one by one 猫の手 ー 恋の迷路
OTONARI
猫の手 ー 恋の迷路
one by one 猫の手 ー 恋の迷路
1,窓際の特等席
窓際の特等席。
ここは僕の縄張りで、この家の静かな居場所だ。
目の前には、いつも二つの背中がある。
一つは、陽だまりみたいな匂いのするおじいちゃん。
もう一つは、洗った布と、お線香が少し混ざったおばあちゃん。
僕は、ここから二人を見ている。
僕の朝は、おじいちゃんの咳払いで始まる。
喉の奥で、小さく何かを起こすみたいな音だ。
腰をさすりながら起きて、
最初に僕を見る。
「おはよう、トラ」
名前は違う。
でも、呼ばれるたびに僕は来る。
それで問題はない。
おばあちゃんは、少し遅れて台所へ行く。
トントン。
シュンシュン。
この家の音は、どれも急がない。
時計も、たぶん急いでいない。
二人は、たくさんは話さない。
お茶を飲むときも、庭を見るときも、並んでいる。
「……ほう」
「……そうですね」
それだけ。
その間に何があるのか、
僕にはよくわからない。
でも、何もないわけじゃない。
僕が膝に乗ると、
おばあちゃんは笑う。
「重たくなったわね」
僕は変わっていない。
変わったのは、たぶん手のほうだ。
でも、それは言わない。
忘れもの
最近、おじいちゃんはよく立ち止まる。
眼鏡だったり、紙だったり、
さっきまで考えていたことだったり。
おばあちゃんは、声を荒げない。
教えることもあるし、
一緒に探すこともある。
おじいちゃんが困った顔になると、
僕は足元で爪を研ぐ。
「おっと、トラ」
そう言って、僕を見る。
それで、また歩き出す。
僕は、二人の役に立っているわけじゃない。
ただ、そこにいるだけだ。
それで足りているらしい。
日が低くなると、部屋が少し赤くなる。
二人は並んで座る。
おじいちゃんは、よく眠る。
おばあちゃんは、何も言わずに毛布をかける。
その毛布の端に、僕も入る。
おじいちゃんの中の音は、
僕の喉よりも、ゆっくりだ。
長い間、聞いている。
二人の匂いは、少しずつ変わった。
歩く速さも変わった。
でも、並ぶ位置は変わらない。
外は寒い。
でも、この窓際は違う。
僕は明日も、ここにいる。
朝の音を聞いて、
膝に乗って、
また夕方を待つ。
それが、僕の知っている時間だ。
2,掌(てのひら)の熱
階段に座る影が見えると、少しだけ歩幅を緩めてしまう。
彼女に気付かれないように、ではない。
僕の指先に宿っている「迷い」を、悟られないようにするためだ。
彼女は、僕の少し後ろを歩いている。
甘い香水の匂いが、冬の夜気の中でかすかに揺れている。
僕たちは、まだお互いの距離を測りかねていた。
「あ、いた」
彼女が小さく声を弾ませる。
その先に、いつものあいつがいた。
冷たいコンクリートの階段に、石像のように丸まっている。
あいつは、僕たちが近づいても逃げない。
それは信頼というよりは、もっと高慢な、世界を許容するような静けさだ。
僕はあいつの前にしゃがみ込む。
彼女も隣で膝を折る。
触れたいのだろうな、と思う。でも、彼女の手は膝の上で固まったままだ。
僕はゆっくりと手を伸ばす。
この瞬間、僕の意識は五本の指先にすべて集まる。
あいつの背中に触れる直前、掌に伝わってくるのは、毛並みの柔らかさではなく、生き物の持つ「熱」そのものだ。
指先を滑らせる。
ゴツゴツとした肩甲骨の感触。
首筋の、少しだけ皮膚がたゆんだ場所。
そこを撫でると、あいつは喉の奥で、小さなエンジンをかけるような音を鳴らした。
いい手だ、と思ってくれているだろうか。
それとも、ただの都合のいい暖房器具だと思われているだろうか。
隣の彼女の呼吸が、少しだけ速くなるのがわかる。
彼女の手は、まだ動かない。
猫を撫でるという単純な行為さえ、今の僕たちには、ひどく繊細な儀式のように思えてしまう。
「……触ってみる?」
僕が声をかけると、彼女は少し肩を揺らして、首を振った。
「いいの。見てるだけで。……なんだか、邪魔しちゃいけない気がして」
彼女の声は、少しだけ震えていた。
その「震え」の正体を、僕は知っている。
触れたいけれど、拒絶されるのが怖い。
あるいは、触れることで何かが変わってしまうのが怖い。
僕はあいつの背中から手を離した。
指先に残る温もりは、夜風にさらされて、あっという間に消えていく。
名残惜しいけれど、引きずってはいけない。
立ち上がると、膝の関節が小さく鳴った。
僕たちはまた、並んで歩き出す。
僕の手は、ポケットの中。
彼女の手は、鞄のストラップを握りしめている。
猫なら、きっと迷わずに済むのだろう。
暗闇の中でも、自分の行くべき場所も、触れるべきものも、あいつはすべて知っている。
僕たちは、まだ言葉を探している。
繋ぐこともできない手を、所在なげに揺らしながら。
3,撫でる手
ここは、夜になると静かになる。
昼間は人が多くて落ち着かないけれど、暗くなれば、風と匂いだけになる。
わたしは、この階段が好きだ。
あたたかくはないが、冷たくもない。
あの人は、いつも同じ靴音で来る。
速くもなく、遅くもなく、迷いがある。
隣にいる人は、違う匂いがする。
少し甘くて、少し遠い匂い。
あの人は、しゃがむ。
急がない。
それは、いい。
手が来る前に、わたしは逃げない。
逃げないという選択は、わたしのものだ。
手は、静かだ。
骨の形がわかる。
温度はちょうどいい。
背中から首へ。
いつも同じ順番。
いい手だ。
欲しいところで、止まる。
喉が鳴る。
止め方を、わたしは知らない。
隣の人は、黙っている。
呼吸が、少しだけ乱れている。
その人の手は、来ない。
わたしは、それを知っている。
人は、待つのが下手だ。
触れたいときほど、触れない。
撫でる手が、離れる。
名残はない。
それも、いい。
あの人は立ち上がる。
隣の人は、少し遅れて動く。
二人は、同じ方向へ歩いていく。
距離は、近い。
でも、触れない。
わたしは丸くなる。
夜は、まだ続く。
あの手は、また来るだろう。
来なくても、困らない。
人の手は、迷う。
猫の夜は、迷わない。
4,空(から)を握る
いつもの角を曲がる。
冬の星座は、昨日よりも少しだけ高く、冷たくなっている気がした。
あそこに「熱」があることを、私は知っている。
彼の靴音についていきながら、私は無意識に自分の右手を、コートのポケットの中で握りしめていた。
けれど、階段にあの影はなかった。
「……いないね」
彼の声が、少しだけ宙に浮いて聞こえた。
「そうだね」
私は短く答える。
階段は、ただのコンクリートの塊に戻っていた。
あたたかくもなく、冷たくもない、ただの段差。
彼はいつもの場所にしゃがみ込む。
そこにはもう、骨の感触も、小さなエンジンの音もない。
それでも、彼の右手はしばらくの間、あいつがいたはずの虚空を彷徨っていた。
まるで、見えない毛並みをなぞっているみたいに。
私は、その「空(から)を撫でる手」を横から見ていた。
本当は、羨ましかったのだ。
あいつになりたかったわけじゃない。
迷いながらも手を伸ばせる、彼のその「潔さ」が。
そして、その手に迷いなく身を委ねられる、あいつの「選ぶ力」が。
私の右手は、ポケットの中で汗ばんでいる。
指先は、さっきから何度も、親指の付け根を強く押し込んでいる。
そうしていないと、この手が勝手に泳ぎだして、彼のコートの袖や、その大きな掌に触れてしまいそうだったから。
「触りたいときほど、触れない」
いつか誰かが言っていたような気がする。
あいつがいないこの夜、私は初めて気づく。
私は猫を愛でに来ていたのではない。
彼の指先が、何かに触れて、その熱を自分のものにしていく、その「一瞬の奇跡」を横取りしに来ていたのだ。
「行こうか」
彼が立ち上がる。
空を撫でていた右手は、行き場を失って、照れ隠しのように自分の髪をかいた。
「うん」
並んで歩き出す。
いつもより、二人の間の距離が遠い。
間にいた「熱」がいなくなっただけで、夜風はこんなにも容赦なく、私たちの間を通り抜けていく。
私はポケットの中で、ぎゅっと拳を作った。
何も掴んでいない。
けれど、握りしめていないと、何かがこぼれ落ちてしまいそうだった。
彼の右手が、歩調に合わせて小さく揺れている。
その指先に、まだあいつの熱が残っているのなら。
それを分かち合えるほど、私は、まだ賢い猫にはなれない。
5,夜の階段
夜になると、家は軽くなる。
音が減って、匂いも薄くなる。
今日は、窓際にいない。
おじいちゃんも、おばあちゃんも、もう眠っている。
二人の呼吸は、ゆっくりで、重なっている。
それを確かめてから、僕は立つ。
外は寒い。
でも、足は自然に動く。
前に、何度も通った道だ。
あの角を曲がる。
コンクリートの階段が見える。
夜の匂いがする。
少し湿っていて、少し新しい。
若い二人がいる。
並んで歩いてきて、少し離れて立ち止まる。
前に見た背中より、まだ大きい。
迷いの匂いが、はっきりしている。
僕は、逃げない。
ここは、知っている場所だ。
男のほうが、しゃがむ。
手が来る。
いい手だ。
急がない。
背中から首へ。
順番も、同じ。
喉が鳴る。
止め方は、やっぱりわからない。
女のほうは、少し後ろにいる。
手は、まだ来ない。
それも、知っている。
撫でる手が離れる。
名残は、ある。
二人は、何かを話している。
言葉は、僕には要らない。
僕は、階段を下りる。
夜は、まだ続く。
窓際の家も、
この階段も、
どちらも、僕の知っている場所だ。
人は、変わる。
手の大きさも、匂いも、歩く速さも。
でも、迷うときに立ち止まる場所は、
だいたい同じだ。
僕は、またどこかで寝る。
朝になれば、咳払いが聞こえるだろうし、
夕方になれば、オレンジ色になる。
それでいい。
僕は猫だ。
つなぐわけでも、導くわけでもない。
ただ、ここにいる。
夜の階段で、
若い二人と会うのも、
その一部だ。
6,窓際の光
朝が来る。
カーテンの隙間から、細い光の束が差し込む。
おじいちゃんの喉の奥で、小さく「コホン」と音がした。
僕は、薄目を開ける。
昨夜の冷たいコンクリートの感触は、もう足の裏には残っていない。
鼻先をくすぐるのは、陽だまりと、古い布と、わずかなお線香。
僕の帰る場所は、今日もここにある。
「トラ、どこに行っとったんだ」
おじいちゃんの手が、僕の頭に置かれる。
少し震えていて、紙のように乾いているけれど、昨日の若い男の手と同じ「熱」が、そこには流れている。
おばあちゃんが、トントンとまな板を叩く。
時計の針が、急がずに進む。
昨日の二人は、今ごろ何を握りしめているだろうか。
あるいは、まだ何も掴めずに、昨夜の冷たさを思い出しているだろうか。
僕は、おじいちゃんの膝の上で丸くなる。
ここが僕の特等席。
迷いも、言葉も、ここには届かない。
喉を鳴らす。
その音が、この家の静かな朝を完成させる。
僕は明日も、ここにいる。
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