駄目な精神科医
真田直樹
第10話
それでも続く診察
次の患者は、時間ぴったりに来た。
ノックは二回。
ためらいは、ほとんどない。
「どうぞ」
扉を開けて入ってきたのは、若い男性だった。
姿勢は良いが、視線が定まらない。
桐島は、反射的に言いそうになる言葉を、一度、胸の中で確かめる。
——病名ではなく。
——症状でもなく。
「……こんにちは」
ほんの一拍置いてから、続けた。
「山本さん」
男性は、わずかに目を見開いた。
「……はい」
それだけで、空気が少し変わる。
桐島は、椅子に座り直した。
「今日は、どんなことで来られましたか」
山本は、少し考えてから言った。
「自分が、ちゃんと生きてるのか、分からなくて」
その言葉に、桐島の胸が、かすかに疼いた。
——似ている。
だが、同一視してはいけない。
この人は、この人だ。
「どういうときに、そう感じますか」
問いは、穏やかだった。
踏み込みすぎないように、距離を測る。
山本は、ぽつぽつと話し始めた。
仕事のこと。
人間関係のこと。
眠れない夜。
ありふれた訴え。
だからこそ、誰にも拾われなかった感情。
桐島は、途中で遮らなかった。
沈黙があれば、待った。
かつての自分なら、
もう少し、寄り添いすぎただろう。
今は、少しだけ、距離を保っている。
それでも、名前を呼ぶことだけは、忘れなかった。
「山本さん、それは……つらいですね」
その一言に、山本の肩が、わずかに落ちた。
「……そう言われたの、久しぶりです」
その言葉に、桐島は何も返さなかった。
返せなかったのではない。
余計な意味を、乗せたくなかった。
________________________________________
診察が終わり、山本が立ち上がる。
「先生」
呼び止められる。
桐島は、少し身構えた。
「……ここ、来てもいいんですか」
その問いは、切実だった。
依存の入口。
過去の記憶が、瞬時に蘇る。
桐島は、深く息を吸った。
「ここは、山本さんが困ったときに、使っていい場所です」
慎重に、言葉を選ぶ。
「ただし、私だけが支えになるわけではありません」
山本は、ゆっくり頷いた。
「……分かりました」
その返事に、ほんの少しだけ、安心した。
境界線は、まだ保たれている。
________________________________________
昼休み。
桐島は、一人で弁当を食べながら、窓の外を見ていた。
世界は、何事もなかったかのように動いている。
患者は来る。
医師は診る。
制度は回る。
その中で、確かに失われたものがある。
だが、誰も立ち止まらない。
——立ち止まれない。
それが、医療という場所だ。
桐島は、箸を置いた。
「……それでも」
小さく、言葉を零す。
それでも、診察は続く。
名前を呼び、
話を聞き、
できることと、できないことを、分けながら。
完全には、救えない。
完全には、距離も取れない。
その不完全さの中でしか、
自分は医師でいられない。
________________________________________
その日の終わり。
桐島は、診察室の電気を消す前に、椅子を見つめた。
かつて、そこに座っていた人。
今は、もういない。
だが、空席は、無駄ではなかった。
そこに誰かが座り、
言葉を落とし、
また去っていく。
その繰り返しの中で、
桐島は、失格のまま、続けていく。
——それでも、やめない。
それだけが、今の彼にできる選択だった。
駄目な精神科医 真田直樹 @yukimura1966
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