天網の指輪 ―境界の荒野と、死に損ないの愛の証明―

神保2才

天網の指輪

雪の降る町。

夜の空から、星が降っているようで、私は、その中に溺れるしかなかった。


「大好きだったのに……なぁ」


私の右手には、行き場を失ってしまったプレゼント。


「こんな、寒いときに振らなくてもいいじゃん」


我慢すればするほど、声が震えてしまう。

恋人たちの去った海岸線沿いから見える、広大な海は、全てを飲み込み、かき乱してくれそうで、恐怖と安堵入り混じった不思議な気分にさせてくれる。


「なんなの……家族とか、友達とか、全部いらないって言ってたのに」


頭の中にこびりついた、彼女の泣き顔。

自分を責め、殻に閉じこもり、私の声もろとも、世界を拒絶してしまうような後ろ姿。


「なに?……もう一人で生きるって」


微睡の中にいる私の世界を壊した、たった一つの言葉。


「私が……あなたを大好きな私が……そんなこと……」


今、隕石が降って世界が滅茶苦茶になればいいと思う。

それか、この場でテロが起こって、私もろとも、世界を塗りつぶしてくれれば。


「ははっ……別れたら……死ぬって思ってたのに……それだけ大好きだったのに」


私の命の境目。

私のひ弱な手から熱を奪う、この海との境界を超えることが出来ない。私の世界は壊れたはずなのに。

それでも、私の生物としての醜い本能は、この境界を越えさせてくれない。


「……動け……動け…………うごいてよ」


足が震え、手すりを掴む手の力でさえ抜けてしまう。

死への恐怖は、私の思いよりも強大であるらしい。


その事実が、私を失望させた。


自分の思いを、人類が積み重ねた歴史が値踏みしているようで。 それが、ひどく不快で、早く抜け出したい。


「家に帰る? もうあなたが来てくれないあの家に?」


脳裏に、暖かく私を迎えるこたつと湯気を立てたコーヒーと、彼女のいない部屋が映る。


「あぁ……もうダメなんだ……私の居場所なんて……」


ただ手すりに触れているだけだった手に力がこもる。

冷たく、どんよりと私を待つ、黒い水面は、彼女のいない部屋なんかよりも、暖かく見えた。


「……おもいだしてくれるかな」


最後の瞬間まで、彼女のこと。 共に過ごした日々が、交わした言葉が、結んだ契りが、私の体を温めてくれる。


心の奥底に、彼女の暖かい手が触れた気がした。


「ごめんね」


誰かに向けた言霊は、雄大な自然の一部に溶けてしまう。

私はただ、冷たく私を受け止めてくれる自然に身を任せる。


「ごっはっ、ぶぐぅ」


喉を凍らせるような冷たい水が、肺に入り込んでくる。

藻掻く足は必死に、地面を探す。


だが、どれだけ藻掻こうと、深く、無慈悲に私を包む海は、私を優しい地獄に導くだけだ。


――助けて。凜華。


死ぬときは、もっと優雅に、愛おしい人の記憶に包めるものだと思っていた。

だが、現実は、痛く、苦しく、冷たいだけ。隣にいた人の暖かさも忘れてしまう。


――いや……いや……凜華と、凜華と。


藻掻く手の感覚も既になくなった。


――これは、罰ね……凜華を不幸にした。


来世は、凜華なんて好きになりたくない。もう、苦しい思いなんてしたくない。

でも、それでも、愛おしい凜華の笑顔だけは、守りたかった。


――最後は……泣かせちゃった……な。


光が消える。

真っ暗な闇の中、渡しきれなかった思いの呪詛と祝詞が私の意識を結ぶ。


私を支配していた冷たさが消えた時、私の小さな世界は、闇夜に沈んでいった。


   *


「ぶっはあっ」


母なる海に帰ったはずの私は、目を覚まし、体中を侵食していたはずの水を吐き出す。


だが、どれだけ吐き出しても、出てくるのは、喉を焼く胃酸だけ。


「ここは?」


辺りは真っ暗闇で、空だけが私を照らしていた。

だからこそ、自然と明るい空を向いた私は、面食らう。


「へっ? 月が、ふたつ?」


空に浮かぶ満月と、三日月。

大きさもばらばらだが、確かにそれは、私が知る月であった。


「でも、なんで、ふたつ?」


茫然とした私は、もう一つの違和感に気付く。 辺りが全く冷たくなく、雪も降っていない。


「え? こ……ここはなに?」


茫然とするも、仕方がない。

辺りには何もないのだ。星明りに照らされた辺りは、荒涼とした大地のように見える。


「わ、わたし、死んだんじゃ」


助かったとしても、こんな場所に来るはずがない。 それならば、ここは――。


「地獄?」


茫然と呟く私。

だが、血が足りないのか、地面に手をつき、腰を落としてしまった私は違和感に気付く。


「ゆ・ゆびわ?」


私が、凜華に渡すはずだったもの。

刻印も私の力で入れたこの指輪を、私が見間違うはずがない。


「げ、現実? 感覚もあるし。でも……こんなところ」


全力で記憶を検索するが、見つかるはずがない。 そもそも、ここは日本なのか。

それさえ、怪しくなるほど、二十一世紀を生きる私に馴染みのない光景だった。


「と……とりあえず、どこかに行かないと」


広大な自然の中に一人佇んでいた私は、自然と「死にたい」という気持ちが消えていた。


記憶の中の海の中が、自分の望んでいるものと違ったからかもしれない。


何もわからないが、気持ちを切り替え、砂と土の混じった大地を進もうと思ったとき。


「ぐがぁああ」


暗闇の中から、何かが現れた。


「きゃあ!」


暗闇に溶け込んだそれは、いつか凜華と見に行った動物園の黒ヒョウのようであった。


だが、私の記憶と決定的に違うところがある。


「そ、そらを……歩いてる」


空に台地があるかのように、踏みしめ歩いているのだ。 現実は思えない。


だが、まったく動けない。


「……い、いや……ああ」


獣はこちらを伺うように、距離を詰めてくる。 私は必死に逃げようとする。だが、腰が抜けてしまい、地面を這うように、後ろに下がることしか出来ない。


「ご、ごめんなさい……こ、こないで」


私は地面を這いずり、無様に泣きながら許しを乞うていた。 へたり込んだ腰が、暖かく濡れた感触がする。


「がっるる」


距離を保っていた獣が、高速でこちらに向かってくる音が聞こえる。

だが、目を逸らし、無様に這いずり回る私には様子が分からない。


数秒としないうちに、私は、この腹をすかせた獣に生きたまま食べつくされるのだと理解した。


――い、いや。死にたくない。


死んだつもりだった私だが、獣に生きたまま餌にされる死に方はごめんだ。

しかし、どうしようもできない。


涙と鼻水で、顔をぐしゃぐしゃにし、いつ壮絶な痛みが襲ってくるかという恐怖に耐える時間が苦しかった。


這いずることを辞め、頭を守るように地面に蹲った私の耳に、ガンっという鈍い音が聞こえた。


痛みは襲ってこない。


続けて、腰を濡らす暖かさとは違う、べとりとした生暖かいものが首に降りかかってきた。


――ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。


何かに謝り、恐怖が去ることを願っていた私だったが、いつまでも来ない痛みに違和感を覚えた。 ゆっくりと、首を曲げ、首元を濡らした何かを見ようとした。


「ひっ、きゃあー!」


私の悲鳴が、夜の帳を切り裂く。

頭を守る手の間から私が見た景色は、下顎から生えた獰猛な牙を血にぬらす獣の姿だった。


最初、私は、それが自分の物だと思った。

だが、足こそ動かない私だが、体に痛みはない。 それに、目の前の獣は私に顔を近づけたまま動いていなかった。


「え? なに……これ?」


全体を見回すように瞳を向けた先には、私の体の一メートルほど上から、覆いかぶさるように飛びつく体勢を取る巨大な獣の姿。


そして、それを拒む青白い壁。


その壁からは、薔薇の棘のような槍が飛び出し、私を遥かにしのぐ大きさの獣を串刺しにしていた。


「へっっ?」


私は何が起きているか理解が出来なかった。

だが、暗闇の中、青白く光る防壁の様な壁と、それと同じ色を発している左薬指にはまった指輪が見える。


「なんで、光って」


その指輪は、ただのシルバーリングのはずだった。


だが今は、闇夜の中、妖しく光りを輝かせている。 私は直感的に、私を守ってくれた青白い壁と、指輪がリンクしているのだと理解した。


「凜華……守ってくれたの?」


これは、私が凜華に渡すはずだった指輪。

寡黙で冷たく、それでも優しい彼女を表すような美しい指輪だ。


それが、凜華を象徴するような青白い光を発し、私を危険から守ってくれたのだ。


「愛してる。愛してる。凜華」


私だけに見せてくれる、ぎこちない笑顔が見えた気がした。


これは、凜華の愛。


危険に冒され、錯乱した私は、そう無理矢理、自分の都合がいいように結論付けた。


   *


それから私は荒野を彷徨い続けた。


