駄目な精神科医

真田直樹

第6話

外される名前

最初に違和感を覚えたのは、受付の対応だった。

「佐藤さん、少々お待ちください」

いつもより、ほんの少しだけ、間があった。

それだけのことなのに、胸の奥がざわつく。

待合室の椅子に座り、呼ばれるのを待つ。

周囲の音が、やけに遠い。

テレビの音。

人の咳。

番号表示の電子音。

——遅い。

理由は分からない。

ただ、嫌な予感がした。

やがて、受付の職員が近づいてきた。

「佐藤さん、今日の診察ですが……」

その言葉の続きが、聞きたくなかった。

「担当医が、変更になる可能性がありまして」

頭の中が、一瞬、真っ白になる。

「……え?」

声が、自分のものではないように聞こえた。

「本日は、少しお待ちいただくか、別日のご案内になるかもしれません」

言葉は丁寧だった。

表情も、事務的な親切さを保っている。

だからこそ、逃げ場がなかった。

「桐島先生は……」

名前を口に出した瞬間、胸が締めつけられる。

「現在、院内の調整中でして」

それ以上は、教えてもらえなかった。

調整。

その一言が、佐藤の中で何度も反響する。

——私は、調整される側なんだ。

患者という立場は、

説明を受ける権利があるようでいて、

実際には、決定事項を後から知らされることが多い。

佐藤は、待合室の椅子に座ったまま、動けなかった。

——何か、悪いことをした?

——重すぎた?

——頼りすぎた?

自分の言動を、必死に思い返す。

あの日の言葉。

「先生に会うために、生きてるみたいで」

あれが、いけなかったのだろうか。

喉が、きゅっと締まる。

——やっぱり、言うべきじゃなかった。

後悔が、遅れて押し寄せる。

________________________________________

その頃、別の階の会議室。

桐島は、医長の前に座っていた。

「一時的に、佐藤さんの担当を外れてもらいます」

淡々とした声だった。

「……理由は」

「あなたのためでもあります」

その言葉が、ひどく曖昧だった。

「患者の依存傾向が強まっています」

「それは……」

「あなた個人の責任だと言っているわけではありません」

続けて、こう言われた。

「だからこそ、距離を置く必要がある」

正しい判断だ。

教科書通り。

誰も責められない。

「本人には……」

「詳しい説明は、こちらで行います」

桐島は、唇を噛んだ。

——説明される「本人」には、選択肢はない。

それでも、反対はできなかった。

医師として、

職員として、

組織の一部として。

「……分かりました」

その返事が、どれほど重いか。

誰も、気に留めなかった。

________________________________________

待合室。

佐藤は、呼ばれないまま、時間だけが過ぎていく。

やがて、受付から再び声がかかった。

「本日は、診察を別日に変更させてください」

その瞬間、胸の奥で、何かが切れた。

「……桐島先生には、会えないんですか」

職員は、少しだけ困った顔をした。

「今日は、難しいです」

その「今日は」が、

永遠に続くような気がした。

佐藤は、ゆっくりと立ち上がった。

足元が、少しふらつく。

「分かりました」

それだけ言って、病院を出た。

外の空気が、やけに冷たい。

——名前を、外された。

診察予定表から。

関係から。

安心から。

説明は、なかった。

謝罪も、なかった。

ただ、現実だけがあった。

佐藤は、歩きながら、何度も思った。

——患者は、こうやって、切り離されるんだ。

それが、正しいことだとしても。

その夜。

佐藤は、携帯電話を見つめていた。

連絡先は、やはり、ない。

代わりに、頭の中に、声だけが残っている。

「佐藤さん」

名前を呼ばれた記憶だけが、

今は、痛みになっていた。

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駄目な精神科医 真田直樹 @yukimura1966

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