私は花園で黒と出会った

いすず さら

私と黒

第一章 花園にて

目を開けたとき、私は花の匂いに包まれていた。

「……ここは」

言葉は喉の奥でかすれ、ほとんど音にならなかった。

視界いっぱいに広がるのは、名前も知らない花々だった。赤、白、紫、青。色彩が無秩序に咲き乱れているのに、不思議と目は疲れない。風が吹くたび、花弁が擦れ合って、かすかな音を立てた。

「私は……どうして、ここにいるんだろう」

記憶を辿ろうとした瞬間、頭の奥に靄がかかる。直前の出来事が、ぽっかりと抜け落ちていた。怖い、と思うより先に、どうでもいい、という感情が胸に広がった。

「ねえ、見て」

不意に声がした。

振り返ると、そこに人が立っていた。

私と同じ背丈、同じ輪郭。けれど、表情だけがどこか違う。彼女は夜空を指差している。

「綺麗な夜空でしょう」

導かれるまま、私は空を仰いだ。

真っ黒な空に、満月が浮かんでいる。星々は冷たく、けれど確かに光っていた。

「……綺麗」

それしか言えなかった。

「でしょう。あれは、あなたの心よ」

「……え?」

彼女は微笑んだ。その笑顔が、なぜか怖かった。

「あなた、私が誰か聞きたい?」

「……あなたは?」

「今は答えられないね。それより、もう少し星を見よう」

上手く流された、と思った。

けれど、抵抗する気力もなかった。私は再び夜空を見上げる。

「満月はあなたの本心。星は希望。だけどね――」

彼女の声が、静かに続く。

「星が砕かれるたび、あなたの中には黒い感情が溜まっていった。悲しみ、怒り、嫉妬、不安……名前をつける前に、押し込めたものたち」

胸の奥が、きしりと音を立てた。

「それらが形を成して、やがて耐えられなくなったあなたは――私を生み出した」

「やめて」

思い出したくない感覚が、胸の奥から這い上がってくる。

「私はあなたの“黒”。そしてあなたは、私の“白”」

否定したかった。

けれど、言葉が出てこない。

「しばらくは、それでよかった。ただの、その場しのぎだったけどね。私が受け止めている間、あなたは“普通”でいられた」

彼女は淡々と語る。

「でも、私たちは強くなかった。学校も、友達も、全部が嫌になった。一人で泣いて、他人を恨んで、目を逸らして……何もしなかった」

心臓が、重く沈む。

「それなのに、欲しいものばかり増えていった。消えたいとも思った。自分も、他人も」

私は、膝が震えるのを感じた。

「よく頑張った、休もう――なんて言わない」

彼女は夜空を見上げる。

「……私たちは逃げた。夜に」

「ああ……」

理解してしまった瞬間、胸の奥が焼けるように痛んだ。

私は、だめな人間だったんだ。

誰かと心から笑い合える存在じゃない。

笑顔を貼り付けて、“私”を演じてきただけ。

「ここは、夢と精神の狭間」

彼女は静かに告げる。

「花園は夢の都。夜空は現実の鏡。限界なんて、とっくに超えているのに……それでも、同じ場所に立とうとする」

そして、私を見つめた。

「あなたがここに来た目的は――」

胸が、耐えきれず悲鳴を上げる。

「……やめて」

「私を、殺すこと」

世界が歪んだ。

その瞬間、鎖が外れたように、黒い感情が溢れ出す。

私は衝動のまま、彼女に飛びかかり、その首に手をかけた。

「そう、それでいい」

彼女は、苦しそうに、でもどこか安堵した顔で言った。

「私を殺して。そうすれば、あなたはまた違う道を――」

頬を、涙が伝った。

第二章 夜空の裏側

首にかけた手に、はっきりとした感触があった。

細く、温かく、そして――驚くほど脆い。

「……やめないの?」

彼女はそう言った。苦しそうなのに、抵抗はしない。

その声を聞いた瞬間、胸の奥がひくりと痙攣した。

「やめてほしいの?」

問いかけるように言うと、彼女は小さく笑った。

「いいや。あなたが決めること」

夜空は変わらず、静かに広がっている。

満月の光が、私たちを照らしていた。

「ねえ、白」

その呼び方に、指先が一瞬だけ緩む。

「あなたは、私が“悪”だと思ってる?」

答えられなかった。

思っている、というより、そうであってほしかった。

「私が全部引き受けていることにすれば、あなたは楽でしょう」

彼女は続ける。

「嫌な気持ちも、醜い感情も、全部“黒”のせい。あなたはただ、被害者でいられる」

「……違う」

反射的に否定したが、声に力はなかった。

「違わないよ」

彼女は私をまっすぐ見つめる。

「学校で、机に向かっているとき。何もわからない問題を前にして、頭が真っ白になったとき。友達が楽しそうに話している輪の中で、突然、自分だけが外側にいる気がしたとき」