何日、何十日歩き続けたか分からない。


心は消耗し、体も錆びついたガラクタのように、ぎこちない動きしか出来ない。

だが、不思議とお腹は減らないし、猛獣が私に襲い掛かってくることもなかった。


「はぁ、はぁー」


景色の変わらない荒野の中、私は自分との対話を繰り返した。


これまでのこと、これからのこと。 あらゆることを、ゆっくりと考えることで、今、私は一つの結論にたどり着いた。


「もう一回、もう一回凜華に会わないといけない」


そして、自分の気持ちを伝える。 そのために、死んでいる場合ではないのだ。

一度私は死んだ。 だからこそ、凜華がどれだけ嫌だと言っても、私は凜華に会いに行く。


拳を握り、決断した、ふとした瞬間だった。


自身の決意を胸に、どこに何があるのかも分からない荒野を歩いていた私は、一つの違和感に気付いた。


「つ、月が動いてる」


真っ暗で、常に同じ場所から私を照らしていたはずの月が動き出し、急速に一つに合わさった。


止まっていた世界が動き出した合図のように感じられる。


「……なにあれ?」


月光が一筋の光となり、何もなかったはずの荒野の先に、光の柱を立てていた。

私は本能的にそれが出口だと気付いた。 理由は分からない。でも、たしかに、それは出口なのだ。


私は走り出した。 草に足を取られ、靴が破れ、膝をすりむこうとも、その光に向かって全速で走った。


どれくらい走っただろう。 私は、光の柱の根本が見えるところまでたどり着いた。


だが、光の柱の根本は見えない。 何かぶつぶつとした、黒いものが入り口を塞ぎ、影になっているためである。


「……むりだ」


月光がより強く光り輝き、その影の正体を私に見せた。


黒い影は、その一つ一つが、真っ黒な獣だった。 虎から獅子、巨象に大蛇までいる。その一つ一つが、私の知っている尋常な大きさではない。


「結局、ダメじゃん……私が何を思ったって……」


あんなものの中心に行く勇気なんて私にはない。 あの青白い壁だって耐え抜けるかどうか。そんなものに賭けられるほど私は強くない。


「そっか。ここは地獄なんだ……私が、自殺しちゃったから」


何かの本で、自殺とは親殺しに次ぐ重罪だと読んだことがある。 身投げをした私は、後悔と絶望の中、罪を注がないといけないのだろう。 見える希望には近づけず、最愛の人を思い続ける日々。


たしかに、これは地獄だ。


「……熱ッ!」


左手の指がライターで焙られたような感覚に襲われる。 膝を曲げ、枯草しか咲いていない地面に倒れ込もうとした私を止めるかのようなタイミングだ。


「まだ、まだ何か出来るの?」


私は半狂乱に叫ぶ。


「私にやれっていうの!」


指輪の熱はどんどん上がっていく。 同時に、獣の群れがこちらに向かってくる姿も目に映った。


「やめてよ。私は……私は主人公じゃないんだから。何も持っていないんだから、もうあきらめさせてよ」


狂ったように私を襲う獣たち。 先陣を切った獅子の牙が私の頭を切り裂く寸前で止まった。


鮮血で染められたような、深紅の壁がその攻撃を防いだのだ。色が最初とは違うのはどうしてだろう?


だが、そんなことを考えている暇もない。数が多すぎた。


次々と私の命を食べつくしたいのだろう獣たちは、私の前、後ろから大挙して押し寄せてくる。


「いや……こないで」


本能のまま私を食らおうとする獣たちは、とても怖かった。 目を背けたくて、そのまま蹲って、逃げてしまいたい。


「あ……だめ」


ピキピキという音と共に、赤い壁に亀裂が走る。 大挙した獣の圧力に耐えられていないのだ。


「終わりなの?……凜華ちゃん」


その名前は、私の脳裏に刻まれた幸せな思いを呼び覚ます。


なんでもない休日の日。

二人で手を繋ぎながら、何でもない映画を見てた日。 映画の内容なんて頭には残っていなくて、ただ、私の横顔を見つめるその顔に、恋をして。


「凜華ちゃん……凜華ちゃん」


勝気な瞳に似合わない程、恐がりな凜華ちゃんを抱きしめて寝た夜もあった。 たしか、変な虫が出ただけなのに、私の胸に顔を埋めて来て……。


「かわいかったな……」


だから、別れも辛かった。 凜華ちゃんの家族に会いに行ったあの日。


女同士の結婚なんて認めないって言われて憔悴した凜華ちゃん。 そこから私たちの全部が崩れていった。 凜華ちゃんは、私と違って家族が大切だから。その思いも無下に出来なくて。


