グレテと奥様

織部七本

第1話

 下女仲間のグレテは器量が悪い。あばた面でやぶにらみ、上の前歯が欠けていて、髪なんか古い箒みたいにばさばさだ。いつも眉間に皺を寄せて、口汚いことばを吐きながら台所の床やら、黒ずんだ桶やらをたわしでごしごしやっている。「なんだってこんなに汚れてるんだろうね、きっとマリアさまが生まれたてのイエズスさまをここで洗ったに違いないよ。馬糞まみれの赤ん坊イエズスさま!」グレテの独り言はいつだって罰当たりだ。それがなんとも言えずおかしいものだから、みんなグレテと同じ当番になるのを楽しみにしていた。

 グレテは夏のはじめに、エレオノーレ奥様といっしょにこの修道院へやってきた。

 馬車から降りてきた女二人連れの姿を、みんなで下女部屋の窓から身を乗り出して見物した。また新しい女が来るよ、賭けをしようじゃないの、何やらかして送られてきたお人か? どうせまた密通だろう、暇を持て余した貴族女がやることなんて決まってる。ねえ、でもちょっとあの奥様、なかなかきれいな人じゃないかい? それは本当にそうだった。道中暑かったのか帽子を脱いでいて、烏の濡れ羽みたいなつやつやした黒髪がきつく結われて宝石みたい。眉からこめかみのあたりが神経質そうに引きつっている。小作りな鼻先はつんと尖っていて、その下で噛みしめられた唇は色を失っていたけれど、ふっくらしていて形もよくて、ずいぶん若々しく見えた。腐りかけの果物がなんともいえない甘い香りをさせるみたいな、いくぶん病的なところがあって、それがかえって人目を惹きつける。美しい女だ、とあたしは素直に感心した。

 それにしても、奥様と並んだグレテのあの姿、滑稽だったことといったら! まるで薔薇に止まった蝿、月の下のみみずく、女王様とお供の侏儒。光輝くような奥様のすぐ後ろで、グレテはひときわみすぼらしく、いやらしく見えた。ねえ、あれ何だろう、後ろにいるあばた面の女は? あの奥様の召使いでしょ。それはそうだろうが、ありゃどう見ても一番下っ端の洗濯女中だよ、高貴な方のすぐおそばにいるなんて見たことがない。普通はもっと小綺麗な侍女とかがつくだろう? なんだってあんなのが? 詮索するもんじゃないよ、ここへ来るってことはどうせ訳ありなんだ、黙って仕事だけしてればいいのさ。夏の太陽みたいに美しいエレオノーレ奥様と、その太陽の中の黒いしみみたいに醜いグレテと、そのふたつの対比があたしの目に焼き付いた。

 奥様は見習い修道女------そうは言っても高貴な身分だ、下働きなんて絶対になさらない、見習いというのもただの口実で本当のところは優雅な隠遁生活------になられ、グレテはあたしたち下女の仲間になった。話してみるとグレテはおもしろい女で、下品な冗談や突拍子もない話であたしたちを大笑いさせてくれた。グレテは貴族の悪口を言い、無遠慮に口を開けてげらげら笑い、平気でつばを吐く女だった。平民上がりだという院長様は通りかかるたびにグレテを叱りつけ------グレテ、頭巾を被りなさい!------グレテ、大股で歩いてはなりません、慎みを持ちなさい!------貴族出身の修道女たちはグレテを視界に入れようともしなかった。翻ってあたしたち下女連中としては、グレテみたいな娘は大歓迎。お高くとまった奴、真面目すぎて告げ口するような奴より、よっぽどすんなり仲良くなれた。

 グレテの器量の悪いところも、あたしたちはかえって好きになった。あのあばただらけの赤ら顔がぎゅっと歪むと、まるで猿の怪物みたいで、それがグレテの語る俗っぽい幽霊話やら人食い鬼の話やらに凄みを与えていた。「あたしはロマの生まれなんだ、だからあちこちの面白い話をたくさん知ってる」そんなの嘘だってみんな分かってた、だってロマ女が下働きとはいえエレオノーレ奥様みたいな方のお城に上がるなんてことないんだから、でもそれはともかく、実際グレテはあたしたちが聞いたことのないような話をたくさん知っていた。屋根裏の女中部屋で、あたしたちは夜な夜なグレテを囲んで話をせがんだ。グレテは顔も性格も行儀もすこぶる悪かったけれど、すぐにあたしたちの人気者になった。

