駄目な精神科医

真田直樹

第8話

切り離されたあとで

佐藤の朝は、以前よりも静かになった。

目覚ましが鳴っても、すぐには起き上がれない。

理由は分かっている。

——今日は、病院に行く日じゃない。

それだけで、一日の輪郭がぼやける。

以前は、診察日を中心に生活が組み立てられていた。

前日は、少し緊張して、

当日は、何とか外に出て、

終わったあとは、しばらく呼吸が楽になる。

その周期が、突然、消えた。

代わりに残ったのは、

何もない時間と、

説明のつかない疲労感だった。

佐藤は、カレンダーを見つめた。

書き込まれていた診察予定は、すべて消してある。

消したのは、自分だ。

——もう、関係ない。

そう言い聞かせるために。

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新しい担当医との診察は、淡々としていた。

症状の確認。

睡眠時間。

食欲。

服薬状況。

「何か、困っていることはありますか」

その質問に、答えられなかった。

困っていることは、山ほどある。

だが、その中心にあるものを、言葉にできない。

——あの人が、いない。

それは、症状ではない。

だが、確かに苦しい。

佐藤は、曖昧に首を振った。

「今は……特に」

その返事に、新しい医師は頷き、カルテに何かを書いた。

必要なやり取り。

正しい距離。

それが、悪いわけではない。

それでも、診察室を出たあと、胸がひどく冷えた。

——私は、また「患者」に戻った。

名前を呼ばれる前の、

説明される側の存在に。

________________________________________

一方、桐島の時間も、歪んでいた。

佐藤のいない外来は、静かすぎた。

次々と患者は来る。

話を聞き、薬を調整し、必要な助言をする。

やるべきことは、できている。

だが、診察室の椅子を見るたび、

無意識に、ある座り方を探してしまう。

——今日は、足を少し揃えて座る人はいない。

そんな考えが浮かび、自分を戒める。

桐島は、意識的にカルテの書き方を変えた。

感情的な記述を減らし、

事実と症状だけを書く。

「正しい医師」に近づこうとする試みだった。

それでも、ふとした瞬間に、佐藤の言葉が蘇る。

「私、先生に会うために、生きてるみたいで」

それは、忘れてはいけない言葉であり、

同時に、思い出してはいけない言葉でもあった。

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ある日、桐島は、院内の廊下で佐藤を見かけた。

向こうから歩いてくる。

以前より、少し痩せたように見える。

一瞬、足が止まりそうになる。

だが、立ち止まってはいけない。

目が合った。

佐藤は、わずかに驚いた顔をしてから、

すぐに視線を逸らした。

会釈もしない。

呼び止めもしない。

それが、決められた距離だった。

すれ違ったあと、桐島の胸に、強い痛みが走る。

——守るためだった。

その言葉が、何度も頭の中で繰り返される。

本当に、守れただろうか。

________________________________________

佐藤は、その夜、珍しく日記を書いた。

誰にも見せない、短い文章。

今日は、あの人を見た。

声は、聞こえなかった。

名前も、呼ばれなかった。

それでも、私は、まだ生きている。

書き終えたあと、しばらくペンを持ったまま、動けなかった。

——生きている。

それは、以前よりも、少しだけ重い言葉になっていた。

________________________________________

桐島もまた、その夜、古いカルテを開いた。

正式には、開くべきではない。

だが、処分されていないことを、知っていた。

佐藤の名前。

そこに、最後に書かれた自分の文字を見つめる。

今日は、名前を呼べなかった。

その一文が、彼の中で、何度も反響する。

医師としては、正しかったかもしれない。

だが、人として、

何かを失った感覚は、消えなかった。

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駄目な精神科医 真田直樹 @yukimura1966

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