離の取り方も。
私はその"試す"のが得意だった。
「それ似合うね」
「わかる、私もそう思う」
「え、すごい! やってみたい」
相手のいいところを見つける。
言葉にして返す。
相手の輪郭に合わせて、自分の輪郭を少しだけ丸くする。
丸くするのは、怖さを減らすためだ。
角ばっていたら、ぶつかる。ぶつかったら、嫌われるかもしれない。
だから丸くする。
丸い方が安全。
れいなはそのやり方を、面白がっていた。
「美春ってさ、優しいよね。なんか、どこでも生きてけそう」
昼休み、教室の窓際でパンをかじりながら、れいなが言った。
私は笑って、否定しない。
「そうかな」
「うん。……でもさ」
れいなが少し首を傾ける。
噛みちぎったパンの端が、唇の脇に当たって、れいなは指で拭った。
「優しいけど――なに考えてるか、わかんない時ある」
胸の奥が、ひゅっと縮む。
でも私は、表情を変えない。
「え、なにそれ」
「いや、悪い意味じゃなくてさ。こう、いつも"いいよ"って言うじゃん。たぶん本当にいい子なんだけど、逆に怖いっていうか」
れいなは笑って言う。
怖い、の言い方は冗談っぽいのに、私は冗談として受け取れない。
「そんなことないよ」
私はまた、笑う。
「ただ、合わせるのが好きなだけ」
"好き"の形にしてしまえば、平気になる。
そう思ってしまう癖がある。
その後ろで、周防秋穂は静かに席を立った。
昼休みの教室はざわざわしているのに、彼女の動きだけ音がしないみたいに見えた。
私は、目だけで追ってしまう。
秋穂は鞄を肩に掛けると、誰にも声をかけずに教室を出ていった。
廊下に出る瞬間、ドアがカタン、と小さく鳴った。
その音が、妙に耳に残る。
◇
放課後。
私は黒板の前に立って、今日の配布物を人数分に数えていた。プリントの角が指に当たって、紙の乾いた感触がする。
保健係の仕事はまだ始まったばかりなのに、クラス委員の業務連絡、購買当番のシフト、委員会の提出物――"頼まれごと"は勝手に増える。
「結城さん、これもお願いできる?」
「うん、いいよ」
「結城、ついでにこれも」
「うん、いいよ」
「ごめん、これ今日中って言われた」
「うん、いいよ」
口癖みたいに、うん、いいよ。
断る理由が見つからない。
断ったら、空気が尖る。
尖った空気が怖い。
れいなが言った。「やりすぎじゃない?」
でも私は笑って返す。
「大丈夫、大丈夫」
大丈夫の二回目で、本当に大丈夫になる気がする。
ならないのに。
教室の窓の外、グラウンドでは運動部が走っている。笛の音が遠くに聞こえる。ボールが弾む音が、風に混じる。
ふと、私の視線が窓際の席に落ちた。
秋穂の机は、きれいだった。何も置かれていない。引き出しも、きっと整頓されている。
彼女の存在は、教室の温度を変えない。
むしろ、そこだけ少し冷たい。
誰とも混ざらず、混ざらせない。
混ざらない、って、どんな気持ちなんだろう。
私はプリントをまとめて、鞄に詰め込んだ。
帰る準備をする。れいなは友達と連れ立って先に出ていった。教室の空気が少しずつ抜けていく。
「じゃーね、美春!」
「うん、またね!」
私は笑って手を振って、最後に一人になる。
その瞬間、教室は広くなる。
机と椅子の隙間が、急に"間"に見える。
蛍光灯のジジ、という微かな音が、やけに大きい。
私は鞄を肩に掛けて、廊下へ出た。
放課後の廊下は、誰かの笑い声が遠くに残っている。
階段の方から、上靴が擦れる音。
私は一人で歩く。
誰とも話していないのに、口角だけは上がったまま。
笑顔を外すタイミングが分からない。
外したら、急に空っぽが見えそうだから。
校門を出ると、夕方の空気が肌に触れる。
私はようやく、ふう、と息を吐いた。
――私、今日、なにが楽しかったんだろう。
問いが浮かぶ。
答えは出ない。
私は歩きながら、また笑いそうになる。
"いい子"でいるのは、上手い。
でも、"自分"でいるのは、たぶん下手。
◇
昼休みの図書室は、教室とは別の温度があった。
人が少なくて、言葉が少なくて、音が少ない。
