駄目な精神科医

真田直樹

第5話

患者という立場

佐藤は、自分が「患者」であることを、忘れたことはなかった。

それは、病名よりも重く、

診断書よりも確かな肩書きだった。

病院に通うたび、

薬を飲むたび、

生活の些細な選択のたびに、

その言葉は、静かに付きまとってくる。

——私は、普通じゃない。

誰かに言われたわけではない。

ただ、そう扱われてきた時間が長すぎた。

桐島の診察室だけが、例外だった。

そこでは、

「患者さん」と呼ばれず、

「症例」として見られず、

ただ、名前を呼ばれる。

それが、どれほど危険なことか。

佐藤は、最近になって気づき始めていた。

________________________________________

数日後。

佐藤は、診察日でもないのに、病院の前まで来てしまっていた。

理由はない。

ただ、足が勝手に向いただけだ。

入口の自動ドアの前で立ち止まり、深く息を吸う。

——来ちゃ、いけない。

そう思うのに、胸の奥が、ここに来ることを求めている。

だが、受付に行く勇気はなかった。

桐島の顔を思い浮かべる。

——迷惑じゃないだろうか。

——問題になっているんじゃないだろうか。

同僚たちの視線。

会議室の空気。

佐藤は、何も知らないはずなのに、

なぜか、それらがはっきりと想像できた。

「……私が、厄介だから」

そう思った瞬間、喉が締めつけられる。

患者である以上、

支援される側である以上、

「迷惑にならないように」振る舞うことが、

暗黙の義務のように感じられていた。

助けを求めすぎてはいけない。

頼りすぎてはいけない。

期待してはいけない。

それでも、心は言う。

——でも、先生は違った。

その思考が浮かんだ瞬間、強い自己嫌悪が押し寄せる。

「……また、特別扱いを求めてる」

佐藤は、その場を離れた。

家に戻っても、落ち着かなかった。

時間だけが過ぎていく。

次の診察日まで、まだ二日もある。

その二日が、永遠のように長かった。

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夜。

佐藤は、薬を飲む前に、しばらく錠剤を見つめていた。

この薬は、誰が決めたのか。

何のために飲んでいるのか。

答えは分かっている。

——治療のため。

だが、心のどこかで、別の声が囁く。

——これを飲めば、少しだけ、先生の前で落ち着いていられる。

それは、薬に対する依存なのか、

それとも、医師への依存なのか。

区別がつかなくなっていた。

佐藤は、水で薬を流し込み、布団に入った。

目を閉じると、不安が押し寄せる。

——もし、先生が担当を外れたら?

——もし、別の医師に変わったら?

胸が、きつく締めつけられる。

その恐怖を、誰にも言えない。

患者が、医師を失うことを恐れるのは、

「よくあること」だからだ。

「よくあること」は、

個人の苦しみを、簡単に無視する。

佐藤は、布団の中で、小さく体を丸めた。

「……私は、患者だから」

その言葉が、呪文のように頭の中で繰り返される。

患者だから、期待してはいけない。

患者だから、要求してはいけない。

患者だから、感情を持ちすぎてはいけない。

それでも、感情は止まらない。

——会いたい。

その一言が、全てだった。

________________________________________

次の診察日。

佐藤は、いつもより表情を作って診察室に入った。

「こんにちは」

桐島の声に、胸が揺れる。

だが、佐藤は、笑った。

無理に。

上手に。

「最近、どうですか」

「……大丈夫です」

その言葉が、嘘だと、佐藤自身が一番よく分かっていた。

だが、言わなかった。

——迷惑になりたくない。

——問題を起こしたくない。

患者という立場は、

助けを求める自由と引き換えに、

沈黙を強いることがある。

桐島は、佐藤の笑顔を見つめた。

その奥にある無理を、見逃さなかった。

だが、すぐには踏み込まなかった。

それが、今度は、佐藤を不安にさせる。

——気づかれていない?

——それとも、気づいていて、距離を取られている?

そのどちらも、怖かった。

診察室に、言葉にならない緊張が満ちる。

患者と医師。

支える側と、支えられる側。

その境界線が、

静かに、しかし確実に、悲鳴を上げていた。

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駄目な精神科医 真田直樹 @yukimura1966

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