駄目な精神科医

真田直樹

第9話

失格の意味

桐島は、自分が「精神科医として失格だ」と言われた日のことを、はっきり覚えている。

怒鳴られたわけではない。

責め立てられたわけでもない。

ただ、淡々と告げられた。

「君は、向いていない」

その言葉は、否定というより、事実確認に近かった。

桐島自身も、どこかで同じことを思っていたから、反論できなかった。

診断は遅れる。

決断は鈍い。

距離の取り方が、不器用だ。

精神科医として必要とされる「切り分け」が、できない。

——これは、治療。

——これは、感情。

その境界線を、引くたびに、手が震えた。

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佐藤の件があってから、桐島は意識的に「正しい医師」を演じていた。

マニュアルに沿う。

ガイドラインを確認する。

同僚の意見を積極的に取り入れる。

外から見れば、改善だっただろう。

問題は起きなくなった。

指摘も減った。

だが、診察室の中で、何かが確実に失われていた。

患者の話を聞きながら、

心のどこかで、線を引いている自分がいる。

——ここまでは、聞く。

——ここから先は、入らない。

その線を守るたび、胸の奥が、少しずつ鈍くなった。

「……これでいいのか」

誰に聞くでもなく、呟く。

正しさの中で、

人としての感覚が、薄れていく恐怖。

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ある日、若い研修医が、桐島に声をかけた。

「桐島先生って、前はもっと……」

言葉を探すように、間を置く。

「もっと、患者さんと話してましたよね」

桐島は、苦笑した。

「そう見えましたか」

「はい。今は……ちゃんとしてる感じです」

ちゃんとしている。

それは、褒め言葉のはずだった。

だが、桐島の胸には、重く響いた。

「先生、前のほうが、好きだったって言う患者さんもいました」

研修医は、悪気なく言った。

その言葉が、深く刺さる。

——好きだった。

精神科医にとって、危険な言葉。

それでも、無視できなかった。

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その夜、桐島は一人で考えた。

精神科医として、失格とは何なのか。

・感情に寄り添いすぎることか。

・距離を取れないことか。

・患者を「症例」にできないことか。

どれも、正解のようで、どれも違う気がした。

佐藤の顔が、浮かぶ。

あの人は、回復しただろうか。

それとも、ただ、耐えているだけだろうか。

——私は、彼女を救えなかった。

だが、別の声が、静かに問いかける。

——では、私は、彼女を傷つけただけだったのか。

答えは、出ない。

精神医療は、成功と失敗を、簡単に分けられない。

誰もが、どこかで傷つき、

それでも、生き延びていく。

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桐島は、白衣を脱ぎ、椅子にかけた。

鏡に映る自分は、

以前よりも、少しだけ「医者らしく」見えた。

それが、嬉しくなかった。

「……失格で、いいのかもしれないな」

ぽつりと、そう呟く。

完璧な距離を保てない医師。

感情を切り捨てられない医師。

それでも、

誰かの名前を、忘れない医師。

もしそれが、失格なら。

——自分は、その失格を、引き受けて生きるしかない。

________________________________________

翌日。

桐島は、外来の合間に、あるカルテを開いた。

新しく担当する患者。

年齢、症状、簡単な経過。

そして、最後に、小さく書き足した。

まず、名前を呼ぶ。

それは、規則でも、治療方針でもない。

ただ、彼が医師であり続けるための、最低限の約束だった。

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駄目な精神科医 真田直樹 @yukimura1966

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