白雨を降らせて、

ことりいしの

貴方への恋文は雨になる。

 ひとつずつ。

 ひとつずつ。

 文字を積み重ねて、織って。またさらに綴って。そうやって文章を紡いでみたりする。

 私の書く文章は、それはそれは平凡なものだ。特別なものなんかじゃない。そこらへんにごろごろと転がっていそうなものばかり。

 ついでに言えば、

「さくら、また書いてんの?」

 女の子にしては少し低い声が聞こえたと同時に、嗅ぎ慣れたシトラスの匂いが鼻を掠めた。と同時に、私が着ているのと同じ高校指定のセーラー服が、便箋を三枚くらい持っていく。そうしてセーラー服は踊るように、跳ねるように、夕陽色に染まった教室を一周してから私の目の前の席に座った。夏のセーラー服の白は、夕陽に照らされたとて、オレンジ色には染まらないらしい。より一層、白が際立つばかりだった。今だって、目の前に腰掛けたセーラー服は白をきらきらとその純なる色を主張している。

「純ちゃん……見ないでって前に言ったのに」

 その人物に誰、なんて問う必要はない。

 彼女は純ちゃん。私の幼馴染。

 幼稚園も、小学校の中学校も、ずっとずっと一緒の幼馴染。大事な子。

「本人には見せない手紙でしょ。それなら、アタシが読んであげた方がずっと有用じゃない」

「私は読んで良いなんて、言ってないもん」

「はいはい。素敵なラブレターなのにね。情熱的な」

 そう、ついでに言えばこの手紙はラブレターだ。宛先不明で戻ってきてしまう類の。


 少し前のこと。たぶん、ひと月くらい前のこと。私は恋をした。

 知らない人に恋をした。

 名前も知らないその人に、ひと目で惹かれてしまった。世の中ではあれをきっと、ひとめぼれと呼ぶんだろう。

 はじまりは、あるまだ桜が咲いている春の日のこと。その人は鮮やかな薄紅色の雨の中で、カメラを手に、ぽつねんと立っていた。そのカメラは私が知っているような、所謂デジカメではなかった。あれは確か、インスタントカメラと言うんだったっけ。だが、カメラを構える様子もなければ、写真の構図に悩んでいる様子でもなかった。彼は、ただ、そこに立って、虚空を見つめているだけだった。しかしその黒曜石のような瞳には、なにひとつも映っていない。映っているのは、彼の影だけ。何故だかその寂しそうな、悲しそうな横顔が忘れられなかった。

 風が吹く。脱色された彼の人の髪が揺れる。街路に散らばって、やたらめったらに踏まれた桜の花がふわりと巻き上がる。巻き上がった花は、舞い降りてくるそれよりも、もう少しピンク色が強いような気がした。だからかもしれない。次に瞳のフレームに映ったそのとき、散っている桜の花は少し白っぽく見えた。白い雨だった。

 その光景はまるで一枚の絵画のようだった。そのときの絵は、いまだに昨日のことのように思い出すことができる。


 その昨日じゃない「昨日」から今日まで、私はずっと手紙を書き続けている。

 名前も知らない人へ宛てた、「好きです」という文字ばかりが目につく稚拙なラブレター。きっと純ちゃんは、心配してくれているんだろう。幼馴染が変な空想に恋をするようになったんじゃないかと。だから学校にいるときはきまって、私が手紙をしたためているときに茶化しにくるのだ。

 ほんの少し、困った顔を引っ提げて。

 純ちゃんは責任感の強い子だから。幼馴染のことも心配してくれるんだろう。幼稚園の頃からそうだった。内気でおまけに身体が小さくて。揶揄われやすくて。他の子からいじめられがちな私を、純ちゃんはいつだって助けてくれた。

 あの頃の私にとって、純ちゃんはヒーローだった。

 でもね、

「純ちゃん、もう今日で最後にするから気にしなくて大丈夫だよ」

 またあのときのように、純ちゃんにヒーローばかりをやらせるつもりはない。

「……さくら? どういうこと?」

 困った顔をもう少しだけ拡げた純ちゃんが首を傾げると、彼女のポニーテールがさらりとはためいた。癖のない、絹糸のような髪の毛だ。幼馴染の欲目なしに綺麗だと言える。

「わかってる……ううん、わかってたの。こんなばかみたいに手紙ばっかり書いたって、意味なんてないって」

 そして、いつもヒーローみたいにかっこいい純ちゃんが、いつだってお姫様役に憧れていたことにも。純ちゃんのお母さんが「年頃だもんね」と言って彼女の髪の毛をきらなくなったころ。彼女は髪を伸ばし始めた。お母さんたちは「色気付いた」なんて言っていたけど、それは違う。知っているんだ。純ちゃんはいつだって、お姫様になりたがっていた。