「でも、それでも、私を選んでほしかったなぁ」


結婚の縁談があるって、泣きながら凜華ちゃんに言われて。 あの時、私の世界は全部崩れちゃったんだ。凜華ちゃんだけが全てだったのに。


そのまま、凜華ちゃんの言葉も聞かないで、逃げて、海に身を投げて……。


「ほんとに、ダサいな私。凜華ちゃんに振られたら、凜華ちゃんごと死んでやるって思ってたのに。……でも、私が凜華ちゃんを傷つけることも、悲しませることも出来ないんだもん」


恋をした日から私の負けは決まってたんだ。だから、この結末も仕方がない。 私の気持ちに呼応したように、獣たちの侵入を拒んでいた壁が崩れ去る。


蹲る私に、向かってくる獣の足が見える。


「さよなら、凜華ちゃん」


最後はただ、目を閉じて、二度目の死を受け入れようとした。 だが、左手の薬指にはめた指輪が、より一層強い熱を帯びて、その存在を私に主張する。


その熱に浮かされたように、私の頭に一つの問いが浮かぶ。


『私は凜華ちゃんに全部を伝えられた?』


答えは、伝えてない。まだ、何も、伝えてない。


「だって、渡せてない。私の気持ちを、渡せてない」


私は最後まで足搔き切れていない。この指輪を渡すことも、死に急いだことも。 二回目くらいは、全力で足搔かないと……。


顔を上げる。黒虎の血走った瞳と視線が絡み合う。 背けてしまいたい。だが、私は最後まで足搔かないといけないんだ。


「だから、動いてよ」


腰も抜け、震える足は自分の思い通りに動かない。


「あぁ、私、全部遅いんだ」


でも、どれだけ怖くても、命を諦めない。 獣の牙が、私の喉元に届く瞬間。


「アッッガ、キャン!」


私の顔を汚す血は、黒虎の物だった。


「へ?」


目の前には、真っ赤な光の剣に貫かれた黒虎の姿。


「り……凜華ちゃん?」


黒虎を貫いた光を辿ると、左手の薬指から伸びていた。 また、この指輪が、凜華ちゃんが私を救ってくれたのだ。


「じゃあ、私も、頑張らないと」


黒虎の死体なんて気にしない大蛇が私に向かってくる。


「っひ」


咄嗟に左手を大蛇に向ける。 左手の動きに合わせ、光の線も大蛇に向かい、真っ二つに変えてしまった。


「これなら……待ってて、凜華ちゃん」


私は滅茶苦茶に左手を振り回しながら、月光の方に向かって走った。 指輪から延びる光は、あらゆる獣を切り裂き、私の道を作ってくれた。


「もう、私は後悔しない。全部、全部、伝えるんだ」


大挙して押し寄せる獣を払いのけ、私は月光の柱へあと一歩と迫る。


「やった。これで……」


私が月光に飛び込もうとしたとき。何者かが、私の体を投げ飛ばした。 私は咄嗟に受身を取るが、それでもゴロゴロと荒野を転がってしまう。


これが、きっと最後の試練だ。 どんな獣か、顔を拝もうと立ち上がると、そこには――。


「え?……り、凜華ちゃ……ん?」


別れた日と同じ姿の凜華ちゃんが立っていた。 だが、私の知っている凜華ちゃんとは決定的に違うところがある。


「わ、私の凜華ちゃんは、そんなに濁った目してないから……偽物はどっかいけ」


そう。感情のない瞳を見ただけで、それが偽物だと本能のレベルで理解できる。 あとは、この光で突き刺すだけ。だけなのに。


また、新たな迷いが生まれた。 それは、今の私を支える土台からひっくり返すもの。


――凜華ちゃんは、私なんていらないんじゃないかという疑問。


「ち、違う。凜華ちゃんは、私が大好きなはずで……」


目の前の凜華ちゃんの偽物。 だが、これは凜華ちゃんの本心なのではないか。 私を否定し、消したい凜華ちゃんの意思なのではないか。


「私は……迷惑なだけ?」


そう思った瞬間に、また体は動かなくなる。 迸っていた左手の光も消えてしまった。


「じゃあ、ここを抜けても……意味ないじゃん」


目の前が真っ暗になる。 凜華ちゃんに求められず、もう一度否定の言葉を聞けば、今度こそ私の存在は完膚なきまでに崩れ去る。


「そんな……そんなの……地獄じゃん」


目の前の月光は、私をより罰するための入り口なのかもしれない。 出口の先に希望があるとは限らない。


