花屋×異世界転生_水揚げスキルで異世界救済 ~追放された花屋が枯れゆく世界樹を蘇らせる~
もしもノベリスト
第一章「花屋の終わり」
午前三時四十五分。
水谷蓮の一日は、まだ世界が眠りの底に沈んでいる時刻から始まる。
枕元で震えるスマートフォンのアラームを止め、蓮は布団から這い出た。築四十年のアパートの畳は、真冬の空気を吸い込んで氷のように冷たい。裸足の足裏がその冷気に触れた瞬間、全身の細胞が否応なく覚醒を強いられる。
洗面台の蛇口をひねると、水道管の奥から錆びた軋み音が響いた。冷水で顔を洗い、鏡を見る。三十二歳の顔がそこにあった。目の下には慢性的な睡眠不足が刻んだ隈があり、頬はこけ、髪には白いものが混じり始めている。十年前、この業界に飛び込んだときには、もう少し生気のある顔をしていたはずだ。
着替えを済ませ、玄関で靴紐を結ぶ。使い込んだ安全靴は、もう何度ソールを張り替えたか分からない。蓮は鍵を閉め、まだ街灯だけが照らす夜道を駅へと向かった。
電車を乗り継ぎ、たどり着いたのは都内某所にある花き卸売市場である。
巨大な体育館のような建物の中に、無数の花々が整然と並べられている。セリが始まる前の市場は、静寂と緊張感に満ちていた。生産者から届いたばかりの切り花たちは、まだ水を吸っておらず、茎の切り口は乾きかけている。ここから数時間以内に適切な処理を施さなければ、花の寿命は著しく縮む。
蓮が勤める「フローラルネット」は、都内に十二店舗を展開する中堅の花屋チェーンだった。蓮の役割は、市場での仕入れと、仕入れた花の「水揚げ」処理を担当する一作業者である。店長でもなければ、バイヤーでもない。ただひたすら、花と向き合う係。それが十年間の蓮の肩書きだった。
セリ場の喧騒の中、蓮は慣れた手つきで花を選んでいく。
バラの茎の太さ、葉の色艶、蕾の開き具合。チューリップの球根の膨らみ、茎のしなやかさ。カスミソウの枝ぶり、ガーベラの花弁の張り。それらを一瞬で見極め、良いものだけを選別する。この目利きの技術は、誰に教わったわけでもない。十年間、毎日花を見続けた結果として、身体に染み込んだものだった。
仕入れを終え、会社の軽トラックに花を積み込む。荷台には、今日の各店舗に配送される花々がぎっしりと詰まっている。蓮はエンジンをかけ、本社併設の作業場へと車を走らせた。
作業場に到着したのは午前七時過ぎ。ここからが蓮の本当の仕事である。
「水揚げ」——それは、切り花を長持ちさせるための最も基本的かつ重要な技術だ。
花は根から切り離された瞬間から、死へのカウントダウンが始まる。茎の切り口から空気が入り込み、導管(水を吸い上げる管)が詰まる。そのままでは、花は水を吸えずに萎れてしまう。それを防ぐために行うのが「水揚げ」である。
蓮は作業台の前に立ち、まず深く息を吸った。
目の前には、市場から運んできたばかりのバラが百本。茎の切り口は乾き、花弁はわずかに萎れかけている。蓮は鋭利な花切りバサミを手に取り、最初の一本を掴んだ。
水を張ったバケツの中に茎を沈め、水中で斜めに切る。これが「水切り」と呼ばれる最も基本的な水揚げ技法だ。空気中で切ると、切り口から気泡が入り込んでしまう。水中で切ることで、それを防ぎ、導管をクリアに保つ。
蓮の手は機械のように正確だった。一本あたり三秒。茎を掴み、水に沈め、斜めに切り、バケツに移す。この動作を何万回繰り返してきたか、もはや数えることすらできない。
バラの次はガーベラ。ガーベラは茎が空洞になっているため、水切りだけでは不十分だ。切り口に新聞紙を巻いて真っ直ぐ立てた状態で水に浸け、「深水」という技法を用いる。水圧で強制的に水を吸わせるのだ。
続いてアジサイ。アジサイの茎は木質化しており、通常の水切りでは水の通りが悪い。蓮は茎の切り口を金槌で叩いて繊維をほぐし、さらに中心の綿状の髄を掻き出した。これを「叩き」と呼ぶ。
そしてボタン。ボタンには「湯揚げ」が必要だ。八十度ほどの熱湯に茎の切り口を数秒間浸け、すぐに冷水に移す。熱によって導管内の空気が膨張して押し出され、同時に切り口の雑菌も殺菌される。
菊には「焼き揚げ」。茎の切り口をガスバーナーで炙り、炭化させてから水に浸ける。焼けた部分が活性炭のような役割を果たし、雑菌の繁殖を防ぐ。
花の種類によって、水揚げの方法は異なる。それを見極め、最適な処理を施す。この判断を瞬時に行えるようになるまでに、蓮は五年以上の歳月を要した。
作業は黙々と続いた。
ラジオからは天気予報が流れている。「本日の都心部は曇り、午後から雨の見込みです」——花屋にとって、天気は売上を左右する重要な情報だ。雨の日は客足が遠のく。しかし、蓮にとってそれは関係のない話だった。彼の仕事は、花を生かすこと。それだけだ。
午前九時を過ぎた頃、作業場のドアが乱暴に開いた。
「水谷ァ!」
怒鳴り声と共に現れたのは、エリアマネージャーの黒沢だった。四十代半ば、がっしりとした体格に、常に不機嫌そうな顔。蓮の直属の上司であり、この十年間、蓮を最も苦しめてきた人物でもある。
「おい、聞いてんのか。昨日の新宿店の売上、見たか?」
「……いえ」
「見てねえのか。お前が水揚げした花、客からクレームが来てんだよ。『持ちが悪い』ってな」
蓮の手が止まった。それはありえない指摘だった。昨日新宿店に送った花は、すべて適切に処理したはずだ。むしろ、通常より丁寧に時間をかけたくらいだ。
「……クレームの内容を、詳しく教えていただけますか」
「は? 何だその態度。言い訳する気か?」
「いえ、原因を特定しないと改善できませんので」
黒沢の顔が歪んだ。彼はこういう「正論」を最も嫌う。蓮はそれを知っていながら、あえて言葉にした。十年間、理不尽に耐え続けてきた。だが、仕事の質を否定されることだけは、どうしても受け入れられなかった。
「お前さあ、自分の立場分かってんの?」
黒沢が一歩近づいてきた。作業場に漂う花の香りが、彼の体臭と煙草の臭いにかき消される。
「十年もこの会社にいて、未だに平社員。店長にもなれない。バイヤーにもなれない。ただ花切ってるだけの係。それがお前だろ?」
蓮は黙っていた。反論しても意味がないことを、経験から学んでいた。
「大体さあ、お前みたいなのがいるから会社の数字が上がらねえんだよ。花屋ってのはな、花を売ってナンボなの。水揚げなんて誰でもできんだよ。お前の代わりなんていくらでもいる。分かってんのか?」
誰でもできる。
その言葉が、蓮の胸に深く突き刺さった。
水揚げは誰でもできる作業ではない。花の種類、産地、季節、気温、湿度——あらゆる条件を考慮し、最適な方法を選択しなければならない。それを瞬時に判断できるようになるまでに、どれほどの時間と努力を費やしたか。黒沢には、それが見えていない。見ようともしていない。
「……すみませんでした」
蓮は頭を下げた。それ以外に、この場を収める方法を知らなかった。
黒沢は鼻を鳴らし、踵を返した。ドアが閉まる音が、作業場に響いた。
一人になった蓮は、しばらく動けなかった。手にしたままの花切りバサミが、かすかに震えている。自分の手が震えているのだと気づくのに、数秒かかった。
深呼吸をして、作業を再開する。
目の前には、まだ処理を待つ花が山のように積まれている。花は待ってくれない。水揚げのタイミングを逃せば、花の寿命は確実に縮む。
蓮は再び花切りバサミを握り、黙々と作業を続けた。
________________________________________
午後二時。
配送作業を終えた蓮は、本社の会議室に呼び出された。
会議室には、見慣れない顔の男たちが並んでいた。スーツ姿の彼らは、明らかにこの業界の人間ではない。経理部長と総務部長が隅に座り、青ざめた顔をしている。
蓮だけでなく、全従業員が集められていた。パート、アルバイト、正社員。普段は顔を合わせることのない他店舗のスタッフたちが、狭い会議室にひしめき合っている。
「本日、皆様にお集まりいただいたのは、重大なお知らせがあるからです」
スーツの男の一人が、感情のない声で切り出した。
「株式会社フローラルネットは、本日をもって事業を停止し、破産手続きに入ることとなりました」
会議室がざわめいた。悲鳴に近い声を上げる者、呆然と立ち尽くす者、隣の人間に「嘘でしょ?」と確認する者。
蓮は、その喧騒の中で静かに立っていた。
予兆はあった。ここ数年、花の仕入れ量は減り続けていた。店舗の改装費が出ないと言われ、エアコンが壊れても修理されなかった。ボーナスは三年前からカットされ、昇給も凍結されていた。
それでも、蓮は信じていた。花は人の生活に必要なものだ。冠婚葬祭、記念日、日々の彩り。花がなくなることはない。だから、この仕事も続くはずだと。
「……倒産、ですか」
隣に立っていた若いアルバイトの女性が、震える声で呟いた。彼女は入社してまだ三ヶ月だと聞いていた。
「はい。負債総額は約八億円。債権者への弁済の見込みは立っておりません。従業員の皆様には、本日付で解雇通知をお渡しします。未払いの給与につきましては、労働債権として優先的に処理される予定ですが、全額の支払いは難しい状況です」
