駄目な精神科医
真田直樹
第4話
同僚の視線
会議室の空気は、いつもより重かった。
週に一度のカンファレンス。
症例検討と、形式上の情報共有。
だがこの日は、誰もが別の議題を意識していた。
「……では、次」
司会役の医師が、視線を資料から外し、桐島の方を見る。
「桐島先生の外来について、少し確認したいことがあります」
桐島は、背筋を伸ばした。
表情は変えない。
だが、胃の奥がわずかに縮む。
「佐藤さんのケースですが」
その名前が出た瞬間、空気がさらに張り詰めた。
若い医師が、控えめに口を開く。
「診断名が、まだ確定していないようですが……三か月以上経っていますよね」
「はい」
桐島は、簡潔に答えた。
「症状は把握しています。ただ、今は——」
「今は何ですか?」
言葉を遮るように、別の医師が入る。
「診断を先送りにする理由が、カルテから読み取れません」
カルテ。
そこには、感情の揺れも、沈黙の意味も、書ききれない。
「それに」
今度は、年配の医師が静かに言った。
「佐藤さん、あなたの外来だけは、欠席がないそうですね」
誰かが、息を飲む音を立てた。
「他の医師のときは、キャンセルが多かった患者です」
それは、事実だった。
「患者が一人の医師に固着するのは、精神科では珍しくありません」
年配の医師は、淡々と続ける。
「だからこそ、慎重であるべきです」
桐島は、黙って聞いていた。
反論の言葉は、頭に浮かぶ。
だが、それを口にするほどの確信はなかった。
「依存を助長している可能性があります」
その言葉が、会議室に落ちる。
「……助長、ですか」
桐島が、ようやく口を開いた。
「患者が、あなたに会うことでしか安定しない状態なら、それは治療ではありません」
正論だった。
反論できないほどに、正しい。
「境界線は、守られていますか?」
その問いに、即答できなかった。
沈黙は、肯定と同じ重さを持つ。
「感情的な関わりになっていませんか」
「医師としての距離を、保てていますか」
質問が、次々と投げられる。
桐島は、自分が裁かれていることを自覚した。
——彼らは、患者を守ろうとしている。
——そして、医療を守ろうとしている。
それは、間違っていない。
「……私は」
桐島は、言葉を選んだ。
「患者を、一人の人として見ています」
一瞬、空気が止まった。
「それは、前提です」
即座に返される。
「その上で、専門職としての役割を果たす必要があります」
別の医師が、続けた。
「感情に寄り添うことと、感情に巻き込まれることは違う」
桐島は、何も言えなかった。
なぜなら、自分がどちらの側に立っているのか、分からなかったからだ。
会議は、結論を出さないまま終わった。
だが、桐島には分かっていた。
——これは、警告だ。
________________________________________
その日の夜。
桐島は、診察室に一人残っていた。
机の上には、佐藤のカルテ。
名前。
年齢。
症状。
そして、余白に書かれた、言葉にならない記録。
「……失格だな」
誰に向けた言葉でもなく、呟く。
医師としては、確かに失格かもしれない。
だが、もし距離を取ったら、
あの患者は、どうなるのだろう。
——それを考える時点で、もうアウトなのだ。
分かっている。
分かっていても、切れない。
その頃、佐藤は、自宅の暗い部屋で天井を見つめていた。
次の診察まで、まだ数日ある。
それなのに、胸の奥が落ち着かない。
——先生、何かあったのかな。
そんな考えが、頭を離れない。
自分が、問題になっているかもしれないという想像が、胸を締めつける。
「……私のせいだ」
そう思うだけで、呼吸が浅くなる。
佐藤は、スマートフォンを握りしめた。
連絡先は、知らない。
知ってはいけない。
それでも、心の中では、何度も呼んでいた。
名前を。
声を。
あの、曖昧で、確かな存在を。
駄目な精神科医 真田直樹 @yukimura1966
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