『神の右手』顛末記

よし ひろし

第一話 手が出た日

 西暦202X年8月10日、語呂合わせ「810ハンド」で手の記念日――


 東京大手町のオフィス街は、いつもと変わらぬ喧騒に包まれていた。丸の内オアゾから流れ出すランチ帰りのサラリーマンたち、大手町フィナンシャルシティの高層ビル群から見下ろす東京駅のホーム、読売新聞本社ビルの窓に映る青空――すべてが日常だった。


 午後二時四十三分――突然、空が裂けた。


 大手町タワーの上空、高度約五百メートル。まるで見えない巨大なカッターで切り裂かれたように、空間に亀裂が走った。その向こうは、黒でも白でもない、何とも形容しがたい無色――


 ずずずっ……


 何かを擦るような音が周囲に響き、それは現れた。


 ――巨大な『手』だ!


 最初に気づいたのは、大手町パークビルディングの三十二階で働いていた会社員、手塚亮介だった。


「な、な、なんだぁ、あれは――!?」


 手塚が右手を伸ばし、震える指で窓の外を指した。それにつられ外を見た会議室の全員が絶句する。


「ば、馬鹿な……」

「夢でも見ているのか……」


 その手は、大きさを除けば人間のそれと寸分違わぬ外見をしていた。五本の指、手のひらのしわ、爪――すべてが人間の手を拡大したような『右手』だった。ただし、そのスケールは常軌を逸していた。親指一本で、大手町プレイスを軽く覆い隠せるほどの大きさだったのだ。


 手は、まるで暗闇で落とし物を探すように、地表へ向かって魔の手を伸ばした。


「に、逃げろおおぉぉぉぉーーーーっ!」


 誰かの叫びが、凍りついた空気を破る。


 だが、手遅れだった……


 巨大な手のひらが、まず東京サンケイビルの屋上に触れた。ビルは豆腐のように潰れ、鉄骨とガラスの破片が雨のように降り注いだ。次いで、手が何かを探るように地面を這った。その一度の動作で、経団連会館が根こそぎなぎ倒され、JAビルが半壊し、大手町フィナンシャルシティの一角が瓦礫の山と化した。手は大手町のオフィス街を手当たり次第に弄り始めたのだ。


「キャー!」

「逃げろ! 潰されるぞ!」


 人々は蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。日比谷通りは阿鼻叫喚の地獄絵図と化し、地下鉄大手町駅は避難しようとする人々で将棋倒しが発生した。


 そんなパニックの中、手は唐突に動きを止めた。


 人差し指を読売新聞本社ビルに引っ掛け、親指を大手町タワーに添え、中指を地面につけたまま――まるで何かを待つかのように、ぴたりと静止した。



 その日、大手町のビル群の三分の一が壊滅的な被害を受けた。幸いにも死傷者は思ったより少なかったが、それは単に夏休みを取っている者も多くいたため、普段よりも人口密度が低かったという偶然のおかげに過ぎない。

 

 その事件から間もなく、誰が言い出したわけでもなく、人々はその手を『神の右手』と呼び始めた……


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