 グレテがあっという間に下女仲間と打ち解けた一方で、エレオノーレ奥様はそれほど早くは修道女仲間に馴染めない様子だった。修道女たちは奥様の身の周りを細やかに気づかい、奥様もそれには応えようとしているのか、食事やお祈りには欠かさず出席なさっていた。でもその肩はいつもこわばっていたし、必要がない限り誰にも話しかけようとしないのが、直接関わることのないあたしらにもはっきり分かるほどだった。

 まあ、元よりこんな場所に来るぐらいだから何か問題を抱えていたのだろうし、心を閉ざしているのもよくある話だ。そういう方でも時間が経つと、院長様が〝主のお導き〟と呼ぶもの、あるいはクリームたっぷりの食事や、空気のいい森での散歩や、修道女仲間との友達づきあいのおかげでやがて顔色も明るくなり、どうにかここでやっていけるようになるのが常だった。なにも珍しい話じゃない。あたしも他の下女たちも、大した問題だとは思っていなかった。

 それにしても、とあたしは思案する。青白い顔で物思いに沈む奥様はたいそう絵になる、ちょっと触ったら壊れちまいそうな風情があって、百合の花がうつむいているみたいな美しさだ。一方のあばずれグレテ、あのしぶとくてたくましいことといったらイラクサの根っこみたい。ほんとにあの二人、まったく似ても似つかない! あの奥様とあのグレテが同じお城からやってきただなんて、年寄りろばに金のマントを着せてやるぐらい奇想天外な、すこぶる信じがたい話だった。


 季節は滞りなく流れた。グレテは相変わらず桶をごしごしやりながら、夏には「こう暑いと魚が腐っちまうよ、教区司祭の信心より早く腐っちまう!」などとわめき、秋には「ちぇっ、薪はそれっぽちなのかい。震えて暮らすのなんかごめんさ、いざとなったら院長の部屋から十字架を引っぺがして、焚きつけにしてやるんだからね!」などと叫んだ。グレテが毎日毎日違った言い回しのうまい悪態を思いつくので、あたしらは聞き耳を立てながら心底感心していた。

 エレオノーレ奥様の状況も、少しずつ良い方へ向かっている様子だった。修道女には修道女の社会があり、下女には下女の社会があって、あたしたちにはあちら側の内情なんて分かりっこないけれども、奥様の召し上がる食事の量が増えていることは台所からわかった。中庭を通りかかると、修道女たちに混じって談笑する奥様を見かけることも珍しくなくなった。主のお導き。あるいはただ、過去を灰色に鈍らせていく歳月というものの慈悲深さ。

 談話室に飾られた古い油絵も、奥様をなぐさめるのに一役買ったようだった。シチリアの聖アガテさま、聖ルチアさま、アレクサンドリアの聖カタリナさま。部屋のすみにひっそり掛けられたそれらの絵は、どれも若々しい娘が拷問の末に殉教する場面を描いたやつで、筆づかいは荒いが妙な生々しさがあり、修道女たちからは恐ろしい絵だと不評だった。談話室の中でそこの一角だけ誰も近づこうとしなかったところに、奥様がじっと立って絵を見つめておられる。誰か気のやさしい修道女がお尋ねになる------そのむごい絵を見つめていて、気分が悪くはならないの------当然の疑問だ、奥様がどう答えるか聞こえてくる前に、あたしは掃除を終えて出て行ってしまったけど------聖アガテさまはこれほど若くして苦難に耐えたのですから、わたくしも信仰を堅く持たなければと、この絵を見ながら誓っていたのです------そう答えたという噂が、やがて女中部屋にまで回ってきた。ははあ、やっぱり貴族の奥様ってのは言うことが違うね。いやあ、単におもしろいから見てたんだと思うよ、祭りの見世物でもおっかないやつがたくさんあるだろ? むごい絵だって同じさ、見てる分にはおもしろい。そりゃそうさ、でもそういう野次馬根性をきれいに隠して、うまく耳当たりのいいこと言ってみせたんなら、それはそれで品がいいってやつじゃないのかね。あることないこと、好き勝手に言い合う夜の屋根裏から、グレテは大きな音を立てて出て行ってしまった。

 もうこの頃になると、グレテがエレオノーレ奥様をさげすんでいることは仲間みんなが知っていた。別にちっとも不思議じゃない。グレテはこの世のあらゆるものをさげすんでいたし、下女が奉公先の女主人をさげすむ理由なんて足の指まで使っても数え切れないぐらいあるから、誰も深くは尋ねなかった。

