娘に贈る命のバトン
平山文人
その日、世界が根底から揺らいだ。
肌寒い一月の朝早くから、あどけない顔立ちの二十歳の女の子が、一生懸命大人っぽさを出すために鏡台に向かってチークを塗っている。可愛がられて育った一人娘だからだろうか、少女の面影が多分に残っていた。今日は成人式の日なので、この後、田崎絵美は行きつけの美容室で着物を着付け、髪型をセットしてもらった後、ノエビアスタジアム神戸で行われる成人式に参加する予定だったが、そこに不思議なイベントが一つ挟まっていた。一週間ほど前の事だったが、三人で居間で夕食を取っている時、父の淳が珍しく真面目な顔をしてこう言ってきた。
「絵美、来週の祝日、成人式に行くみたいだが、その前に一緒に行ってほしいところがある」
「ん? どこに行くの? あと、お父さん車で成人式の会場まで送ってくれるの? ちょっと遠いねん」
「祝日だからお父さんが車を出してもええよ。あのさ、三宮の東遊園地って知ってるよな」
「うん、知ってるよ。最近お洒落なカフェが出来てた」
「うん、そうか。ともかく、当日着物に着替えた後、東遊園地にちょっとだけ寄り道しよう。話したいことがあるんだよ」
少しだけ白髪の生えてきた四十六歳の父親の顔を見つめた絵美は、なんか面倒くさいな、と思い、横の母親の透子の表情を伺うと、これまたいつになく真剣で、
「行こう。お父さんのお話聞いてからでも成人式には十分間に合うから」と同意を求めてくる。ま、公園に行くぐらい別になんでもないか、と絵美は承諾の返事した。リップグロスを塗ろうとして、朝ご飯食べてからにしよう、と彼女は椅子を引いた。
少し肌寒い風が吹いてくるものの、空は快晴に恵まれ、太陽の光はやさしく美容院から出てきた田崎一家を包む。桃色をベースにした、艶やかな花模様の絵柄の中振袖に身を包み、頭に花のピンポンマムを付けた絵美は、どこに出しても恥ずかしくない華やかさを身に纏っていた。鏡に映る自分にご満悦の絵美は、早速透子に何枚かスマホで写真を撮ってもらった後、父と母とそれぞれ2ショットを撮った。淳が、家族三人でも撮りたいと主張して、美容院の店員さんを呼んできて仲良く家族三人の写真も撮れた。淳は腕時計を見て、
「さぁ、それではまず東遊園地に行こう」とプリウスの運転席に乗り込んだ。普段は絵美が助手席に乗るのだが、着物は動きにくいので後部座席に乗ることにした。
車は軽快に国道を走り西に向かう。透子がそっと口を開いた。
「絵美ちゃん知ってる? この頭の上の高速道路、昔、地震で潰れた事があるのよ」
「え? 地震って? この上の頑丈そうな高速って潰れたの?」
「絵美は阪神・淡路大震災って知ってるよな」と、淳が前から話しかける。
「ああ、うん、それは知ってる。ええと……いつだっけ、昭和のころに大きな地震があったってのは日本史で習った」
「お父さんが阪神大震災の被災者だったというのはまだ話してないよな」
「え! お父さん、阪神大震災を経験してたの! それは知らんかったよ。ずっと神戸に住んでたんだっけ?」
淳は、そう、と相槌を打った後、ついてから話すよ、と話題を変えた。
東遊園地のすぐそばのパーキングに車を停めた淳は、過保護を発揮して自ら後部のドアを開けた。淳は、一人娘の絵美が可愛いのはもちろんなのだが、それ以上に、彼女を大事にする、ある理由があった。振り袖姿の絵美は、周囲を歩く人の目を引いた。絵美はまんざらでもない様子で、モデルのような雰囲気を出して歩いている。祝日の東遊園地は緑の木々に囲まれ、人々が思い思いにボール遊びをしたり、ベンチで寛いだりしている。着物姿の女性グループもいた。
「どこへ行くの、お父さん」目的の見えない絵美が少しほっぺたを膨らませて言った。
「ここに三人座れるな」
公園中央の通路を北に進むと、とあるレンガ造りのモニュメントがあり、間隔のある階段造りになっている。そこに、淳、絵美、透子の順番で並んで腰かけた。透子が絵美の座るところにタオルを引いた。随分用意がいいな、と絵美は内心怪しんだ。ここに座ることまで計画済み、という空気を感じた。
「これから父さんのいう事を真面目に聞いてほしい、いいか?」
「うん」
「父さんには、実は死んだ妹がいたんだ」
「えっ……妹? どうして死んじゃったの?」
「地震で死んだんだ。家具と崩れてきた柱に押しつぶされて」
絵美が目を見開いて、そんな、こと、とだけ言った。風が吹いてきた。遠くで鳴く鳥の声が聞こえる。淳は、淡々と語り始めた──
肩を激しく揺さぶられた驚きと共に淳は目を覚ました。体が上下に跳ねているのが分かる。しかし、何が起こっているのか、中学三年生の彼には全く見当もつかない。思わず開けた瞳は、暗闇の中、何かが眼前に迫っているのを認識したが、体が動かない。その時、うぐっ、という隣で眠っていた妹、小学六年生の恵美の声が聞こえてきた。まだ体は強く揺さぶられたままだ。他にもドスン、ギギィッという強い音が耳に飛び込んできて、淳は根源的な恐怖に震えおののいた。しかし、絵美のうめき声が気になるので、思い切って体を左側に傾けた。その時、手に何かが当たる。それが何か分からない中、今度はメキメキィっと何かが軋み潰れる音がし、ドドズゥウンと、鼓膜が押しつぶされそうな重音が淳の両耳を貫いた。淳は衝撃と恐怖とで思考停止になってしまい、数分間身じろぎすら出来なかった。やがて、左手に当たっているものが、何かつるつるした木製のものである、とだけ分かった。恵美が寝ていたはずのところに、一体何があるんだ? と思った瞬間、揺れが終わっているのが分かり、薄暗い中を、強く意識して体を起こしてみた。その次の瞬間、眩しい光が部屋の扉側から射してきた。
「あつし!! 無事かっ」
駆け込んできたのは父親の総司だった。おとうさん、と淳はか細い声で答え、左手を伸ばして、言葉を継いだ。
「ここに、恵美がいるはずなんや!」
父の動きは速かった。怪我してないか、と淳に問いながら体を引き起こし、崩れ落ちた天井に懐中電灯を向けた後、それを淳に渡して、恵美! 恵美! 聞こえるか! と叫びながら、倒れこんだタンスに手を突っ込み、必死にどけようとした。淳が照らした光の中で、恵美は頭から血を流していたが、意識をまだ保っていて、消え入るような声で、いたい、いたい、と言った。淳は懐中電灯を投げ捨て、総司と共に死に物狂いで覆いかぶさっているタンスを動かそうとした。しかし、崩れてきた天井と、倒れこんできた柱が折り重なってしまっていて、彼ら二人がどれだけ力を込めてもタンスをどけることが出来ない。総司は怒り狂って滅茶苦茶にタンスの側面を蹴りまくったが、びくともしない。そこへ、母親の佐江が飛び込んできた。
「あなた、隣の三井さんの家が燃えてる!」
それを聞いた総司は、立ち尽くして動けなくなった。淳はまだ抵抗して、タンスに全体重をかけていたが、それも無駄だった。佐江も状況を理解して、大声をあげて泣きはじめた。崩れた壁の向こうがオレンジに燃え盛っているのが見える。けれども、三人とも動かなかった。誰も恵美を置いて逃げようなどと思いもしなかったのだ。そこへ、
「田崎さん! 生きてたかっ!」
と、安堵の声を上げながら隣家の三井大太が懐中電灯を照らしながら入ってきた。佐江の号泣で、誰かが死んだのか、と直観した大太は、部屋の状況を確認して、
「逃げないとあかん! うちはガス管が爆発してしまったのか、大火事になっている。ここにいたら全員死んでしまうぞ!」後ろから大太の妻の美由紀も悲愴な顔でやってきた。総司は、ゆっくりと言った。
「ここに娘の恵美がいるんです。まだ生きている。置いていくわけにはいかないんです。」
「よし、わかった」
体格の良い、建築会社で働いている大太は懐中電灯を妻に預け、タンスの下にその太い両腕を無理やり入れた。総司と淳も持つ力の全てを振り絞った。が、ほんの僅か動いただけだった。淳の両目から涙が溢れた。どれだけ呼びかけても、もう恵美からの返事はない。その時、部屋の壁が燃えはじめた。真冬の一月とは思えないほど空気が熱せられているのが分かるほどだ。
「もうダメやっ、総司さん、生きよう、俺達だけでも!」
総司は何も返事しなかった。大太は総司を羽交い絞めにして無理やり引きずりはじめた。そして片手で淳の右手を掴んだ。淳は抵抗したが、腕が抜けそうなほど引っ張られたので、その力に抵抗することも出来ず、部屋を出た。前を見ると美由紀が泣き叫ぶ佐江を抱きしめながら玄関に向かっているところだった。淳は、もう一度恵美のいる六畳の寝室を振り返った。ごめん、助けてあげられなくて、と彼は唇を噛んで血を流しながら許しを乞うたのだった──
淳の話を聞き終わった絵美は、すぐに尋ねた。
「私の名前、もしかして、その妹さんから取ったの?」
淳は静かに頷いた。そして、立ち上がった。
「ここは、慰霊と復興のモニュメントと呼ばれているものなんだ。降りてみようか」
三人は静かに階段を降り、モニュメント内へ入っていった。絵美は驚愕した。名前、名前、名前……そこには、阪神・淡路大震災で亡くなった人のネームプレートが並んでいるのだ。
「数字とか記号で考えたくないんだね。一人ひとり、生きていた、生身の人間だということを、絵美にも分かってほしい」
と、淳が指さした先には「田崎恵美」という名前があった。絵美は、思わず口を押えた。わずか十二歳で、地震で死ななければならなかった人。何の罪もないのに! 絵美は、知らずに涙を流していた。透子がそっとハンカチを渡す。こんなとこもぬかりない、と思いながらも絵美は素直に受け取った。
「絵美が大人になった時、話そうと思っていたんだ。どうか、いま生きている事の幸せと、それが脆いものであるということを知って、考えてほしい」
モニュメントを出て、活気ある冬の公園の小道を歩きながら淳は話した。絵美は、大きく頷いた後、
「この調子なら化粧直しをする場所も用意してあるんやんね?」と言った。すると、淳と透子は顔を見合わせて、
「まずい、考えてなかった」
と二人同時に言った。絵美は手提げ鞄で父の背中を叩いた。淳は慌てて腕時計を見た後、もう間に合わない、車の中で頼む、そんなに崩れてないから、と弁解した。絵美は唇を尖らせたが、それぐらいはいいか、今日はもっと大事な事を教えてもらったのだから、と顔を上げた。そこには澄んだ空が果てなく広がり、鳥たちが楽しそうに舞っていたのだった。(終わり)
娘に贈る命のバトン 平山文人 @fumito_hirayama
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