「でも、だとしても、それでも、私は……」


私は幸せになりに行くんじゃない。 ただ、凜華ちゃんに向き合うためにここを出るんだ。結果なんて関係ない。


「凜華ちゃんに顔向けできないこと。それだけが、私の地獄だから」


再び左手に熱が灯る。 私に向き合う凜華ちゃんモドキは、月光の入り口から微動だにしない。


「ふふっ、あなたもありがとう。でも、私は行くから」


決意が固まる。 私の決意に呼応したかのように、左手の光は天に突き刺さるほどにまで伸びる。


「さよなら」


左手を真っすぐに振る。 それだけでも、目の前の凜華ちゃんモドキも、獣たちも、世界ごと真っ二つに割れる。


私は、壊れていく世界の中、月光の光に手を伸ばす。


「今度は私から、私から告白するから」


光に焼かれるように、その中に私は取り込まれる。


   *


「は……はる……」


遠くから私を呼ぶ声が聞こえる。


「陽!」


私は誰かにぎゅっと抱きしめられる。 華奢な体が壊れてしまいそうなほど強い抱擁だ。


「陽? 分かる? 私のこと?」


目の前には、長い黒髪に勝気な瞳をした美人さんが、世界が終わるときでも見せないような涙を流している。


「えっと? 誰?」


「嘘? 覚えて……ないの?」


「誰でしたっけ? こんな美人さん、私、忘れないと思いますけど」


「き、記憶喪失?……うんうん、それでもいい。陽が生きてるなら」


美人さんが力なく微笑む。 そのぎこちない笑顔を見た瞬間、自分の中の記憶が溢れ出す。


共に過ごした記憶。悲しい別れの日。身を投げた冷たい海。


「あぁ、そっか。思い出した。私、死ねなかったんだ」


冷たい海に抱かれたと思った私。 だが、ベッドの横にある機械や真っ白な部屋を見ると、どうやら助かったらしい。


「凜華ちゃん?」


「陽? 思い出したの? 私、私……」


凜華ちゃんは泣き出してしまった。 どういうことだろう? 私は凜華ちゃんに捨てられたから、あんな辛い思いをしたはずなのに。

そう思った瞬間、体の底から、怒りと恨みの混じった感情が溢れてきた。


「私のこと、捨てたじゃん! なんで、なんでいるの?」


病室全体に響くような、ヒステリックな声。自分が出したとは思えない。

だが、捨てられたあの日から、私の中の熱は消えていないようだ。


「ごめんなさい。ごめんなさい、私……」


泣き崩れてしまう凜華に、私は冷たく線を引く。


「同情なんていらないから」


大方、自殺しきれなかった私の身元引受人が凜華ちゃんしかいなかったのだろう。 私の携帯で通じるのは、きっと凜華ちゃんだけだから。


そして、優しい凜華ちゃんは自分を責めて、罪悪感からここにいるのだ。


そんなの、侮辱よりも何十倍も辛い。


そう考えるだけで、涙が出てきてしまう。


「も、もう、私たち終わったんでしょ」


震えた子供のような泣き声で、精一杯凜華ちゃんを突き放す。


「もういいから。もういいから帰ってよ」


こうでもしないと、私たちはきっとダメなんだ。一度壊れたものは、もう戻らない。


「ち、違うの。私、私は……」


「いいから帰って。もう、私を苦しめないで……」


もう涙が止まらない。きっと、この私は滑稽だ。 ただ、凜華ちゃんの気を引きたくて自殺してしまったみたいだ。


「無様でしょ? 笑ってるんでしょ? こんな私なんて……」


もう、ダメだった。私の心は擦り切れてしまっていた。


「違う。違うから。私はまだ、陽のことが……」


「もういや。聞きたくない」


これ以上、みっともなくならないよう、私は耳を塞いだ。 凜華ちゃんが何かを言っているが、もう何も聞こえない。


――これで、これで、いいんだ。私たちはもう……終わりなんだから。


無音に近い世界に閉じこもった私。 そうして、聴覚以外の他の感覚が冴え切った時、腰元の違和感に気付く。


――なにか、なにか、入ってる。


自分にとって欠けてはならないなにかが、ポケットに入っている。 そんな予感がした。


