第3章 断絶/空白
病院の廊下は、音がなかった。
正確に言えば、何も聞こえないわけではない。足音も、話し声も、機械の鳴る音もある。ただ、それらがすべて、ひとつの平面に押しつぶされたみたいに感じられる。遠近がなくて、どれも同じ距離に見えてしまう。
通話の相手が誰だったのか、よく覚えていない。名乗ったかどうかも分からない。ただ、言われた通りの病院名に来て、受付で事情を話して、椅子に座らされた。
待っているあいだ、何を考えていたのかも曖昧だ。
スマホを何度か見た。通知は来ていなかった。それが少しだけおかしかった。こういうときは、何かが鳴るものだと思っていたからだ。
名前を呼ばれて、立ち上がった。足はちゃんと動いた。転びそうにもならなかった。そのことに、なぜか安心した。
受付で事情を説明すると、職員は一度だけ端末を操作してから、こちらを見た。
「ご本人様との関係を確認させてください」
「……恋人、恋人です」
少し間があった。言葉を選ばれている、というより、何かを照合しているような沈黙だった。
「分かりました」
それ以上、詳しいことは聞かれなかった。家族構成についても、連絡先についても。僕が答える前に、話は次に進んでいた。
案内された部屋で、医師が話をした。丁寧な口調だった。専門用語は使わなかった。分かりやすく説明しようとしているのが伝わってきた。
途中で、話の内容が自分に関係ないものに思えてきた。事故の状況とか、処置の経過とか。ニュースで聞いたことのある言葉が、順番に並んでいるだけだった。
質問はあるか、と聞かれた。
何も思いつかなかった。
分からないことはたくさんあったはずなのに、どれも今じゃない気がした。今聞くべき質問と、後で聞いてもいい質問の区別が、つかなくなっていた。
医師は一度、言葉を切った。
それから、はっきりとした声で言った。
助からなかった、ということを。
その瞬間、何かが起きた感じはしなかった。胸が痛むとか、視界が歪むとか、そういう分かりやすい反応はなかった。ただ、頭の中から、ひとつが消えた。
彼女はここに、もういない。
それだけだった。
書類にサインをして、説明を聞いて、頭を下げて、部屋を出た。どれも、言われた通りにやった。自分で判断したことは、ほとんどない。
外に出ると、もう夜だった。病院の正面玄関の自動ドアが閉まる音を、少し遅れて理解した。
雨は降っていなかった。
帰り道をどうやって帰ったのか、覚えていない。気づいたら部屋にいて、靴を脱いで、電気をつけていた。部屋はいつも通りのようで、少しだけ散らかっている。
テーブルの上に、彼女が前に置いていったヘアゴムがあった。理由は分からない。たぶん、外しただけだ。
それを見て、初めて思った。
ああ、いないんだな、と。
泣くでもなく、叫ぶでもなく、ただそう思った。
---
数日が経った。
正確に何日かは分からない。曜日の感覚がなくなって、スマホのカレンダーを見て、そうらしいと判断した。
大学には行っていない。アルバイトにも連絡を入れて、休みをもらった。当然理由を聞かれたが、詳しく話す気も起きなかった。
部屋で過ごす時間が増えた。音のない部屋は落ち着かなかったので、テレビをつけた。内容は頭に入ってこなかった。
冷蔵庫を開けると、賞味期限の切れたヨーグルトがあった。彼女が買ってきたものだろうが、確信はない。
捨てようとする手を止めて、代わりに、冷蔵庫を閉めた。
洗濯をして、干して、取り込んだ。服の量が少し減ったような気がしたけれど、数えたわけじゃない。気のせいかもしれない。
夜になると、部屋は静かだった。静かすぎて、耳鳴りがした。眠れないわけじゃない。ただ、寝る理由が見つからなかった。
スマホを手に取って、何度か画面をつけた。連絡先の一覧を開いて、閉じた。何も変わらない。
街はいつも通り動いている。ニュースでは、事故の話題も、技術の話題も流れていた。人格の保存だとか、復元だとか。遠い話のはずだった言葉が、同じ画面の中に並んでいる。
それでも、僕には関係なかった。
彼女は、もういない。
それで終わりだ。
---
数日目の午後、ポストに入っていた一通の封筒を見て、僕は立ち止まった。
差出人は、知らない名前だが、宛名は確かに僕のものだった。
白い封筒の角が妙にきれいで、広告でも、請求書でもなく、持ってみれば少し重さがあった。
部屋に戻って、しばらくはその封筒を机の上に置いたままにした。
開ける理由は、すぐには見つからなかった。
それでも、開けない理由も、同じくらい曖昧だった。
僕は椅子に座って、しばらく何もせずに、その封筒を見ていた。
それが、次の始まりだった。
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