駄目な精神科医
真田直樹
第11話
患者が医師を忘れる日
その日は、特別なことのない一日だった。
佐藤は、目覚ましが鳴る前に目を覚ました。
胸の重さは、いつもより少しだけ軽い。
カーテンを開け、
光を入れる。
——朝だ。
それだけで、今日は進めそうな気がした。
洗面所で顔を洗い、
鏡を見る。
以前より、
目の奥が逃げなくなっている。
それに気づいて、
佐藤は、なぜか不安になった。
——私は、変わってしまったのだろうか。
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駅まで歩く。
人の流れに、自然に混ざれる。
ぶつからない。
避けすぎない。
電車に乗り、
吊り革につかまる。
息が詰まらない。
それだけで、
胸の奥が、わずかに温かくなる。
仕事をこなし、
昼休みには、同僚と天気の話をした。
笑った。
作った笑顔ではなかった。
——あ。
その瞬間、
ふと、何かが欠けていることに気づく。
思い出そうとして、
初めて気づく。
今日は、
桐島のことを、一度も考えていない。
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心臓が、遅れて痛んだ。
——忘れた。
——私は、忘れてしまった。
罪悪感が、胸に広がる。
あの時間。
あの診察室。
名前を呼ばれた、あの声。
それらを、
意識せずに過ごしてしまった。
——裏切った?
——恩を、捨てた?
佐藤は、トイレの個室で、静かに息を整えた。
だが、涙は出なかった。
代わりに、
奇妙な静けさが、そこにあった。
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帰り道。
夕焼けが、やけに綺麗だった。
——前から、こんな色だっただろうか。
空を見上げる余裕があることに、
また、戸惑う。
回復とは、
劇的な変化ではない。
誰かを忘れてしまうこと。
それを、思い出さなくても、生きられること。
その残酷さを、
誰も教えてくれなかった。
「……先生」
小さく、口に出してみる。
名前は、出てこなかった。
呼び方だけが、残った。
それで、十分だったのかもしれない。
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家に帰り、
ソファに座る。
ノートを開く。
以前なら、
ここに、必ず書いていた。
桐島先生
今日は、
ペンが止まる。
代わりに、
こんな言葉が浮かんだ。
今日は、ちゃんと一日だった。
それを書いて、
しばらく眺める。
胸の奥が、
少しだけ、痛む。
だが、その痛みは、
生きている証でもあった。
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佐藤は、窓を開けた。
夜風が、入ってくる。
どこかで、
誰かが診察をしている。
名前を呼び、
話を聞いている。
そこに、自分はいない。
それが、
初めて、自然に思えた。
「……ありがとう」
誰に向けた言葉か、
もう、はっきりしない。
それでも、
確かに、感情はあった。
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患者が、医師を忘れる日。
それは、
完全な別れではない。
誰かに支えられていた自分を、
胸の奥に畳み、
自分の足で立ち始める日だ。
佐藤は、電気を消した。
明日も、
特別ではない一日が、来る。
それを、
少しだけ、楽しみにしながら。
駄目な精神科医 真田直樹 @yukimura1966
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