少ないからこそ、ひとつひとつがよく聞こえる。
本を棚から抜く音。
椅子の脚が床を擦る音。
ページをめくる乾いた音。
そして――ペン先が紙を走る、細い音。
その音の中心に、秋穂がいた。
窓際の席。光が斜めに落ちる場所。
秋穂は本を開いて、黙々と読んでいる。
あの日、教室で見えた英字の本と同じもの。表紙はシンプルで、付箋がやっぱり何枚も貼られている。黄色、青、ピンク。角が丸まって、何度も開かれた痕がある。
――読み込んでる。
私はそう思った。
ただの"好き"じゃない。
好きの先に、目的がある読み方。
秋穂はページをめくる。
紙が擦れる音が、静かな図書室の中で響く。
それから、ノートに何かを書き留める。
カリカリ、とペンの音。迷いがない。線がまっすぐだ。
何を書いているんだろう。
レシピ? 配合? それとも――
私は本棚の陰から、その横顔を見てしまった。
秋穂の目は、本にだけ向いている。
誰も見ていない。誰にも見られていない。
その孤独が、なぜか綺麗に見えた。
顔立ちの美しさじゃない。
集中の無駄のなさ。
誰にも見せない努力を、当たり前みたいに積んでいるところ。
私が"空気"に合わせて形を変えている間、
秋穂は、ひとつの形を削っている。
――私には、できない。
その思いが、喉の奥にひっかかる。
羨ましいのか、憧れなのか、嫉妬なのか。
名前のつかない感情が、胸の奥でもやもやする。
秋穂が、ふっと顔を上げた。
私は反射的に本棚の影に隠れる。
心臓が跳ねる。見つかったらどうしよう。
でも、秋穂の視線は私を探さない。
ただ窓の外を見て、小さく息を吸って、また本に戻る。
その動きが、まるで儀式みたいだった。
一度だけ外の世界を確認して、また自分の世界に潜る。
私は、その儀式を邪魔したくなくて、声をかけられなかった。
代わりに、棚から適当な本を一冊引き抜いて、カウンターへ向かう。
図書委員の生徒が、無言でバーコードを読み取る。
本のタイトルも確認しないまま、私は受け取った。
ドアを閉めるとき、カタン、と小さく音がした。
秋穂は顔を上げなかった。
それが、少しだけ寂しくて。
少しだけ、安心した。
私は借りた本の表紙を見た。
『フランス菓子の歴史』
――なんで、こんな本を。
でも、返しに行く勇気はなかった。
返したら、また秋穂の視界に入ってしまう。
入ったら、私の心が見えてしまう気がする。
私は本を鞄に押し込んで、廊下を歩いた。
◇
その夜、私は借りたばかりの本を開いた。
ベッドに座って、膝の上に本を置く。
『フランス菓子の歴史』
今日、図書室でなんとなく手に取った本。表紙は古めかしくて、ページは少し黄ばんでいる。
なんで、こんな本を借りたんだろう。
理由を探しても、見つからない。
ただ――秋穂の机の上にあった本の、英字の文字が頭に残っていた。
PATISSERIE。製菓。
私は、お菓子作りに興味なんてなかった。
食べるのは好きだけど、作る側には立ったことがない。
レシピを見ても、分量を測るのが面倒で、途中で投げ出してしまう。
なのに、この本を開いている。
最初のページには、フランスの古い街並みの写真。
石畳の道、小さな店、ショーウィンドウに並ぶ色とりどりのケーキ。
文章は難しくて、読むのに時間がかかる。
でも、なぜか目が止まる。
「菓子職人は、味を記憶する。
一度作った菓子の温度、湿度、焼き色、すべてを体に刻む。
それは、誰かの幸せを再現するための、職人の儀式である」
――儀式。
その言葉が、胸に引っかかる。
今日、図書室で見た秋穂の姿が、頭に浮かぶ。
ノートに何かを書き留める手。
迷いのないペンの動き。
窓の外を一度だけ見て、また本に戻る仕草。
あれも、儀式だったのかな。
秋穂は、何を記憶しようとしているんだろう。
何を再現しようとしているんだろう。
誰の幸せを、作ろうとしているんだろう。
――知りたい。
その思いが、急に強くなる。
秋穂のことを、もっと知りたい。
彼女が何を考えて、何を目指して、何に夢中になっているのか。
でも、どうやって?
教室では、誰とも話さない秋穂。
図書室では、一人で本を読んでいる秋穂。
私が話しかけたら、きっと驚く。
驚いて、また透明な壁を立てる。
だから――私は、自分から動けない。
いつも通り、誰かが先に動くのを待ってしまう。
誰かが声をかけてくれるのを待ってしまう。
それが、私の癖。
本を閉じる。
でも、ページの匂いが鼻に残る。
古い紙と、インクと、少しだけ甘い匂い。
窓の外、春の夜の空気が冷たい。
でも、胸の奥は少しだけ温かかった。
秋穂のことを考えている自分に、気づいてしまったから。
◇
それから数日が過ぎて――
ゴールデンウィーク前日。
教室の空気は、春の終わりの匂いがした。
明日から休み。みんなの声が少し浮ついている。
「ねえ、連休どこ行くの?」
「うち、遊園地!」
「いいなー。私、部活だわ」
「バイト入れた。校則違反だから内緒な」
「泊まりでどっか行きたい」
予定、という言葉が、教室のあちこちで弾ける。
私はそれを、笑って聞きながら、胃の奥がひゅっと冷えるのを感じた。
れいなが肘で私をつつく。
「美春は?」
「え?」
「連休、なにするの」
答えが、ない。
予定がない、とは言いたくない。
言ったら、空気が少し尖る。
尖った空気が怖い。
私は曖昧に笑う。
「んー……ちょっと、いろいろ?」
「なにそれ」
れいなが笑う。
笑いが優しいから、余計に苦しい。
「でも、美春ってそういうとこあるよね。ふわっとしてる」
「えー」
ふわっと。
それは褒め言葉にも聞こえるのに、私には"決めてない"の別名に聞こえる。
その時、秋穂が立ち上がった。
何も言わない。
誰とも目を合わせない。
ただ鞄を持って、教室のドアへ向かう。
ドアが開く音。
廊下に出る音。
そして、閉まる音。
その三つが、教室の賑やかさの中で妙にくっきりと聞こえた。
私は一瞬だけ、秋穂の背中を追いたくなる。
でも、追わない。
追う理由がない。
追ったら、私の心が見えてしまう気がする。
教室の笑い声の中で、私は小さく思った。
――私も、行きたいところが分からない。
いや――違う。
私には、行きたい場所がある。
数日前に見つけた、住宅街の奥の喫茶店。
「落ち着く」「マスターが優しい」「静かで勉強できる」。
本当は、そこに行くのが楽しみだった。
でも、それを言えない。
れいなに「どこ行くの?」と聞かれて、「喫茶店」と答えたら、きっと「地味じゃない?」って言われる気がする。
言われなくても、そう思われる気がする。
だから、曖昧に笑う。
ふわっと、誤魔化す。
私は笑って、会話に戻った。
戻りながら、胸の奥で小さく何かが擦れる音がした。
◇
ゴールデンウィーク初日。
朝の部屋は静かだった。
母は出かけていて、家の中に私だけがいる。冷蔵庫のモーター音が、やけに大きい。
私はベッドに座ってスマホを眺める。
SNSには「旅行!」「朝からカフェ!」みたいな写真が流れてくる。
いいな、と思う。
でも、私にはそういう華やかな予定はない。
――でも、今日は違う。
昨日、れいなに「ふわっとしてる」と言われて、私は"決められない自分"にまた気づいてしまった。
でも、今日は――自分で決めた場所がある。
私は立ち上がって、鏡の前で髪を整えた。
制服じゃない服を選ぶだけで少し迷う。
けれど今日は、迷ってもいい。迷った末に、決めればいい。
鞄に、『フランス菓子の歴史』を入れた。
喫茶店で読もう。そしたら――少しだけ、秋穂の世界に近づける気がする。
玄関で靴を履くとき、心臓が少し速くなる。
"自分で決めて出かける"ことが、こんなに緊張するなんて知らなかった。
ドアを開ける。
外の光が眩しい。
春の風が頬を撫でる。
私は一歩、外へ出た。
――その店で、私は彼女に出会った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます