駄目な精神科医

真田直樹

第12話

失格の医師が救われるとき

それは、診察の合間の、ほんの数分だった。

外来が立て込んでいた。

カルテは積み上がり、

時計の針だけが、容赦なく進む。

桐島は、机に肘をつき、目を閉じた。

——疲れた。

理由は、忙しさだけではない。

「失格」という言葉が、

今も、胸のどこかに残っている。

忘れたふりは、できる。

だが、消えはしない。

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次の患者は、高齢の男性だった。

症状は、軽い不眠。

大きな問題は、ない。

短く終わるはずの診察。

桐島は、いつものように、名前を呼んだ。

「田中さん」

男性は、ゆっくりと頷き、椅子に座る。

話は、取り留めもなかった。

夜中に目が覚めること。

昔の仕事の夢を見ること。

桐島は、淡々と聞いた。

治療方針を説明し、

薬の調整を提案する。

「じゃあ、今日はこれで」

そう言いかけたとき。

田中が、ぽつりと言った。

「先生」

桐島は、顔を上げた。

「先生は……」

言葉を探すように、間が空く。

「いい医者だとは、思わない」

その瞬間、

胸が、きゅっと縮んだ。

——やっぱり。

——そうだろうな。

だが、田中は続けた。

「でも」

視線を合わせる。

「話しやすい」

その一言だった。

飾り気も、理屈もない。

ただ、そう感じたという事実。

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桐島は、何も言えなかった。

医師として評価されたわけではない。

成果を認められたわけでもない。

それでも、

胸の奥で、何かがほどけた。

「……ありがとうございます」

それしか、言えなかった。

田中は、立ち上がりながら、言った。

「医者はな、正しいだけじゃ、疲れる」

「話せる相手がいると、それで眠れる夜もある」

その背中を見送りながら、

桐島は、静かに思った。

——ああ。

——私は、このために、続けていたのかもしれない。

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診察室が空になる。

椅子に座り、

深く、息を吐く。

誰かを救った実感は、ない。

だが、

自分が完全に間違っていたわけでもないと、

初めて思えた。

失格であることと、

無価値であることは、

同じではない。

その区別を、

他人の言葉で、教えられた。

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帰り道。

夕暮れの街を歩く。

足取りは、

少しだけ軽い。

桐島は、空を見上げた。

——誰かを忘れても、

——誰かに忘れられても、

——それでも、関係は、無駄じゃない。

そう思えた。

________________________________________

その夜、桐島は、白衣を畳みながら、

ふと、呟いた。

「……明日も、やるか」

大それた決意ではない。

やめない理由が、

ひとつ、増えただけだ。

失格の医師は、

今日も、救われてしまった。

それが、

彼にとって、何よりも厄介な救済だった。

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駄目な精神科医 真田直樹 @yukimura1966

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