塞いだ手をポケットに突っ込む。 ポケットに手を入れた瞬間、なじみ深い、肌触りのよい箱が出てくる。


「これは……」


それは、紛れもなく私が渡すはずだった指輪の箱だった。


「海に、落ちたはずなのに……?」


これも一緒に拾われたのかな? そう頭の中で考えているとき、脳にノイズが走る。


――あきらめないで。


それは、誰かの叫びであり、願いであり、救いを求める声だった。 もう何も思い出せない。だが、何か大切な物。私に託してくれたもの。


「ふ……」


自然と頬を柔らかな涙が伝った。 自分に欠けていたピースが埋まったような気分だった。


何をしないといけないのか、それだけは本能のレベルで理解した。


「凜華ちゃん!」


大声で愛しい人の名前を呼ぶ。 私の声に驚いたように、泣きはらした瞳を丸くする凜華ちゃん。


――あぁ、やっぱり……。


「凜華ちゃんが今どんな状況かも分からないし、私も知らない」


凜華ちゃんは静かに聞いていてくれる。 だが、その目は死を宣告される前の死刑囚のようであり、別れの日に鏡の前に立っていた私の目と同じであった。


「ただ、一つだけ。一つだけ伝えないといけないことがあるの」


涙を堪えている凜華ちゃんの前に、真っ赤な絹のような箱を差し出す。 私も言葉が震えてしまう。恐怖に支配されそうで、次の言葉を紡げない。


「……あきらめないで……」


意識の狭間から、何かが私の背中を押した。


「結婚してください。例え何があっても、どんな困難があっても、私と一緒に歩んで、生きてください」


女同士だとか、両親が反対しているだとか、世間体も、凜華ちゃんの状況も何もかも無視をして、素の気持ちを伝える。


ただ、それだけのことなのに、涙が止めどなく私の頬を流れ、差し出した赤い箱は、自分の命を差し出しているようだ。


だが、もうあきらめたくない。


風が吹き抜ける音がした。


「……はい」


蚊の鳴くような声の、凜華ちゃんの返事。


「私も、陽と生きていきます。いや、陽がいないと私はもう、生きていけません」


笑顔と涙が入り混じった複雑な表情。 だが、それは心からの物だと理解できた。 嘘も、偽りも、同情も何もない、本物の気持ちだと。


「ほんとにいいの?」


「もちろん。私がお願いしたいくらい……」


言葉は続かず、暖かい抱擁だけが返された。


「わ、わたし、ね……あのあと、かんがえたの……ハルのいないじんせいを……」


「他の人と結婚なんてしたく……したくない。陽の隣でしか……わたし……わらえないから」


その言葉は私の芯に染み入り、欠けていた何かを満たしてくれた。


「あのあとね……もう一回あいにいったの……陽と生きるって……おとうさんたちにつたえに……」


背中をさすり、精一杯抱きしめる。震える背中でさえ、愛おしい。


「反対されたけど……それでも伝えたの。全部、全部片づけて、会いに行くつもりだったのに……」


凜華ちゃんは怯えたように嗚咽を漏らす。 きっと私が苦しんだよりも、ずっと苦しんでいたのだ。


「そしたら……陽が海でみつかったって……電話が来て……」


「ごめんなさい……わたし……わたし……だいすきなの……もうはなれたくないの」


それが最後の言葉だった。 もうそれ以上は、嗚咽に阻まれて言葉が出ないらしい。 それでも、気持ちは伝わった。


「私、愛されてたんだ……ごめんね。私が臆病だから。逃げちゃったから」


最愛の人を怯えさせて、こんなに泣かせて。


「もう離さないから。どこにも行かないから。だから、だから……」


私もそれ以上なにも言えなかった。その日は、二人でずっと泣き続けた。


「あきらめないでくれて……ありがと……」


頭の中に、誰かの声がした。 きっとそれは、諦めなかった私だ。


「あなたもありがと。わたし、もう逃げないから」


もう声は聞こえない。だが、この手にある温もりを守るために、私はどこまでも生きる。


だって、これは私の物語なんだから。


(FIN)

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