心臓が、どくりと鳴った。

「その瞬間、あなたは“感じる”前に、私を呼んだ」

私は思い出す。

答案用紙の余白。

再試験という文字。

意味もなく笑って相槌を打った放課後。

「私は、あなたを守った」

彼女の声は、静かだった。

「あなたが壊れないように。感じすぎて、立ち上がれなくならないように」

「でも……」

「うん、わかってる」

彼女は私の言葉を先回りする。

「それは、前に進むことじゃなかった。ただ止まること。逃げること」

夜空の星が、ひとつ、瞬いた。

「でもね。止まらなきゃ、あなたは壊れてた」

その言葉が、胸に深く沈んだ。

「白。あなたは何もしてこなかったわけじゃない」

「……嘘」

「嘘じゃない」

彼女は、少しだけ強い口調で言う。

「あなたは、毎日“普通”を演じてた。遅刻しないように起きて、授業を受けて、笑って、家に帰る。それだけで精一杯だった日もあったでしょう」

喉が、詰まる。

「私が引き受けていたのは、あなたが表に出せなかったものだけ」

彼女は、自分の胸に手を当てた。

「怒りも、妬みも、消えたいって願いも。あなたは、それを“持ってはいけない”と思ってた」

私は、知らないうちに手を離していた。

彼女の首に、赤い跡が残っている。

「だから、私が生まれた」

彼女は一歩、後ろに下がる。

「白。あなたがここに来た理由は、私を消すことじゃない」

「……じゃあ、何?」

声が震えた。

彼女は、少し困ったように微笑んだ。

「私がいないあなたが、どうなるのか確かめたかった」

その言葉に、花園の風が止んだ気がした。

「私が全部引き受けていたから、あなたは立っていられた。私を殺せば、あなたは“ちゃんと生きている人”になれると思った」

夜空の星が、またひとつ、欠ける。

「でもね」

彼女は、静かに言った。

「白は、本当に白だった?」

答えは、わかっていた。

ずっと、見ないふりをしていただけだ。

第三章 白は本当に白か

「白は、本当に白だった?」

その問いは、責めるようでも、試すようでもなかった。

ただ事実を確かめるための、静かな確認だった。

私は答えられず、視線を落とした。

足元では、花園の花が風もないのに揺れている。花弁の影が、地面に不規則な黒を落としていた。

「私は……」

言いかけて、言葉が途切れる。

何を言えばいいのか、わからなかった。

「自分は何も悪くない、って言いたい?」

彼女の声は柔らかい。だからこそ、逃げ場がなかった。

「それとも、全部私のせいだって?」

首を横に振る。

「……違う。でも」

「でも?」

「私は、ちゃんと頑張ってたって……思いたかった」

その瞬間、彼女は目を伏せた。

「うん。それが一番、苦しかったところだね」

彼女は一歩、近づいてくる。

「白。あなたはね、“何もしなかった”んじゃない。“選ばなかった”の」

胸が、ぎゅっと縮む。

「選ばなかった?」

「そう」

彼女は、夜空を見上げた。

「傷つくかもしれない選択。嫌われるかもしれない言葉。失敗が確定する行動」

月の光が、彼女の輪郭を浮かび上がらせる。

「あなたは、全部避けた。避けることで、自分を守った」

「それの、何が悪いの……」

声が、震えた。

「悪くないよ」

即答だった。

「生きるために必要だった。だから、私は否定しない」

一瞬、安堵しかける。

「でもね」

その次の言葉が、刃だった。

「その代わりに、あなたは“誰かに助けを求める”ことも選ばなかった」

息が、止まる。

「苦しいって言わなかった。限界だって言わなかった。全部、心の中で処理しようとした」

私は、唇を噛みしめる。

「だって……言ったところで」

「うん。わかる」

彼女は遮らない。

「どうせわかってもらえない。重いと思われる。迷惑をかける」

一つ一つ、正確に当ててくる。

「だから、“大丈夫な自分”を演じた」

