エスプレッソとバフォメット
八文啓
エスプレッソとバフォメット
昼寝を済ませて部屋から出てきた祖父が、こちらを見下ろしている。
「おい、人間」
「……は?」
「そのやかましい機械を鎮めろ。それから居直れ」
セリエAの試合が中継されているテレビと僕を指さしながら、祖父は淡々と、しかし有無を言わせない圧力を加えるようにそう言い放つ。
明らかに、様子がおかしい。少なくとも昼寝前に交わした最後の会話から、僕の中にある一番古い記憶――店先で看板を塗り直す、まだ頭に髪が生えていた頃の祖父――の全てを辿ってみても、彼がこんなに無礼な言葉遣いをした覚えはなかった。
その豹変ぶりに、思わず認知症の可能性を疑う。
「えーと、レオじいちゃん。僕はヴァレリオで、あんたの孫……」
「聞こえなかったか?」
祖父が指を鳴らす。微かな破裂音と共に、背中の向こうでテレビ中継の音が途絶え、それから時間を置いて焦げ臭い匂いが漂った。
次の標的を示すかのように、祖父らしき何者かは指先を僕の方に向ける。その頃には、無意識に片膝を床についていたし、もう片方の膝は小刻みに震えていた。
血の気が引いた脳味噌で、他の可能性を疑う。認知症よりも遥かにヤバい代物の可能性を。
「答えろ人間。貴様の名はヴァレリオで違いないか?」
「……は……い」
「ここは地上のイタリアに違いないか?」
「……は、い」
祖父らしきそれは窓の方に目を向けた。昼間の陽光の向こうには、透き通った青色に彩られたリグリア海の景色と、そこにぽつりぽつりと浮かぶ漁船やヨットの影があるだろう。少なくとも祖父は、それを望むことが出来るこの街を愛していた。
しかし、目の前の何者かはさしたる興味もないのか、深い皺が走った指をぎこちなく立てると、再びこちらを見下ろす。
「吾の名はバフォメット。地獄の支配者の一柱であり、貴様らが悪魔と呼ぶ者のうちの一体でもある。今はこのレオナルドという人間に憑いているが、吾が望めばこの人間と貴様の命を容易く絶つことが出来る。
それをよく理解した上で、吾の要求に応じろ、人間」
悪魔憑き。
特別信仰に篤いという訳ではないけれども、そういうものがあるということは知っていた。けれども、それを目の当たりにした瞬間に、知るだけでは得られないものが全身を駆け巡っていくのがはっきりと分かった。
形を為した死。存在としての位の差から生じる、息をするのも必死になるような圧力。
警察?救急?それとも教会?
思考を巡らせてみても、他人を頼れる状況ではない。尻ポケットの中のスマートフォンに手を伸ばせば、その瞬間に僕と祖父は命を刈り取られるだろう。
震える手を押さえながら俯くと、悪魔は冷たく、しかしはっきりとした言葉を僕に放った。
「人間」
「……はい」
「吾に至上のコーヒーを捧げろ」
「はい?」
エスプレッソとバフォメット
『ミラノまで98㎞』と記された緑色の看板が視界の隅に消えていく。
中古で買ったフィアットの調子は今日も良くない。シフトレバーからは異様な震えが伝わってくるし、今もファミリーカーにあっさりと追い越された。走れば走るほどに僕の面目が潰れていく。
こうなるのが嫌で、助手席に人は乗せるまい、と固く誓ったのが以前のこと。
僅かに隣を一瞥する。バフォメットはダッシュボードに足を乗せながら、エッグマフィンの包み紙を開けている。
(……悪魔は、乗せる羽目になったけど)
ハンドルを片手で握ってバーガーを齧りながら、僕はこの状況について思いを馳せた。
美味いコーヒー、と言われても僕の街はイタリアの片田舎でしかない。そりゃ美味しいと思う店はいくつもあったけれど、悪魔に出せるほどクオリティが高いという訳でもない。結局僕は、都会に出てちゃんとしたバリスタがいる店に行くのが最適だと考えた。
そういう訳で、僕は助手席に悪魔を乗せた状態で、イタリアでも有数の大都市であるミラノに向かって車を走らせている。
目的がはっきりとした状態であれば割と辛抱強いのか、バフォメットは二時間弱のドライブを許してくれたし、途中でドライブスルーに寄っても文句を言わなかった。
