【短編】闇の奥
だーまん
闇の奥
「僕は今月中に自殺を考えています」
ヘッドセットの向こうで、男の声が震えていた。
「自殺ですか……で、どんな死に方を?」
俺は、二宮真二。
今日も俺は「通話アプリのサーバー」に入る。最近このアプリにハマっている。
何が面白いのかって? それは聞いていれば分かる。
「どういう死に方なら、苦しくないでしょうか」
「死に方ですか……、AIに聞いてみたらどうでしょうか」
てな具合だ。表向きは一見さんが自分の趣味、嗜好、経験談など「人には言えない話」を言っていく。周りの人はそれを聞き、自分が話す。
ちなみにこのパターンは最悪。きっとこいつは死ぬ気がない。死ぬのを止めてほしいのだ。死ぬ気のあるやつはもう死んでる。
今日の当たりはこの後の女だった。
「私、彼氏がいるのにお金のためにおじさんと寝てるんです」
「お金のために……。何人くらいと寝たんですか?」
四人しか入れない部屋。その中で語り手のことを、真正面から非難してはいけない。それがここのマナーだ。
「十二人……」
「十二人ですか、そういう時ってどんな気持ちで股を開くんですか?」
パソコンのスピーカーから、女の生々しい息遣いと、微かな後悔が滲んでいた。俺は、この女のどうでもいい話を聞きながら、この女宛にチャットを飛ばした。
『一月十日午前、東京都豊島区内のホテルで、男性の遺体が見つかりました。
警視庁は――』
つけっぱなしのテレビが、無機質な声を上げる。
四十代男性。ホテルで死亡。目立った外傷なし。よくあるニュースだ。俺はテレビを消すと、丸ノ内線の駅に向かった。
新宿まで来ると、駅の喧騒が仕事以外であまり部屋から出ない俺を
スカイビジョンの明かりが、夜空を白く塗りつぶしていた。すれ違うきつい香水や柔軟剤の匂いに排水溝の腐臭。
それらが混ざり合ったこの街の空気は、ゴジラが立ったあの日から変わらない肥溜めのような、嘘まみれのこの街を象徴している。
「シンジさんですか」
「初めまして」
サーバーで知り合った「彼氏がいるのにオヤジに抱かれる女」だ。
この後、この女とヤッた。
「で、やっぱり彼氏にはこの事言わないの」
俺は電子タバコをふかしながら女に聞いた。テーブルに適当に置かれた「渋沢」がこちらを見てにっこりとしている。
「言えるわけないじゃないですか」
「やっぱり、罪悪感はもうないの」
「もうないって話したけど、罪悪感あります」
その表情の裏側に、顔の見えない男がひとり、じっとこっちを見ている気がした。その男が大事にしているはずの女を、自分の手で汚している――その感覚に、ぞくりと興奮が走った。
俺は女をベッドに押し倒し、唇を塞いだ。
女と新宿駅に戻る頃も、東口は人がごった返していた。
別れ際の女は、化粧の落ちた顔を少し気まずそうにゆがめて、冬の風に撫でられた黒髪が、一瞬ふわっと舞い上がる。その艶やかさと整った顔立ちが、ちゃんと“人”に見えた瞬間、俺の中で急速に興味が失せていくのを感じた。
このサーバーで流れる“どうでもいい話”が、あの日を境に、全部つながっていくことになる――そのときの俺は、まだ知らなかった。
数日後、仕事から帰った俺は、コートを椅子に投げてパソコンを立ち上げた。デスクトップから、迷わず通話アプリのアイコンをクリックする。
通話アプリが立ち上がり、一覧から、適当な四人部屋を選んで入る。今日は二部屋しか立っていない。丁度よく、数字は「3/4」になっていて、入った瞬間ヘッドセットの中に男の声が聞こえてきた。
「……だから、今月中に、自殺したいんです」
落ち着いているようで、どこか上ずった中年男の声。仕事帰りにそのままマイクの前に座ったような、スーツの皺が見える声。
画面越しにその男の顔を想像する。すると、その男の顔に自分の顔が張り付いているような気がして、すぐに声に耳を傾ける。
聞き覚えがあるような、ないような。このサーバーで「死にたい」とか「消えたい」とか言うやつの声なんて、だいたい同じだ。話を聞いてるうちに、次第に興味が失せた。
「今月って、またずいぶん曖昧な日取りですね」
俺はマイクをオンにして、いつもの調子で相づちを入れる。
「具体的な日にちは決めてないんですか?」
「漠然としてますよね。それよりも会社も家も、めちゃくちゃで……」
男が笑ったのか泣いたのか分からない濁った息を吐く。別の参加者が「大変なんですね」とか「人生いろいろあるよな。俺も何回か考えた」など、声を重ねていく。
その瞬間、ポケットの中でスマホが震えた。画面を覗くと、新宿で会ったNTR女の名前が、LINEの通知に浮かんでいた。
『先日はありがとうございました』
無難な一文。
ホテルを出てから新宿駅までのあいだ、一言も喋らなかったくせに、こういう礼儀は忘れない。親指でタップすると、続けていくつかメッセージが流れ込んできた。
『ちょっと相談があって』
『このアプリで知り合った別のおじさんがいて』
『明日会おうって言われてるんですけど、やめた方がいいですかね』
ヘッドセットの向こうでは、中年男がまだ喋っている。
「誰にも言えないじゃないですか、こんな話。会社の人にも、家族にも、友だちにも……」
声だけ聞いていれば、そこそこ切実な告白だ。だが、本気で死のうとしてるなら、こんなアプリは使わない。俺は、モニターじゃなくスマホに目を落とした。
『この前も一人、このアプリで会ったおじさんがいて。めちゃくちゃお金持ってて、でもすごいしつこくて、ちょっと怖かったんですよね』
女のメッセージは、絵文字も顔文字もないのに、妙に楽しそうだった。
『その人、そのあと連絡途切れちゃって』
『だけど、そのおじさんニュースに出てきて、ちょっとゾッとしましたw』
どこかで聞いたようなニュースが薄く重なった。
だが、ゾッとした。と書いているくせに、最後に「w」をつけるあたり、そこにあるのは恐怖よりも、自分の“ネタ”がニュースになったという興奮だろう。
「死ぬ前に、やり残したこととか、ないんですか」
俺は中年男に向かって問いかけながら、スマホを打った。
『まあ、金になるなら会えば?』
さらにこう付け足す。
『ちゃんと気をつけてれば大丈夫でしょ』
画面の下の「▶」を押す。数秒後、「既読」がついたまま、女からの返事はしばらく来なかった。
「やり残したこと、ですか……」
中年男が、ヘッドセットの向こうで呟く。
「やり残したことだらけですよ。でも、もう、片付ける気力もなくて」
別の参加者が相槌をうち、「死ぬ前に風俗行っとけ」とか、どうでもいい助言を重ねる。
俺の中では、男の話も、女のおっさんが死んだ話も同じフォルダに放り込まれていく。「どうでもいい話」というごちゃまぜのゴミ箱だ。
しばらくして、スマホがまた震えた。
『ですよねw』
『でも、そのおじさん、ちょっとメンヘラっぽくて』
『死にたいとか、たまに言うんですよ』
女のメッセージはどうでもいい内容だった。このアプリで過去に聞いた話の方がよっぽど面白い。
『死ぬ死ぬ言うやつほど死なないから大丈夫』
そう送ると、女からスタンプが返ってきた。ジャージに名前が書いてある女のキャラクターが、スマホの画面の中で跳ねている。
「……今月中ですか」
別の参加者が、中年男に聞く。
「なんで今日、明日じゃないんです?」
「明日、ちょっと……人に会う約束があって。それが最後かな、って。それが終わったら、もういいかなって思ってはいます」
男の声が、そこで一瞬だけ濁った。俺は、スマホから目を離して、男の方へ意識を戻す。
「ずいぶん律儀な遺言ですね」
軽く茶化すと、別のやつが「さすがに言い方」と笑った。中年男も、それにつられるみたいに「はは」とか細い笑い声を漏らす。
その夜、女のLINEも、中年男の話も、俺の中では同じくらいの「どうでもいい話」で消えていった。
◇
それから二日後の朝、つけっぱなしのテレビがニュースを流していた。
『続いてのニュースです。一月十六日。未明、東京都内のホテルの一室で、二十代とみられる女性が死亡しているのが見つかりました――』
ふと耳にひっかかったのは、「二十代」と「ホテル」という単語だった。画面には、モザイク越しのラブホテルの外観が映っている。
テロップには「新宿区内」「二十代女性」「職業不詳」。
俺はその話に動きを止めた。
『女性はベッドの上で倒れているところを、ホテルの従業員に発見されました。目立った外傷はなく、警視庁は事件と事故の両面で捜査を進めています――』
ありふれたニュースだ。東京では、毎日どこかで誰かが死んでいる。そう思っても、頭の中で、いくつかの情報が勝手に並び替えられていく。
新宿。
二十代。
ホテル。
そして「明日会おうって言われてるんですけど」と送ってきた女のLINE。
スマホを手に取って、トーク画面を開く。女のアイコンの横で、最後のメッセージは変わっていなかった。
『おじさんに会ってきたら、また報告しますねw』
その「報告」は、まだ届いていない。