私は、無意識に笑っていた。

取り繕うような、空っぽの笑顔。

「それが、白の黒」

彼女は、はっきりと言った。

「え……」

「自分は被害者でいたい。だから、誰も加害者にしない。誰も頼らない」

胸の奥で、何かが崩れる音がした。

「そうすれば、傷つかない。壊れない。でも」

彼女は、私の胸元を指差す。

「何も、得られない」

花園の色が、少しずつ褪せていく。

「白。あなたは優しかった」

否定できなかった。

「でもその優しさは、自分を削ることで成り立っていた」

私は、思い出す。

無理に笑った放課後。

誘いを断れなかった日。

何も言えずに飲み込んだ言葉。

「それを、私は受け取っていた」

彼女は、静かに言う。

「あなたが吐き出せなかった分だけ」

夜空の星が、ひとつ、音もなく消えた。

「だからね」

彼女は、私をまっすぐ見つめる。

「私だけが黒だと思わないで」

胸の奥が、熱くなる。

「あなたも、ちゃんと黒だった」

その言葉は、否定ではなかった。

裁きでもなかった。

ただ、逃げ場のない事実だった。

「……じゃあ、私は」

声が、掠れる。

「私は、どうすればよかったの」

彼女は、すぐには答えなかった。

しばらく沈黙が落ちる。

「それを、今から一緒に考える」

やがて、彼女はそう言った。

「だから、まだ終わらせないで」

月は、まだ夜空に残っている。

第四章 仮面の生活

目覚ましの音で、私は目を覚ました。

カーテンの隙間から差し込む朝の光は、昨日と何も変わらない。

天井を見つめたまま、数秒だけ呼吸をする。胸の奥が重い。理由はわからない。でも、慣れている。

「……起きなきゃ」

身体を起こし、制服に袖を通す。鏡に映った自分は、思ったよりもちゃんとしていた。寝癖もないし、目の下の隈も、そこまで目立たない。

私は、微笑む練習をする。

――これでいい。

教室に入ると、いつもの音がした。

椅子を引く音、誰かの笑い声、シャーペンの芯が折れる音。

「おはよ」

声をかけられて、条件反射で返す。

「おはよう」

その瞬間、私は“私”になる。

いや、“私を演じる私”になる。

授業中、ノートは取っている。

黒板の文字も写している。

でも、意味はほとんど頭に入ってこない。

テスト返却の日だった。

紙が机に伏せて置かれる。

裏返す前から、胸の奥がざわついた。

点数は、低かった。

赤い数字が、はっきりとそこにあった。

再試験、という文字も。

「……そっか」

声には出さず、心の中だけで呟く。

誰にも見せないように、すぐに紙を閉じた。

隣の席の誰かが、嬉しそうに点数を見せ合っている。

私はそれを横目で見て、笑った。

「すごいね」

本心じゃない。

でも、嘘でもない。

放課後、友達と帰る途中、会話がふと途切れた。

その一瞬。

世界から音が消えたみたいに、遠くなる。

――今、何の話してたっけ。

意識が、少しだけ内側に引き込まれる。

「どうしたの?」

声をかけられて、はっとする。

「え? あ、なんでもない」

笑って、首を振る。

この“なんでもない”を、私は何百回も使ってきた。

家に帰ると、鞄を床に置いて、ベッドに倒れ込む。

天井を見つめる。

「……疲れた」

やっと、本音が漏れた。

その瞬間、胸の奥が、ひくりと動く。

――呼んだね。

どこからか、聞き覚えのある声がした気がした。

「違う……」

私は、目を閉じる。

「ただ、ちょっと……」

でも、言い訳は途中で途切れた。

胸の奥に、黒い何かが溜まっていくのを、はっきりと感じる。

不安。

焦り。

情けなさ。

「こんなことで……」

自分を責める声が、内側から響く。

テストで落ちたくらいで。

会話についていけなかったくらいで。

「弱すぎる」

その言葉が、引き金だった。

夜が、静かに迫ってくる。