とはいえ、少し不可解だったのは。
「ええと……バフォメット?」
「様を付けろ、人間」
祖父の体を乗っ取られている以上、下手なことが出来ないということは重々承知しているが、それはそれとしてムカつくものはムカつく。
「で、バフォメット様。どうしてミラノに着く前に、ハンバーガーチェーンの安っぽいコーヒーをお飲みになられるんです?」
「これか」
悪魔はドリンクホルダーに突き刺さった、黄色いカップを手にした。同じものが運転席側のホルダーにも刺さっているが、僕は眠気覚ましとして買ったつもりで、味に期待はしていない。
けれども、奴までそれを飲むというのは少々妙な話だった。
「どんな場所で淹れられたものであれ、それがコーヒーならば吾は飲む。単純な評価基準では表すことのできない味わいというものが、コーヒーには厳然として存在している。
安物であろうが例外はない」
悪魔は祖父の口を借りながら、淡々とそう口にする。
その言葉は人を脅かす存在の言葉というよりも、明確な矜持と豊かな見識を持つ賢者の言葉のようにも思えた。
とはいえ、自分と祖父がこの悪魔に脅迫されている現状に変わりはない。軽くかぶりを振る間に、バフォメットはコーヒーを口にする。
そして一言呟く。
「少しも美味くない」
「……左様でございますか」
この悪魔は何をしているのだろうか。
バーガーを食べ終わる頃にはそれなりにフィアットも調子を取り戻していて、ミラノにも少しは近付いていた。県境を跨いでパヴィーア県に入ったあたりで、そろそろ聞いておかなければならないのでは、と思った僕は口を開く。
「ところで、バフォメット様は何故コーヒーをお望みになられているんですか?」
「何故も何も、コーヒーの為に地上に来たのだ。美味いコーヒーを飲めること以外、地上にわざわざ出向く理由などない」
「……?」
要領を得ていない僕の顔に呆れたような溜息をついてから、バフォメットは足を組み直した。最も、左右の組み合わせ方が変わっただけで、相変わらずその足はダッシュボードに乗せられている。
「そも、コーヒーを地上と人間にもたらしたのはこの吾だ。
千と数百年程前、故あって地上に出向かなければならなかった吾は、山で飢え彷徨う山羊使いと山羊の群れに会った。人間が死んだところでさしたる興味はないが、山羊は吾に従う獣であるからして、無暗に死なれても困る。
あの時、吾は地獄から偶然持ってきていた赤い実をその山羊使いに与えて、山羊の飢えをしのがせた。地獄の植物ではあったが、意外と地上の生き物にも合う代物だったらしい。
それからあの山羊使いは実を栽培して増やし、やがてそれを煎じて飲む風習を作り上げた。こうしてコーヒーが地上に生まれた、という訳だ。
あの山羊使い……カルディと言ったか。人間にしては頭が切れる奴よ」
にわかには信じがたいが、祖父に悪魔が憑いている現状も、その悪魔に美味いコーヒーを飲ませるためにミラノまで車を飛ばしている現状も信じがたい分、どこかすんなりと受け入れてしまえる僕がいる。
バフォメットは続ける。
「それから千年ほど経って、地獄であの赤い身が絶滅してしまった。実を乱獲して亡者共に売り捌いていた下級の悪魔共は一つ残らずコキュートスに送ったが、それでも絶滅してしまったものはどうしようもない。
仕方なく吾は地上に出向いて、あの赤い実を再び探そうと考えた――ところが、いざ人間の世界を再び目にしてみれば、あの実を煎じた液体が方々で飲まれているではないか。吾が知らぬ間に、コーヒーは信じられない速さで地上に普及していた。
吾は感動すると同時に、かの実を煎じたコーヒーというものの美味さを知った。地獄で味わえない事だけは無念だったが、それを鑑みても余りあるほど豊かな魅力に、吾は心を奪われた。
故に、吾は百年ほどの周期で地上に出向いては、こうしてコーヒーを嗜んでいる。人間の身体に憑くという形であれば行動もしやすくなる故、こういう手段を取っているという訳だ。
理解できたか、人間?」
「……一応は」