 ただ不思議なのは、エレオノーレ奥様もまた、グレテをさげすんでいるらしいことだった。下女が女主人をさげすむことはあっても、その逆はほとんど考えられない。だって、誰が牛や馬をさげすむ? 火かき棒や庭木ばさみや洗濯板をさげすむ者がいるだろうか? 人がさげすむのは人だけだ。けれど奥様は明らかにグレテを、さげすんでいるというのがもし言いすぎだとしても、少なくとも無視していた。グレテのいる方向には目を向けない。用事があってもグレテには言いつけず、わざわざ他の下女を呼びつける。無視するということは認めているということだ。人は見えないものを無視はできない。奥様はグレテをグレテと認め、ゆえに無視し、ゆえにさげすんでいるのだ。貴族の奥様が台所女中を? このふたりはほんとに奇妙な組み合わせだった。


 そうして真冬のある朝、あたしは奥様とグレテが争うのを見た。

 その日あたしは水くみ当番で、夜の間に凍りついた井戸の代わりに、わざわざ下の湖まで行かなきゃならなかった。まだ夜明け前。ようやく空の端っこが白くなってきた頃合いの、しんとさびしい森の道。そんなに早起きする必要はなかったのだけれど、冬のすがすがしい空気をひとり占めするのは気分がいいものだから、わざわざ皆が起きる前に寝床を抜け出してきた朝だった。

 木立のあいだから湖が見えてくるあたりまで来たとき、声がした。グレテの声はすぐにわかった、あんなに濁ったがらがら声で吠えるように話すのはグレテしかいない。怒鳴りつけたり、金切り声を上げたり、うなったり、それでいて怒っているというよりはどこか勝ち誇ったように。風のせいで切れ切れにしか聞こえなかったが、何かすごい侮辱のことばを言っていることはわかった。あたしは咄嗟に身を隠した。

 そうして樺の木のうしろから、グレテの相手がエレオノーレ奥様であるのを見てとった。灰色の湖水のほとり、グレテは唾を飛ばしながら奥様に食ってかかり、指を突きつけながら顔を歪めている。奥様は奥様で何か言い返している様子だが、野良犬みたいなグレテの声に全部かき消されていた。グレテが笑う。大口を開け、腹を抱えて、侮蔑そのもののような顔でグレテが笑う。笑い転げる。

 奥様がグレテの頬を張り飛ばした。グレテは雪の中に尻餅をついたが、ほんの一瞬さえ静かになることはなかった。グレテはなおも笑い続けていた。奥様はきびすを返し、湖に背を向けてグレテの前から立ち去った。こちらへ来る。一本道だから見つかってしまうかと危ぶんだが、奥様は怒りに我を忘れた様子で、木立に紛れたあたしの姿にはちっとも気付かないまま早足で過ぎていった。腕の中に、なにか白い包みのようなものを持っていらした。

 グレテは立ち上がり、服についた雪を払い落としながら、ひひ、ひ、とまだ小さく笑い声を立てていた。出て行って良いものだろうか? 見るべきでないものを見たのかもしれない、だが何はともあれ水は汲まなければならないし、今見た光景について根掘り葉掘り詮索してみたい気持ちも確かにあった。あたしは桶を胸に抱え、木立から出て道の真ん中を通りながら湖まで下りていった。おはようグレテ、ずいぶん早いんだね、あんた今朝の水くみ当番でもないだろうに。いま来たばかりだというように挨拶してみる。今そこでエレオノーレ奥様とすれ違ったよ、何か気が立ってるご様子だったけど、何かあったのかい? ずけずけとした物言いなのは自分でわかるけど、こんなの普段のグレテの物言いに比べたらお姫様みたいなもんだ。

「しらばっくれなくてもいいさ。覗き見してただろ」

 気付いていたのか。グレテは気を悪くした風でもなく、にやにや笑いながら「どう思うね?」と尋ねてきた。何やら揉めてるのは見てたけど、言葉までは聞き取れなかったと正直に答え、だから説明してくれと求めてみた。

 グレテがひきがえるのような目を輝かせた。腹の底で欲望の火が燃えていて、その火が内側から反射しているみたいな、気味の悪い輝きだった。見世物小屋の入り口で焚かれるかがり火にも似て------この世のおぞましいもの、あさましく目を背けたくなるものを明るみに引きずり出し、喧伝してやろうとする輝きだった。

「それなら説明してやるよ。その代わり、あんたはこの話をみんなに言いふらさなくちゃいけないよ。みんなが、この修道院にいる尼も下女も一人残らずみんなが、あの女の本性を知って軽蔑することがあたしの望みなんだから」

 グレテはあたしの肩を抱き寄せ、耳元に口を寄せた。生あたたかい、饐えたようなにおいのする息が頬にかかって、背中の毛がぞわりと立った。

「エレオノーレは人殺しさ」

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グレテと奥様 織部七本 @seven_olive

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