カーテンの外は暗くなり、部屋の中だけが取り残される。

私は、無意識に思っていた。

――また、逃げたい。

花園の匂いが、ほんの一瞬、鼻を掠めた。

第五章 逃げた夜

その夜のことを、私は何度も忘れようとした。

でも、忘れたふりをするたびに、形を変えて戻ってきた。

部屋の明かりは消していた。

カーテンの隙間から、街灯の光が床に細長く伸びている。

スマートフォンは伏せて、通知も見なかった。

誰かに連絡を取る気力は、もう残っていなかった。

「……はあ」

ため息が、やけに大きく聞こえた。

机の上には、返されたテスト用紙。

赤い数字と、「再試験」という文字。

それだけのこと。

本当に、それだけのことのはずだった。

「……ちゃんとやってたのに」

声に出した瞬間、胸が痛んだ。

ちゃんと、とは何だろう。

授業に出て、ノートを取って、最低限のことをしていただけ。

誰よりも努力したわけじゃない。

それなのに、どうしてこんなに苦しい。

「私、何がしたいんだろ」

答えは出ない。

代わりに、頭の中に言葉が溜まっていく。

どうせ無理。

また失敗する。

期待するだけ無駄。

「……疲れた」

その言葉は、重力みたいに落ちた。

死にたい、とは思わなかった。

本当だ。

ただ――

「止まりたい」

そう思った。

時間が止まって、

明日が来なくて、

何も考えなくてよくなればいい。

生きるのをやめたいんじゃない。

生き続けることを、少しだけ休みたかった。

布団に潜り込む。

耳を塞ぐ。

目を閉じる。

それでも、頭の中は静かにならなかった。

――逃げたい。

その瞬間だった。

胸の奥で、何かが“ほどけた”。

「……大丈夫」

聞き覚えのない声が、すぐそばで囁いた。

「ここにいるよ」

呼んだ覚えはない。

でも、その声は、確かに私の内側から響いていた。

「無理しなくていい」

胸の重さが、少しだけ軽くなる。

「頑張らなくていい」

涙が、勝手に溢れた。

「……ほんと?」

誰に向けた問いなのか、自分でもわからない。

「うん」

その声は、否定しなかった。

「ここでは、何もしなくていい」

暗闇の中で、私は息を整える。

呼吸が、ゆっくりになる。

「全部、私が受け取る」

その言葉に、救われたと思った。

この夜、私は“逃げた”。

現実から。

期待から。

「ちゃんとしていなきゃいけない自分」から。

それは、選択だった。

翌朝、私は何事もなかったように起きた。

制服を着て、学校に行って、笑った。

誰も、気づかなかった。

でも、その夜から、私は一人じゃなくなった。

苦しくなるたび、胸の奥に沈める場所ができた。

考えないようにする術を、覚えた。

それが、黒だった。

守りだった。

逃げ道だった。

そして同時に、

戻れなくなる道でもあった。

夜は、優しかった。

でも、長く留まる場所じゃなかった。

私は、それを知りながら、何度も夜に逃げた。

第六章 殺意の正体

刃物は、いつからそこにあったのだろう。

花園の中央、白い花に囲まれた場所で、それは私の手の中にあった。

冷たく、現実的な重さ。夢のはずなのに、感触だけがやけに確かだった。

「……いつの間に」

「最初からだよ」

彼女――黒は、少し離れた場所に立っていた。

「あなたがここに来たときから」

私は、刃先を見つめる。

花の色が、わずかに歪んで見えた。

「これで……」

言葉が、途中で止まる。

「私を、殺す?」

黒はそう言って、否定も肯定もしなかった。

「それが、あなたの答え?」

胸の奥が、ざわつく。

違う、と言いたかった。

でも、確かに私は、ここに来たとき――そう思っていた。

黒を消せば、

もう逃げなくて済む。

もう弱くならなくて済む。

「黒がいなければ……」

「あなたは、どうなると思う?」

彼女は、静かに問い返す。

「普通に……」

「“普通”って、何?」

言葉に詰まる。

「また、一人で全部抱える?」

刃物を持つ手が、震えた。

「また、限界まで我慢する?」

彼女は、一歩近づく。

「また、“大丈夫なふり”をして、ある夜に壊れる?」

「……やめて」

声が、かすれる。

「白」

彼女は、私の名前を呼ぶ。

「あなたが殺したいのは、私じゃない」

胸の奥が、締め付けられる。

「逃げてしまう自分」

彼女は続ける。

「弱い自分。止まりたがる自分」

私は、歯を食いしばる。

「それを消せば、前に進めると思った?」

刃先が、月の光を反射する。

「でもね」

彼女は、そっと自分の胸に手を当てた。

「私がいなくなったら、あなたは“強く”なるんじゃない」

夜空の星が、ひとつ、音もなく砕ける。

「ただ、無防備になる」

その言葉が、深く刺さった。

「私は、あなたの逃げ道だった」

彼女は、初めて目を伏せる。

「だから、殺されてもいいと思った」

「……え?」

「だって、それがあなたの望みなら」

胸の奥が、熱くなる。

「私が消えれば、あなたはちゃんと生きられるって」

涙が、勝手に溢れた。

「違う……」

「違わないよ」

彼女は、優しく言う。

「でも、それは“回復”じゃない」

私は、刃物を握り直す。

でも、もう振り上げる力は残っていなかった。

「それは、もう一度分かれるだけ」

白と黒を、もっと深く。

「……私は」

声が、震える。

「私は、どうすればよかったの」

彼女は、しばらく沈黙したあと、言った。

「殺さなくていい」

その言葉に、私は顔を上げる。

「消さなくていい」

花園の風が、ゆっくりと戻ってくる。

「ただ、“許す”」

「……許す?」

「逃げたこと。弱かったこと。止まりたかったこと」

彼女は、微かに笑った。

「それを選んだ自分を、“間違いじゃなかった”って言ってあげる」

刃物が、手から滑り落ちた。

白い花の間に、音もなく沈む。

「私は……」

胸の奥で、何かがほどけていく。

「私は、本当は」

言葉にした瞬間、はっきりとわかった。

「私を殺したかったわけじゃなかった」

黒は、何も言わず、ただそこに立っていた。

「ただ……」

私は、涙を拭う。

「もう、壊れたまま生きるのが、怖かった」

夜空の月は、まだ欠けていない。

第七章 白と黒の境界

刃物が落ちた場所には、もう何も残っていなかった。

白い花が揺れているだけで、傷も、血も、痕跡さえない。

「……消えた?」

私が呟くと、黒は首を横に振った。

「最初から、ここにはなかった」

彼女は、静かに言う。

「それは“行為”じゃなくて、“選択肢”だっただけ」

私は、自分の手を見る。

震えは、まだ残っている。でも、さっきまでの衝動はない。

「ねえ」

黒が声をかける。

「統合しよう、なんて言わないよ」

その言葉に、私は少しだけ驚いた。

「一つになれば、全部解決する、って話じゃない」

彼女は花園を見渡す。

「白と黒は、混ざり合えるほど単純じゃない」

風が吹き、花々がざわめいた。

その音は、心臓の鼓動に似ている。

「私は、あなたの影」

黒はそう言った。

「光が強いほど、影は濃くなる」

「……消せない?」

「消えない」

即答だった。

「でも、縛られなくなることはできる」

私は、ゆっくりと息を吸う。

「どうやって?」

黒は、少し考えてから答えた。

「境界を引く」

「境界?」

「そう」

彼女は、私と自分の間に、そっと手を差し出す。

「ここまでが白。ここからが黒」

花園の地面に、淡い線が浮かび上がる。

光でも闇でもない、曖昧な色。

「私は、あなたの代わりに感じすぎない」

黒は言う。

「でも、あなたが感じることを、奪わない」

胸の奥が、少しだけ軽くなる。

「あなたは、私を閉じ込めない」

彼女は続ける。