とはいえ、まだ分からないことはある。
顎先を撫でる悪魔に祖父の身体へと憑いた理由を尋ねると、バフォメットは難しい話ではない、と僕の方を向いた。
「地上で初めて会話したのがあの山羊使いであるが故な。彼奴の血をより濃く受け継いでいる人間の存在を感じ取りやすいのだ。
かの血を継いだ人間はコーヒーを好む者も多かったが……この人間の嗜好はどうだったのだ?」
そう言いながら、バフォメットは自身のこめかみを指で突いた。
僕は冷めたコーヒーを呷ってから、勢いよく空のカップをホルダーに押し込む。
「そんなこと知らなくたって、要求は果たせるでしょう」
「ほう、では貴様の嗜好は?」
「それこそ知らなくたっていいはずです」
アクセルを踏み込んでみたところで、喧しいくらいにエンジンが唸るだけで少しもスピードは上がらない。
緑色の看板が、また視界の隅に消えていった。
年季の入った石煉瓦の壁が、ミラノの空を四角く切り取っている。
古くから文化が花開く街として栄えた為なのか、ミラノには一流のカフェが多い。イタリアでも腕利きのバリスタたちが店を構えるこの街には、あらゆる通りにカフェが存在しているといっても過言ではない。
少なくとも、そんな由緒ある場所を訪れてみれば、悪魔も満足するような一杯が見つかるとは思ったのだが。
「駄目だな」
「……」
六軒目のカフェの軒先。屋外のスタンディングテーブルに肘をつき、デミタスカップを傾けたバフォメットは、ご丁寧に口元を紙ナプキンで拭いて僕の期待を煽る時間を作ってから、一言でその期待をへし折った。
爪先で石畳の地面を叩きながら、僕は口を開く。
「バフォメット様。ここはミシュランにも認められた店ですし、僕が知っている中でも特に上等なエスプレッソを出す店です。それでも満足して頂けないのは残念ですが……せめて、バフォメット様の嗜好をお聞きしてもよろしいでしょうか?」
「ミシュランとやらが何処の美食家なのかは知らんが、そんな外聞を当てにするような人間に嗜好を明かすほど、吾は安い存在ではない」
ナプキンを畳み、ソーサーの下に挟んでから悪魔は店を後にする。内心舌打ちしながら、僕もその後を追った。
コーヒーを望んでいるのはバフォメットだというのに、この悪魔は自身の好みを一向に明かそうとしない。何を口にしようが、主観的な判断をするばかりで奴の特徴を掴む為の手がかりは一向に見えてこないのだ。
美味くない、くだらない、下品、食欲が失せる、魅力に乏しい、華が無い、駄目。コーヒー一杯を侮辱するのにここまで豊富な語彙を持ち合わせているのは、奴が悪魔だからなのだろうか。
そんな具合だから、僕も良さそうな店を手当たり次第巡るしかない。
「せめて、コーヒーの味わいの好みだけでもお教えください。あっさりとしたものか、重厚なものか、苦みか、酸味か……」
「繰り返すが人間。惰弱な存在に吾の好みを明かす気はない」
それに、と続けたバフォメットの目がぎょろりとこちらを向く。生気を持たない不気味な動きをする祖父の表情に、僕は一瞬足を止めそうになった。
「二度も言わせるな。吾が求めているのは、単純な評価基準では表すことのできない味わいだ。表面的な味覚の特徴など、吾は最初から求めていない」
「……?」
こちらを煙に巻いているにしては、その言葉ははっきりとした重みをもっているようにも思えた。
少なくとも何かの特徴をバフォメットは捉えているが、ハンバーガーチェーンのコーヒーも、ミシュランに載ったカフェのエスプレッソもそれを満たせなかった、ということになる。
戸惑う僕を置き去りにしたまま歩みを進めていたバフォメットは、広場に置かれたコーヒー屋台の前で歩みを止めた。
他の出店に比べて質素な作りをしており、目立つような店ではない。街を歩く人々も向かいのドーナツやホットドッグの屋台に目を向けていたが、バフォメットはその軒先のメニュー表をちらりと見ると、ポケットから小銭を取り出して老店主の前に差し出した。
「シニョーレ、コーヒーを一杯」
「まいど」
ユーロ硬貨を受け取った老人はコンロに火を入れる。手つきに無駄はなく、提供までのスピードも早いが、取り立てて褒めるような点でもない。屋台のコーヒーと考えれば、実に普通の代物に見える。
「すまんな。もっと美味く淹れたかったが」
差し出された紙コップを傾けたバフォメットに店主がそう言うと、悪魔は小さく呟いた。
「悪くない」
「……えっ?」
慌てて同じものを注文する。試しに飲んではみたが、はっきりとした個性がある味でもなければ、複雑な層を持つ味という訳でもない。技巧の上では、先程訪れたカフェの方が圧倒的に上だった。
だというのに、バフォメットは初めてコーヒーを褒めた。去り際に店主へ「達者でな」とさえ言ってみせた。
ますます意味が分からない。
その後も悪魔は飽きずにカフェを訪れてはコーヒーやエスプレッソを何杯も飲み、不満足げな表情をしながら次の店を目指すことを繰り返し続けた。唯一肯定的な評価をしたのはあの屋台のコーヒーだけで、他は相変わらずの低評価ばかり。
バフォメットがコーヒーに求めているものがさらに分からなくなる頃には、陽が傾き街灯に光が灯りつつあった。
首を捻りながらその足取りを追っていると、祖父に憑いた悪魔はある店に目を向けた。小ぢんまりとはしているものの、微かに香るコーヒー豆の香りがバフォメットの興味を惹いたのだろうか。ふむ、と呟くと、悪魔はそちらに足を向ける。
「いや、そこは……」
思わず出た声に、訝し気な顔をしたバフォメットが振り返る。ドアノブに手を伸ばしたまま、悪魔は続きを促すように顎を動かした。
「そこは、まずいというか」
「人間の味覚など吾の知ったことではない。貴様は黙っていればいい」
悪態をつく暇もなく、奴は店の中へと入っていく。テーブル席に案内したウェイターが祖父と僕の顔を見るなり「ああ、お呼びしておきますね」と呟いたのを確かに聞いた僕は、今すぐ逃げ出したい気持ちでいっぱいになった。
エスプレッソを待つ時間が、数日にも感じられるほど長かったように思える。
やがて二つのソーサーの上にカップと、一欠片のチョコレートの包みを乗せてやってきた男と目が合う。
先ほど僕らを案内したウェイターではない。この店の店主であり、ミラノでも有数のバリスタとして名を馳せる有名人だ。
そして、彼は悪魔が憑いている最中の祖父へ、にこやかに微笑みかけながらソーサーを差し出す。
「久しぶりじゃないか、レオ。ヴァレリオは使い物になってるか?」
「……ああ、久しぶりだな?」
バフォメットは一応話を合わせたが、その抜けた調子に店主が肩をすくめる。
「おいおい、うちのカフェでヴァレリオを修行させたのはお前だろう。レオ」
「……」
どういうことだ、という視線がこちらに突き刺さっているような気がしたけれど、僕は天井を見ながら全力でエスプレッソを呷っていたので、本当のところはよく分からない。
僕と祖父が普段暮らしている部屋は、集合住宅の三階にある。今日の昼のやり取りも、その部屋で起きた出来事だった。
そして、その一階の隅にはカフェが構えられている。テーブル席は少なく、朝の出勤時にエスプレッソを引っ掛けていく客たちをメインにした店ではあったが、それなりに繁盛していた。
そして、開店以来このカフェを営み続けてきたのが、僕の祖父であり、今は悪魔に取り憑かれているレオナルド・ミケリーニだった。
裏口から店の中に入り、明かりを付ける。表のドアはシャッターで閉ざされているが、窓からは港街の灯りが微かに差し込んでいた。調度品の類いは少ないものの、磨き上げられた大理石のカウンターと仕事道具であるエスプレッソマシンやマキネッタ、ミルが光を反射し、一種の荘厳さを帯びている。
エプロンの紐を後ろ手で結び、調理場に立つ。締め切られた店で、カウンター席にはたった一人、悪魔が座っていた。
「で、あれはどういうことだ。人間」
「……レオじいちゃんは、ミラノのあの店に僕を修行に行かせたんです。大体一年くらい、あそこでコーヒーを淹れる技術を教わっていました。あの店主とも顔見知りです」
道理であの街に詳しい訳だ、とバフォメットが腕を組む。
「しかし、何故初めから自分でコーヒーを淹れなかった。道具に不備があるとも思えんが」
新しく買えば数十万は下らないであろうエスプレッソマシンの淵を指先でなぞる奴の前で、僕は思わず俯いた。
「技術は、あります。レオじいちゃんから直接教わったことも、ミラノの師匠から教わったことも、ものにしてきたつもりです。
でも、僕には心がない」
「……」
「何度コーヒーを淹れてみても、上手く行った感じがしないんです。二人にもきっと、それを見抜かれていたんでしょう。どれだけ学んでも、一人前だと認められることはありませんでした。
僕でも分かっているんです……このカフェを継ぐことにしたのは、ただのなりゆきに過ぎない。たまたま祖父がやっていて、たまたま他にしたいことが無かったから。気が付いたら、この道に進んでいました。
そんな覚悟でコーヒーを淹れてみたって、誰にも満足されないことなんて、僕が一番分かっています」
技術だけでは足りない、最後のピース。
祖父はその存在に気付きながらも、僕を責めることは決してなかった。ただ一人の孫に対して、このカフェとバリスタという役割を押し付けてしまったという罪悪感があったのかもしれない。
大丈夫、ここはちゃんと僕が継ぐ、と何度言ってみただろう。けれどもその度に、祖父は少し寂しそうな目をして、そうか、と頷くのだった。
今日だって、祖父はそうだった。
そうして昼寝に行って帰ってきたときには、もう祖父は祖父ではなかった。
目の前で、カウンターに肘をつき両手を組んだ悪魔は、じっと僕を見上げる。
「繰り返すが、吾は人間の事情に興味など持たん。だが、覚悟が足りないと言うなら、それ相応の覚悟をさせてやろう」
そうして、指先で大理石のカウンターを二度叩く。
「吾に至上のコーヒーを捧げろ、さもなくば殺す」
最初に出した、シンプルなコーヒーはにべもなく「美味くない」と言われた。
ミラノでの出来事から、味の方向性を変えて対応しても意味がないと悟った僕は、コーヒーの種類そのものを変えて対応することに決めた。エスプレッソ、リストレット、ルンゴ、アメリカーノ、マロッキーノにコレットまで。思いつく限りのコーヒーを奴の前に差し出してみたが、結果は変わらなかった。
柱時計が鳴り、夜の十時を示す。
(何が足りない? 温度も濃さもミスはしていないはずだし、クレマだって十分にきめ細かなものに仕上がった。完璧なはずだ……)
もう一度、バフォメットの評価基準について考え直す。
バーガーチェーンのコーヒーや、ミシュランのカフェのコーヒーでは駄目。しかし、あの屋台のコーヒーにだけは好感を持っていた。
シンクに積み上げられたデミタスカップを見つめながら考え込む僕の後ろで、バフォメットが鼻を鳴らした。
「吾ばかり飲むのではつまらん。貴様も自分の分を淹れたらどうだ」
誰のせいで、と言い返したくもなるが、喉の渇きと微かな眠気を感じているのも確かだった。仕方なく一杯のエスプレッソを入れながら深く息を吐くと、ポケットの中の違和感に気付く。
ミラノの師匠のエスプレッソに付いてきたチョコレート。店を出たいという気持ちがはやって、持っていたことさえ忘れていたものだった。
少し疲れた脳味噌に従うまま、僕は半ば無意識に、それをエスプレッソの中に入れる。マドラーでそれをかき混ぜて、飲む。
(……駄目だな。チョコレートの主張が強すぎる。甘さと香りをもっと抑えるには、混ぜ方そのものを変える必要が……)
そこまで思考を巡らせたときに、あるアイデアが思い付く。硬直した表情に何かを察したのか、バフォメットが顔を上げた。
「どうした人間」
「もっと良くできると思ったんですが、肝心のチョコレートがもう無いな、と」
これはあくまで、コーヒーに付いてきた菓子でしかない。一欠片しかないチョコレートは先程使ってしまった。
嘆息しかけたそのとき、悪魔がこちらに何かを投げて寄越す。思わず受け止めた掌の中には、同じチョコレートが一つ。
「これで足りるか?」
「……はい」
「やれ、人間」
言われるがまま、アイディアを現実に呼び起こす。
軽食調理用のナイフとまな板を取り出し、チョコレートを細かく砕く。マキネッタを開け、フィルターを差し込んでから、砕いたチョコレートとコーヒー粉を中へ。そのまま火にかけ、抽出を待つ。
「チョコレートを直接混ぜずに、コーヒー粉と同じプロセスで抽出させます。これで、強すぎる主張を抑えながらより風味を調和させられるはず」
仕上がったものを、カップの中に注ぎ込む。
付け焼き刃かもしれない。それでも、今自分が思いつける最善は、この一杯の中にある。
差し出されたそのエスプレッソの香りを僅かに確かめてから、バフォメットはそれを口にした。しばらく口の中でそれを味わってから飲み込んだ悪魔は、静かにソーサーの上へカップを置いた。
「先行する香りと最後の余韻にチョコレートの風味があるが、ボディのあるコーヒーの味わいも損なわれていない。何が主役で、何が引き立て役なのかはっきりとしている。
ただ混ぜるだけでは、こうはいくまい」
人間、とバフォメットは前置きした。
「コーヒーには意識を研ぎ澄まし、集中を促す効果がある。吾は地上で初めてコーヒーを飲んだとき、その味にも感動したが、それによって人間が勉学や職務に打ち込む姿そのものにも感動したのだ。
コーヒーはより良くあろうとする営みを支える。天使どもはこの精神が争いの種になると嫌っているようだが、吾は悪魔である故、そういった姿勢を好ましく思っている」
何杯ものコーヒーを淹れ、疲れ果てた先でようやく理解した。
チェーンのコーヒーやミシュランのカフェのコーヒーが嫌われたのは、それらが完成されていたからだった。これ以上良くなるものではない、と改善が止まっている状態そのものを、バフォメットは嫌った。
だからこそ、よりよくあろうとしていた屋台の店主のコーヒーは好んだ。
悪魔がコーヒーの中に望んでいたのは。
「向上心」
「繁栄を続ける貴様らに望むものとして、実に相応しいものだろう?」
席を立ち、テーブル席のソファに腰掛けたバフォメットは、瞼を閉じながら呟く。
背もたれに寄りかかりながら足を組むその様は、やはり図々しく悪魔らしかった。
「つまらない代物ばかり飲む羽目になったが、口直しとしては悪くなかったぞ、ヴァレリオ」
「……左様で」
それから何かを呟き、バフォメットは項垂れる。
僕はそのとき、ようやく悪魔が祖父の体から離れたのだと察した。
カウンターテーブルの上に残された、最後のカップを片付けながら、バフォメットが残した呟きに思いを馳せる。
美味かった、と言っていたような気もした。けれども、それを信じて満足するような真似をしてはならないのだろう、と僕は頭を振った。
(何せ、悪魔の言葉だしな)
一週間後。
僕は早朝のカフェの調理場で、ひっきりなしにやってくるオーダーに対応していた。出勤客で賑わうこのカフェは、朝方が一番忙しい。
三つのエスプレッソを同時に淹れていると、カウンター席に二人の客が座ったことに気付く。
「らっしゃ……なんだ、じいちゃんにミラノの師匠か」
「なんだとはなんだ、せっかく様子を見にきたのによ」
ふてくされる師匠の隣で、祖父が笑う。
「気持ちは分かるが応対してやってくれ。歳に似合わずこいつは根に持つタチだ」
「好き勝手言いやがって……ヴァレリオのオリジナルを飲んだら帰るぞ、俺は」
祖父のカフェを引き継ぐにあたって、僕は新しいメニューを一つだけ加えた。ダークチョコレートとコーヒー粉を同時に抽出するオリジナルメニューは、そこそこ評判が良い。
名前だけは、少しおどろおどろしいと言われることもあるが。
「お前はどうする、レオ?」
「ワシはエスプレッソでいい」
僕は頷きながら、マキネッタの蓋を開ける。
「はいはい、エスプレッソと『バフォメット』一杯ずつね」
そうして、最高の一杯を淹れ始めた。
エスプレッソとバフォメット 八文啓 @823k
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