淡々とした説明が続く。蓮の耳には、その言葉がほとんど入ってこなかった。
十年だ。
十年間、この会社で働いてきた。早朝の市場から始まり、水揚げ、配送、時には店頭での販売も手伝った。休日出勤も厭わず、正月もゴールデンウィークも働いた。花屋にとって、世間の休日は稼ぎ時だからだ。
それが、こんな形で終わるのか。
会議が終わり、解雇通知書を受け取った蓮は、作業場に戻った。もう作業をする必要はない。しかし、足が自然とそこへ向かっていた。
作業場には、今朝処理した花たちが並んでいた。バケツに浸けられた花々は、水を吸い上げ、生き生きとした姿を取り戻している。
蓮は一本のバラを手に取った。
深紅の花弁は、朝よりも艶を増していた。茎はしっかりと水を含み、葉は緑色の光沢を放っている。明日には、どこかの店舗で、誰かの手に渡るはずだった花。
だが、その「明日」はもう来ない。
この花たちは、どうなるのだろう。蓮が丹精込めて処理した花たちは、誰にも届かずに枯れていくのだろうか。
「お前、まだいたのか」
振り返ると、黒沢が立っていた。その顔には、朝の威圧的な表情はなく、どこか虚ろな笑みが浮かんでいた。
「俺もクビだとよ。エリアマネージャーだろうが関係ねえってさ。あーあ、十五年もこの会社にいたのにな」
黒沢は蓮の隣に来て、同じように花を眺めた。
「しっかし、お前は気楽でいいよな。どうせ花切るしか能がねえんだから、次もどっかの花屋行きゃいいだろ」
「……」
「俺は管理職だったからな。次の仕事探すの大変だぜ。まあ、お前には分かんねえか」
黒沢は自嘲気味に笑い、作業場を出ていった。
蓮は一人残された。
手にしたバラを、そっとバケツに戻す。花は水の中で揺れ、やがて静止した。
________________________________________
その夜、蓮は安いアパートの部屋で一人、缶ビールを開けた。
テーブルの上には、解雇通知書が置かれている。蓮はそれを見つめながら、ぬるくなったビールを喉に流し込んだ。
三十二歳。独身。貯金はほとんどない。花屋以外の仕事をしたことがない。
履歴書を書くにしても、特技の欄には何を書けばいいのだろう。「水揚げが得意です」——そんなことを書いて、誰が雇ってくれるというのか。
黒沢の言葉が脳裏をよぎる。
『水揚げなんて誰でもできんだよ。お前の代わりなんていくらでもいる』
あの男の言葉を、なぜ今になって思い出すのか。蓮は自分自身に苛立ちを覚えた。
缶ビールを飲み干し、二本目を開ける。普段は酒をあまり飲まない。明日も早いからだ。だが、明日の早朝、市場に行く必要はもうない。
三本目。四本目。
酔いが回ってきた頃、蓮は窓を開けた。冷たい夜風が部屋に吹き込む。遠くで救急車のサイレンが聞こえた。
「……俺の十年は、何だったんだ」
声に出して呟いた。答えは返ってこない。
コンビニに酒を買いに行こう。そう思い立ち、蓮は財布だけを持って部屋を出た。
深夜の住宅街は静まり返っていた。街灯の明かりだけが、細い道路を照らしている。蓮は千鳥足で歩きながら、ふと空を見上げた。
都会の空には星が見えない。光害で覆われた灰色の夜空が、どこまでも続いている。
子供の頃、実家の庭には小さな花壇があった。母が趣味で花を育てていて、蓮はよく手伝わされた。水やり、草むしり、花がら摘み。当時は面倒くさいと思っていたその作業が、いつしか蓮の原点になっていた。
花が好きだった。
ただ、それだけの理由でこの業界に入った。十年間、その気持ちは変わらなかったはずだ。
だが今、その「好き」だけでは生きていけない現実を、蓮は突きつけられていた。
交差点に差し掛かった。信号は青だった。蓮はふらつきながら横断歩道を渡り始めた。
そのとき、視界の端で何かが光った。
振り向いた瞬間、蓮の網膜を焼いたのは、トラックのヘッドライトだった。
「——」
ブレーキ音と、何かがぶつかる鈍い音。
蓮の身体が宙を舞った。
着地の衝撃は、不思議なほど感じなかった。アスファルトの冷たさが背中に伝わり、視界が徐々に暗くなっていく。
遠くで誰かが叫んでいる。近づいてくる足音。「救急車を!」という声。
蓮の意識は、ゆっくりと沈んでいった。
最後に見えたのは、街路樹の枝に残された、冬枯れの葉だった。
________________________________________
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます