白のまなざし
第1話:奴隷少女
1448年5月某日
空は、冬の間まとわりついていた鉛色をようやく脱ぎ捨て、刺すようなコバルトブルーを露わにしていた。
ドニエプル川の増水は引き、街道を覆っていた底なしの泥は、春の陽光に焼かれて粘土のように固まり始めている。
馬の蹄が地面を打つたび、鈍い反響が規則正しく返ってきた。
村の外れでは、白樺の若葉が生まれたての産毛のような淡い緑をまとい、風に震えている。
果樹園ではリンゴの花が咲き乱れ、白い花弁が雪のように地面を埋め尽くしていた。甘ったるい香りが空気に満ちている。
正午の陽光は、毛皮の裏地が付いたカフタンを脱ぎ捨てたくなるほどに強い。だが、雲が太陽を遮れば、空気は一変する。
森の影に一歩踏み入れれば、そこにはまだ冬が潜んでいた。
地面から立ち上る湿った冷気が、汗ばんだ背中を氷の指でなぞる。
空腹の冬を越えた鳥たちが、耳を裂くような囀りで鳴き交わしていた。土からは、雪解け水に腐った昨秋の落ち葉の、濃厚な発酵臭が立ち上る。
夕暮れの村は、いつも通りだった。
家々の屋根から立ち上る夕餉の煙が、風にほどけていく。
土の匂いと、煮込みの匂い。
ミレーナは、その光景を疑いもしなかった。
これが終わる理由を、何一つ知らなかった。
火が上がった。
次に、悲鳴が上がった。
重ねて歓声が響く「С нами Бог!」「Бей!」
言葉になる前の叫びが、村を覆い尽くした。
家屋は燃え、乾いた木材が爆ぜる音が連なった。
年寄りは逃げ切れず、抵抗した者はその場で不造作に斬り倒された。肉を断つ音と、泥を踏み潰す音が混ざり合い、どれが人のものか分からなくなる。
混乱の中で、ミレーナは家族を見失い、友人を見失った。名前を呼ぶ声は炎の爆音に呑まれ、二度と返事は返ってこなかった。
奇妙だったのは、略奪者たちが自分たちと同じ言葉を話していたことだ。怒号の合間に、彼らは息を切らしながら、同じ祈りの言葉を口にしていた。そして、祈りの最後にその名は自然に滑り落ちた。
「――Преподобный Сергий Радонежский」
その名を、ミレーナは知らなかった。
捕らえられ、荒野を歩かされた。
足が止まれば殴られ、倒れれば馬で引きずられた。
夜になると、どこかで女の悲鳴が上がった。すぐ近くで、あるいは遠くで。すすり泣きはやがて闇に溶け、いつの間にか聞こえなくなる。
友だちと手を取り合い、互いの体温を確かめるように歩いた。だが、ある朝、目を覚ますと、その手は虚空を掴んでいた。隣にいたはずの友の名前を呼んでも、返事はなかった。それ以来、ミレーナは眠れなくなった。目を閉じれば、その瞬間に何かが永遠に奪われる気がして、瞼を下ろすことができなかった。
彼女たちは、タタール商人に引き渡された。
値踏みの視線が、上から下へ、品定めするようにゆっくりとなぞる。
銀の髪。赤い瞳。
「珍種だ。高値がつく」
祖母が、あの髪を愛おしそうに撫でてくれた記憶が、不意によみがえった。その祖母も、もういない。
商人は言った。
「高く売れる。悪い話じゃない」
意味が分からなかった。ただ、その言葉が、自分の尊厳を何一つ守ってくれないことだけは分かった。
タタール商人の護送車には、男女に分けて押し込まれた。馬車の中には、見知らぬ女性と子供が獣のようにひしめいていた。
長い移送が始まった。弱った者は道端に捨てられ、あるいは立ち寄った先で端金で売られた。止まるたび、人数が減っていく。価値だけが、生死を決める。その理屈を、ミレーナはこの時、初めて理解した。やがて、嗅いだことのない塩の匂いが、空気に混じった。
小さな商館の広場に並べられたとき、ある男の視線が突き刺さった。
冷たく、迷いのない目。
男は商人と短く言葉を交わした後、ミレーナの前に立った。無言でフードを剥がされる。汚れにまみれた白い髪が、海辺の日差しを弾いた。
腕を掴まれ、日向へ引き出される。
袖を捲られ、剥き出しの肌が晒される。
嫌だ、と思ったが、声にならなかった。喉が凍りついていた。
しばらくして、肌がじりじりと熱を持ち、赤みを帯びる。アルビノの繊細な肌が陽光に反応するのを確認すると、男は何も言わず背を向けた。
「入浴させろ」
それだけだった。
その男の名は、ラウロといった。
ミレーナたちは商館の中に連れて行かれた。
大きな湯桶、芳しい湯気、泡立ちの良い石鹸。商館の使用人によって、一人ずつ丁寧に、こびりついた汚れを落とされていく。入浴を終えると、彼女たちがこれまで着たこともないような、清潔で柔らかな衣服が与えられた。
案内されるままに歩くと、大きな広間に温かな食事が用意されていた。
使用人の一人が神への感謝を唱え、食事が始まる。だが、あまりの劇的な変化に、多くの者が放心したまま動けなかった。鼻腔をくすぐるスープの湯気と香りに誘われ、ようやく一人、また一人と匙を動かし始める。中には安心からか、あるいは失ったものの大きさを思い出したのか、嗚咽をもらす者もいた。
極度の緊張と不眠の果てにいたミレーナは、もはや茫然自失の状態だった。匙を手に取ることさえ、彼女には重すぎた。
湯気の向こうで、現実が陽炎のように歪んで見えた。
そこへ、一人の女性が歩み寄ってきた。
深い褐色の肌。穏やかな、すべてを見通すような眼差し。
ナディラと名乗ったその人は、何も問わず、ミレーナを優しく抱きしめた。
衣服越しに伝わる体温。久しく忘れていた、他者の温もりだった。耐えていた涙が、勝手に頬を伝った。
ナディラは匙でスープを掬い、赤ん坊に教えるように口元へ運んだ。香りと熱が、凍てついた身体の奥に戻ってくる。一口、また一口。気づけば、皿は空になっていた。
その夜、ミレーナは眠った。
何日ぶりかも分からない、深い、死のような眠りだった。
数日後、他の者たちは面談に呼ばれた。
名前、年齢、信仰、技能。
だが、ミレーナだけは呼ばれなかった。
そして、ある朝。
彼女と一緒に捕らえられていた者たちは、船に乗せられ、港を去っていった。
ミレーナは、ただそれを見送った。
ナディラは言った。
「あなたは、まだここで休む必要がある」
その言葉の意味を、ミレーナは考えることができなかった。
-その夜
匙を持たない子は、珍しくない。
泣き叫ぶ子もいる。
獣のように暴れる子もいる。
石のように黙り込む子もいる。
市場から流れてくる人間は、皆どこかが壊れている。
それが当たり前だった。
それでも、あの子は少し違った。
壊れているというより、世界という枠組みから、ほんの一歩だけ外側にこぼれ落ちてしまったように見えた。
ナディラは、食堂の隅に取り残された小さな背中を見つめ、足を止めた。
椅子に腰掛けているのに、床に縫い付けられた石像のように動かない。
器は目の前にあるのに、その視線はどこか遠い空隙を彷徨っている。
呼びかけるべきかナディラは迷った。
だが、今の彼女にとって「音」は意味を持たない。意味を剥ぎ取られた、ただの不快な振動でしかないはずだ。
ナディラは、無言で隣に腰を下ろした。
距離を測る。触れない距離。いつでも彼女が逃げ出せる距離。
横顔から呼吸を盗み見る。
浅い。そして、速い。
息を吸い込むたび、薄い胸が小さく、痛々しく引き攣る。
――生きている。
それだけが、この場の唯一の確かさだった。
その確かさが、ナディラの胸に小さな刺となって突き刺さる。
手を伸ばすべきか、ほんの一瞬、逡巡がよぎった。
触れられることを激しく拒む者もいる。
だが、この子は拒まないだろう。
拒むための力さえ、もう残っていないのだ。それが分かってしまうことが、何よりも残酷だった。
ナディラは、そっとその肩を抱き寄せた。
力を込めず、逃げ道を残すように。
あの子は逃げなかった。
身体は凍りついたように硬い。
だが、抗いもしない。
ただ、抱かれた形のまま、そこに「在る」だけだ。
腕の中で感じる骨は、あまりに軽い。
ろくに食べてこなかった身体だ。
それでも、不思議と死の匂いはしなかった。
まだ、こちら側に踏みとどまっている。
背中を撫でる。
一定の速さで、同じ場所を、何度も。
ラウロの館に来る「壊れた商品」たちには、言葉よりもこの単調な反復が効く。
しばらくして、呼吸がわずかに遅くなった。
それだけで、ナディラの胸の奥が少しだけ緩んだ。
安堵してはいけないと、自分に言い聞かせながら。
匙を手に取り、温かいスープを掬う。
鼻先に近づけ、香りを嗅がせた。
拒否はない。
無理に口は開けさせない。
強いることは、また彼女をあちら側へ追い払うことになる。
待つ。
ただ、待つ。
長い沈黙のあと、彼女の指が、かすかに匙に触れた。
小刻みに震えている。
ナディラは、あえてその手を離した。
自分で選ばせる。
選べるうちは、人だ。
ひと口。
喉が鳴り、熱が飲み込まれる。
咳き込まない。吐き出さない。
それを見届けて、ナディラの胸の奥が、ほんの少しだけ熱を持った。
今日は、それで十分だった。
名前は聞かない。過去も、どこから来たかも。
知れば、背負ってしまう。
背負えば、この館での判断が鈍る。
感情に流され、判断を誤ることは、ここでは死に等しい罪だ。
それでも、この子の小さな肩が、わずかに重力に従って下がったのを見て、「今夜は眠れるかもしれない」と願ってしまった。
夜、あの子を寝台へ連れていく。
あえて他の者とは離した。
理由は説明しない。
説明は、今の彼女には安心ではなく、新たな不安の火種にしかならないからだ。
触れられる距離に、温かな体温を感じる人間を置いておく。それが今、この子が必要としているすべてだった。
眠りに落ちるまで、背中を撫で続ける。
ふと、指先に湿り気が伝わってきた。
声は出ない。
ただ、涙だけが頬を伝い、枕を濡らしていく。
泣けない子は、壊れている。
だが、壊れきってはいない。
壊れきっていないなら、まだ繋ぎ止めることはできる。
明日も食べさせる。
明後日も、この冷えた身体を温める。
言葉がなくても、構わない。
売り物にするには、時間がかかるだろう。
だが、それは自分が決めることではない。
今はただ、この子が“人の形”を失わないように、その輪郭をなぞり続ける。
それが、ナディラに与えられた役目だった。
そして彼女は、その重みを暗闇の中で、何も言わず引き受けていた。
【1448年 6月 買付記録 抜粋】
個体番号:1448-T-17
性別:女
推定年齢:8~10
出自:黒海北岸
特記事項:
・白化症の疑い(皮膚反応により確認)
・直射日光に弱い
・特定市場での価値は高いが、
輸送中・転売中の死亡率が高い
判断:
通常流通に不適
即時売却は損失過大
処置:
・当面、館内留置
・教育対象から除外
・健康回復と精神安定を優先
備考:
この個体は「商品」になる前に壊れる。
壊れた商品に売り先は存在しない。
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