 それを知っているのに、私がずっと大事な幼馴染にヒーローを強いてはいけない。私はきっと純ちゃんのヒーローにはなれないけど、純ちゃんをお姫様にすることはできないけれど。それでも──。


「あのね、あの人のこと、わかったんだ」

 私がその人のことを見たことがなかったのは、

 知らなかったのは、

 恋をしたのは、

 全部全部過去形だ。

 現在形なのは、手紙を書いていることだけ。

 ほかは全部、「過去」として、「昨日」として消化したことだった。


 純ちゃんがあっけに取られて何も言わないことを良いことに、私は口を動かし続けた。

「あの人はね、隣の町の大学生……っぽい人。写真家、とか言っているときもあるみたい。でも本当は、そのへんで女の人をひっかけてるヒモなんだって」

 情報を得たのは偶然だった。

 誓って、ストーカーのように後をつけたわけではない。

 気まぐれに出かけた、イオンのフードコートで。偶然に。お母さんよりも年上の女性の腕に、彼はくるりと自身の腕を巻き付けていたた。それを見ていた老年のご夫婦が、「ああ、またあの人か」と言っているのを聞いてしまった。私はそのとき食べていたチョコミントアイスを、今でも舌の上で転がしている気がする。

「このへんではあんまりだけど、隣町では有名みたい。有名っていっても、井戸端会議的な意味でだけどね」

「……さくら」

「あの日も、きっとそういうことをした後だったんだと思う。早朝だったしね。私は……騙されたりしないから」

 きっと私が口に出さなかった言葉も、純ちゃんならわかるんだろう。


──お母さんとは違って


 うちにはお父さんがいない。私が幼稚園のときにいじめられていた理由の一端には、それもあった。お母さんは、お父さんに騙されたのだ。物心ついたとき、家には母ひとり子ひとりだった。井戸端会議なんていう悪習はすぐに閉会すべき、って言いたい。暇つぶしにも似た、お遊戯にも似たそれで、私たち親子はいつだって石をぶつけられていたのだから。

 でも外傷はない。

 だから誰も責められない。

 内傷ばかりが増えていって。どうしようもなくなる。

 そんなときに助けてくれたのが純ちゃんだった。純ちゃんのお母さんやお父さんだった。だから彼女はヒーローだった。


「そっか」

 純ちゃんはそれ以上何も言わない。

 純ちゃんは石を投げるどころか、石を持ったりもしない。そういうところが、純ちゃんだった。

「うん、そうなの」

 カリカリと書き連ねる。意味のない文字列。記号。それを便箋いっぱいに。そして最後の行まですべて埋めた。


 好きです


 は、いつしか


 好きでした


 に変わっていた。

 無意識だった。


「ねえ、純ちゃん知ってる?」

「なにが?」

「映画のヒロインとかって悲しいと雨を降らせるんだって」

「情景描写ってやつ? この間、国語の授業でやったよね」

「うん、きっとそうだと思う。私ね、今、すごく雨を降らしたい気分なの」

「雨を?」

 訝しげな声を出してから、純ちゃんは窓の外の空を見上げた。それは先ほどよりも暗い夕暮れ色に染まっているものの、雲ひとつない。夏の抜けるような青空が、そのままオレンジ色になったくらいの晴れ模様だった。

「これじゃあ、一粒も降らないよ」

 純ちゃんの言うことはもっともだ。

 でも、

「うん、でもね、降らせられるんだよ」

 そう言ってから、私は先ほどまでペンを走らせていた便箋を破った。

 破る。破る。破る。

 破る。破る。破る。

 破る。破る。破る。

 塵ができる。それも大量の。当たり前だ。

 視界の端っこで、純ちゃんがひどく驚いた顔をしたのが見えた。それもそうかもしれない。でもね、これで終わりじゃないんだ。

 その大量の塵を両手いっぱいに抱えて、窓のサッシの少し外側でぱっと放す。幸いにもというべきか、この教室は三階だ。塵はときに重力に従って下に落ち、時に重力に逆らって空へと舞い上がった。


「ほら見て見て、雨!!」


 笑みを携えて純ちゃんを振り返れば、彼女は仕方ないなという顔をした。そして彼女も残りの便箋を破り始める。そうして同じように雨を降らせてくれた。それはあの春の日に見た白い雨によく似ていた。夏の夕方だったのに。

「こらー」という体育の先生の怒鳴り声が聞こえる。

「誰だー」という嗄れた教頭先生の声が響く。

 そんな中、私たちはふたり雨を降らせていた。


 あとで調べてみてわかったことがある。

 白雨という言葉があるらしい、と。

 そして白雨には「白く見える雨」という意味のほかに、「夕立」という意味もあるらしい。

 夏の夕方。確かに白雨は降った。まさしく夕立だった。

 あれはきっと、映画の中のヒロインが泣く代わりに雨がざあざあと音を立てるように、私が涙を流す代わりに降らせた雨だった。

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