「でも、私が溢れそうになったら、気づいてあげる」

私は、線を見つめた。

完全に分かれていない。

でも、重なりすぎてもいない。

「それって……」

言葉を探す。

「一緒にいる、ってこと?」

黒は、微かに笑った。

「そう。共存」

その言葉は、思ったよりも静かだった。

「戦わない。消さない。正解にしない」

夜空を見上げると、星は減っていた。

でも、月はまだそこにある。

「希望が減る日もある」

黒が言う。

「でも、本心は消えない」

私は、胸に手を当てる。

確かに、そこに何かがある。

不安も、

弱さも、

それでも前を向こうとする、微かな意志も。

「白」

黒は、少し距離を取る。

「私が前に出る夜も、これからきっとある」

私は、頷いた。

「……うん」

「でも、そのとき」

彼女は、真剣な目で言う。

「私を殺そうとしないで」

胸が、きゅっと締まる。

「閉じ込めるんじゃなくて、“ここにいる”って認めて」

私は、深く息を吐いた。

「約束する」

その瞬間、花園の色が、少しだけ戻った。

派手ではない。

でも、確かに、生きている色。

境界線は、消えないまま、そこにあった。

それでよかった。

第八章 夢の都の崩壊

最初に気づいたのは、音だった。

花が擦れる音でも、風の音でもない。

もっと低く、遠い――地面の奥から響くような音。

「……何か、聞こえる」

私が言うと、黒は静かに頷いた。

「終わりが近い」

花園を見渡すと、いくつかの花が色を失っていた。

枯れているわけじゃない。ただ、存在が薄くなっている。

「ここ、壊れるの?」

「正確には」

黒は夜空を見上げる。

「役目を終える」

月は、少し欠けていた。

星は、もう数えるほどしか残っていない。

「夢の都はね」

黒は言う。

「全部を守ろうとする場所」

胸が、ちくりと痛んだ。

「感じきれなかった感情も、言えなかった言葉も、全部ここに集めてた」

足元の花が、音もなく崩れ、光の粒になって消える。

「でも」

黒は続ける。

「全部を抱え続けることは、できない」

私は、その場にしゃがみ込む。

「……なくなったら、どうなるの」

「なくならないよ」

黒は、優しく否定した。

「持ち帰れないだけ」

花園の中央が、ゆっくりと崩れ始める。

景色が歪み、輪郭が溶けていく。

「白」

黒が私を見る。

「あなたは、全部を理解しなくていい」

「全部、乗り越えなくていい」

その言葉に、涙が滲んだ。

「私は……」

声が震える。

「また、迷うと思う」

「うん」

「また、夜に逃げるかもしれない」

「それも、ある」

黒は否定しない。

「でもね」

彼女は、少しだけ微笑んだ。

「“戻ってこられる”夜になる」

空が、ひび割れるような音を立てる。

花園の向こうに、朝焼けの色が滲み始めていた。

「前は、夜に隠れたまま、朝が来るのが怖かった」

黒の声が、少し遠くなる。

「今は?」

私は、欠けた月を見る。

「……怖いけど」

胸に手を当てる。

「全部じゃなくていいって、思える」

それだけで、十分だった。

足元の地面が、光に変わる。

「白」

黒は、もう数歩離れた場所にいた。

「ここで、お別れじゃない」

「でも」

彼女の輪郭が、少しずつ薄れていく。

「いつでも同じ形では、会えない」

私は、立ち上がる。

「それでいい」

自分でも驚くほど、はっきりと言えた。

「全部を保とうとしない」

「必要な分だけ、持って帰る」

花園は、もう半分以上、消えていた。

夜空は、ほとんど朝に変わっている。

「行って」

黒は、最後にそう言った。

「現実へ」

私は、一歩踏み出す。

振り返ると、そこにはもう、花園はなかった。

ただ、淡い光と、欠けた月の名残だけが残っていた。

第九章 明日へ

目を覚ますと、天井があった。

見慣れた部屋。

カーテン越しの朝の光。

