第二章「死と転生」
白い空間だった。
上下左右の区別がなく、どこまでも続く純白の虚無。蓮はそこに立っていた——いや、「立っている」という感覚すら曖昧だった。足元には何もなく、しかし落下する気配もない。
自分の身体を見下ろす。傷はなかった。トラックに撥ねられた痛みも、血の温かさも、何も感じない。着ているのは、事故の瞬間に身につけていたはずの普段着だ。
「目覚めましたね」
声が聞こえた。どこからともなく響く、透明な女性の声。
蓮が振り返ると、そこに一人の女性が立っていた。
長い銀色の髪が、存在しない風に揺れている。顔立ちは整っているが、どこか人間離れした印象を受けた。瞳は淡い金色で、その奥には星々のような光が瞬いている。純白のローブを纏った彼女は、蓮を穏やかな眼差しで見つめていた。
「あなたは、水谷蓮。三十二歳。花屋の作業員。そして——先ほど命を落としました」
死んだ。
その事実を、蓮は驚くほど冷静に受け止めていた。酔って夜道を歩いていた自分の不注意だ。信号を見落としたのか、それともトラックの運転手が悪かったのか。いずれにせよ、結果は変わらない。
「ここは……どこですか」
「次元の狭間、とでも呼びましょうか。あなたの魂が、次の場所へ向かうまでの中継地点です」
「次の場所?」
「転生先です」
女性は微笑んだ。それは慈愛に満ちた、しかしどこか悲しげな笑みだった。
「私は、あなたたちの世界で言うところの『女神』のような存在です。名前は……そうですね、便宜上『イリス』と名乗りましょう。私は今、あなたにお願いがあってここにいます」
「お願い?」
「はい。あなたに、別の世界へ転生してほしいのです。そして、その世界を救っていただきたい」
蓮は目を瞬かせた。異世界転生。そんな言葉が、頭をよぎった。小説やアニメでよく見る設定だ。まさか自分の身に起こるとは思ってもみなかった。
「……救う、というのは?」
「私が司る世界——『エルドガルド』は、今、滅びの危機に瀕しています」
イリスの表情が曇った。金色の瞳に、深い憂いが宿る。
「エルドガルドの中心には、『ユグドラシア』と呼ばれる巨大な樹が存在します。世界樹です。この樹は、世界全体に生命エネルギー——魔力を循環させる役割を担っています。大地に、水に、空気に、そしてすべての生命に」
「世界樹……」
「ユグドラシアが健在であれば、エルドガルドは豊かな緑に覆われ、人々は平和に暮らすことができます。しかし——」
イリスは一度言葉を切り、苦しげに目を伏せた。
「千年ほど前から、ユグドラシアは衰退を始めました。原因は分かりません。ただ、樹は少しずつ枯れ、魔力の循環は滞り、大地は死んでいきました。今では、エルドガルド全土の三分の一以上が『枯死地帯』と化しています。植物は育たず、作物は実らず、人々は飢えに苦しんでいます」
「……それを、俺に救えと?」
「はい」
蓮は困惑した。自分は、ただの花屋の作業員だ。世界を救うような力など持っていない。
「申し訳ありませんが、人選ミスだと思います。俺には何の力もない。戦うこともできないし、魔法なんて使えない。ただ花を扱ってきただけの、三十二年間です」
「いいえ」
イリスは首を横に振った。
「私があなたを選んだのには、理由があります。あなたの魂には、特別な適性があるのです。植物と深く結びつく力——それは、エルドガルドにおいて極めて稀有な才能です」
「植物と結びつく……?」
「あなたは十年間、毎日花と向き合ってきました。花の状態を見極め、最適な処理を施し、その命を一日でも長く繋いできた。その経験は、あなたの魂に刻まれています。私は、その力を見込んでいるのです」
蓮は黙り込んだ。
確かに、花の扱いには自信がある。どんな花でも、適切に処理すれば寿命を延ばせる。それが自分の唯一の取り柄だった。だが、それが「世界を救う」ことにどう繋がるのか、まるで見えなかった。
「正直に申し上げます」
イリスは蓮の目をまっすぐに見つめた。
「私には、あなたに強制する力がありません。転生を拒否すれば、あなたの魂は通常の輪廻に乗り、いずれ元の世界のどこかに生まれ変わるでしょう。それを止めることはできません」
「……」
「しかし、お願いです。エルドガルドの人々を、どうか救ってください。彼らは何も悪いことをしていない。ただ、世界樹の衰退という運命に翻弄されているだけなのです」
イリスの声には、切実な響きがあった。
蓮は考えた。
元の世界に戻っても、待っているのは何だろう。職を失い、貯金もなく、三十二歳で再スタートを切る人生。それは確かに辛い。だが、少なくとも慣れ親しんだ世界だ。言葉も通じるし、常識も分かる。
一方、異世界は未知の領域だ。危険もあるだろう。苦労もするだろう。そして何より、自分に世界を救う力があるとは思えない。
だが——
『水揚げなんて誰でもできんだよ。お前の代わりなんていくらでもいる』
黒沢の言葉が、再び脳裏をよぎった。
十年間、蓮は自分の仕事に誇りを持っていた。誰に認められなくても、花を生かすことだけは、誰にも負けないと思っていた。それが「誰でもできる」と言われ、会社は潰れ、何も残らなかった。
もし——もし、その技術が本当に役に立つ場所があるなら。
蓮は顔を上げた。
「……一つ、聞いてもいいですか」
「何でしょう」
「その世界には、花はありますか」
イリスは一瞬きょとんとした顔をし、それから柔らかく微笑んだ。
「はい。かつては、美しい花々がたくさん咲いていました。今は枯死地帯が広がり、見られる場所は限られていますが……それでも、花は存在します」
「そうですか」
蓮は深く息を吸った。
「分かりました。行きます」
「……本当ですか?」
「ただし、約束はできません。俺にできることは、花を扱うことだけです。それで世界が救えるかどうかは分からない。でも、やれることはやります」
イリスの瞳に、光が戻った。
「ありがとうございます。ありがとうございます、水谷蓮」
彼女は深く頭を下げた。女神が人間に頭を下げる。その姿に、蓮はかえって居心地の悪さを覚えた。
「では、転生の準備を行います。あなたには、この世界で使える『スキル』を一つ授けます」
「スキル?」
「はい。あなたの魂の特性に合わせた能力です。少々お待ちください」
イリスは目を閉じ、両手を蓮に向けた。淡い光が彼女の手のひらから放たれ、蓮の身体を包み込む。温かく、心地よい感覚だった。
やがて、光が収まった。
「スキルの付与が完了しました。あなたに授けたのは——『水揚げ』です」
「……水揚げ?」
蓮は思わず聞き返した。
「はい。あなたが最も得意とする技術を、そのままスキルとして具現化しました。植物の生命力を活性化させ、枯れかけた植物を蘇らせる力です」
「それは……その、地味すぎませんか?」
蓮の率直な感想に、イリスは申し訳なさそうに眉を下げた。
「……実は、私もそう思います。もっと派手な、例えば剣術や攻撃魔法を授けることもできたのですが……あなたの魂との相性を考えると、これが最適だったのです」
「最適」
「はい。無理に相性の悪いスキルを授けても、うまく使いこなせません。水揚げは、あなたの身体の一部のように扱えるはずです」
蓮は苦笑した。
異世界転生で授かるスキルが「水揚げ」。物語の主人公としては、あまりにも地味すぎる。だが、考えてみれば自分らしいとも言える。
「分かりました。ありがとうございます」
「では、転送を開始します。エルドガルドでの健闘を、心から祈っています」
イリスの姿が、光に包まれて薄れていく。
「最後に一つだけ。あなたの他にも、あなたの世界から魂を呼び寄せた者がいます。その者は——」
声が途切れた。光が強くなり、イリスの姿が完全に見えなくなる。
「——敵となるかもしれません」
その言葉だけが、蓮の耳に残った。
そして、意識が白い光に呑み込まれた。
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