夢の名残は、もうほとんど残っていない。

「……夢、だったのかな」

そう思おうとすれば、できた。

でも、胸の奥に残る感触が、それを否定していた。

布団から起き上がる。

身体は重い。

それでも、昨日より少しだけ、息がしやすい気がした。

机の上には、再試験の範囲表。

消えたわけじゃない。

現実は、何も解決していない。

「……行かなきゃ」

洗面所の鏡に映った自分は、相変わらず頼りなかった。

でも、目の奥に、わずかな揺らぎがある。

笑顔を作る。

昨日より、少し下手だった。

学校へ向かう道。

朝の空は、思ったよりも明るい。

誰かとすれ違い、挨拶を交わす。

会話は続かない。

それでも、逃げなかった。

授業中、また意識が逸れそうになる。

胸の奥が、ひくりと動く。

――来る。

そう思った瞬間、私は気づいた。

押し込めようとしなくていい。

消そうとしなくていい。

「……大丈夫」

声には出さず、心の中で言う。

黒い感情は、確かにそこにある。

不安も、焦りも、情けなさも。

でも、それは私を覆い尽くさなかった。

境界が、そこにある。

放課後、帰り道で、ふと足を止める。

空を見上げると、月は出ていない。

星も見えない。

それでも、空はそこにあった。

「全部じゃなくていい」

小さく、呟く。

今日を、越える。

明日を、迎える。

それだけで、精一杯だ。

家に帰り、机に向かう。

参考書を開く手は、震えている。

「……わからない」

そう思いながらも、ページを閉じなかった。

完璧じゃない。

前向きでもない。

それでも、私はここにいる。

夜が来る。

きっと、また逃げたくなる。

そのときは――

「……戻ってくる」

誰に聞かせるでもなく、そう決める。

人を心から救える人なんて、いないのかもしれない。

自分のことだって、完全にはわからない。

でも。

今日の私が、昨日の私を少しだけ引きずり上げた。

それで、いい。

私は私を演じる。

壊れたまま、生きていく。

明日を、越えられたらいい。

第十章 それでも

夜は、特別な音を立てずに来た。

部屋の明かりを点けたまま、私は椅子に座っている。

机の上には、ノートとペンと、開いたままの参考書。

ページは、昼から変わっていない。

進んでいない。

でも、閉じてもいない。

それだけのことを、私はしばらく見ていた。

胸の奥は静かだった。

楽でも、安心でもない。

ただ、騒がしくなかった。

――今は。

そう思った瞬間に、

この「今」も、すぐに終わるのだとわかる。

それでも、何もしない。

何かを決めるほど、私は器用じゃない。

前向きになるほど、強くもない。

気づけば、呼吸を数えていた。

一つ、二つ。

数えるのをやめる。

夜は、相変わらず夜のままだ。

黒がいるのか、いないのかは、わからない。

呼んだ覚えもないし、追い払ったつもりもない。

ただ、胸の奥に、

触れたら崩れそうな場所がある。

私は、そこを見ない。

代わりに、窓の外を見る。

月は出ていない。

星もない。

それでいい。

大きな未来を考えると、息が詰まる。

何年後の自分とか、

こうなりたい姿とか。

そういうものは、今の私には重すぎる。

だから、考えない。

明日のことも、できれば考えたくない。

でも、考えずにいられないのも、知っている。

その矛盾を、解決しようとはしない。

ただ、今ここにいる。

ペンを持ち上げて、

何も書かずに、また置く。

それでも、私は席を立たない。

夜は、静かに続く。

私も、静かに続く。

明日を、乗り越えられたらいい。

それ以上でも、それ以下でもない。

そう思えるかどうかすら、わからないまま。

私は、今日を終える。

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