数日後の夕方、仕事中に知らない番号から電話がかかってきた。
「○○警察署の××と申します。二宮真二さんの携帯でお間違いないでしょうか」
男の声。その声は、妙に事務的だった。
女がホテルで死んだ。スマホに残っていた俺とのやり取り。詳しく話を聞きたいので、できればこれから署まで来てほしい——電話の要点はそれだけだった。
通話が切れたあともしばらく、スマホを耳に当てたまま固まっていた。喉が妙に乾き、鼓動が速くなった。それは、相手が警察だったからか、女が死んだ聞かされたからか、俺には分からなかった。
新宿駅から署までの道は、妙に明るく見えた。夜空はもう暗いのに、青梅街道沿いのビルのテナントの看板が、必要以上に道路を照らしている。
事情聴取の部屋は、ドラマでよく見る取調室とは違っていた。入り口のドアは開いていて、向こうに並べられた机とそこを行きかう刑事たちが見える。正面に座ったスーツ姿の刑事が、ノートとタブレットを前に置いた。
「この方で間違いないですか」
タブレットの画面に、証明写真みたいな女の顔が映し出される。ノーメイクに近い顔は、ホテルで見たときよりいくらか幼く見えた。
「……そうですね。」
俺は首を縦に振り、最低限のことだけ話した。アプリで知り合ったこと。新宿駅で待ち合わせをして、ホテルに行ったこと。そのあと、駅で別れたこと。
「……やり取り、見てもらってもいいですか」
俺はそう切り出した。
「よろしいですか」
ポケットからスマホを取り出し、LINEを開く。通知の赤い数字がいくつか並んでいたが、それらを無視して、女とのスレッドをタップする。
「これです」
俺はスマホを、机越しに刑事へ押し出した。
「その女とのLINEのトーク画面です」
刑事は椅子ごと少し身を乗り出し、俺の手からスマホを受け取る。女の文字が、警察の白い蛍光灯の下でやけに黒く見えた。
刑事は無言で目を走らせ、眉をわずかに動かした。
「これ、撮ってもいいですか?」
スマホから顔を上げずに言う。
「ええ。どうぞ」
刑事は俺のLINE画面を一通り撮影すると、黙ってノートに何かを書き足した。
「この“おじさん”について、何か聞いていますか」
刑事は視線をスマホで撮った写真から外さないまま尋ねてくる。
俺は自分のスマホを覗き込んだ。
『だけど、そのおじさんニュースに出てきて、ちょっとゾッとしましたw』
「このLINEのやり取りだけですね」
俺は手のひらを意識的にテーブルの上に置き、親指と人差し指を擦り合わせた。
「その男性とは、会ったことは?」
ようやく顔を上げて、俺の方を見てくる。
「ないですね」
そう答えると、刑事は小さく頷き、俺のスマホをこちら側に押し戻した。俺はそのまま端末をテーブルの端に寄せる。
警察官はそれ以上追及してこなかった。代わりに、タブレットを見ながら、一言付け加えた。
「女性のスマートフォンから、履歴がいくつか見つかっていましてね。今、その相手方に順番にお話を伺っているところです」
刑事は淡々とした口調で言った。
「あなた以外にも、何人か」
「そうですか」
俺は曖昧に返事をしながら、テーブルの端に置いた自分のスマホにちらりと目をやった。画面は真っ黒なまま、何も光っていなかった。
「一月十日に豊島区で四十代男性の死体が見つかったんです。多分この“おじさん”のことかと」
刑事がそう言うと、女のメッセージが、頭の中で蘇った。
「今のところ、あなたを事件の関係者として疑っているわけではありません。もし、何か思い出したことがあれば、連絡をください」
刑事はそう言って、事情聴取は終わった。
マンションの階段を上りながら、頭の奥では別のことを考えていた。
豊島区のホテルの男も、そして新宿で死んだ女も。全員が、このアプリを経由してどこかでつながっている。
そこに、俺もいる。
部屋に戻り、またいつものようにパソコンの前に座った。モニターに映るアプリのアイコンを、しばらく見つめる。
ここで電源を切って、何も見なかったことにして寝る。そういう選択肢も、たしかにあった。
だが、指は勝手にマウスを動かしていた。
いつものように部屋の一つに入ると、すでに三人が埋まっていた。画面には、新しいハンドルネームと、見覚えのないアイコン。
「……明日、自殺したいんですが。いい死に方、ないですかね」
ヘッドセットの向こうで、中年男の声が言った。その一言で、心臓が小さく跳ねた。
落ち着いたトーン。
ところどころで息が詰まる感じ。
言葉を探すときの、妙な空白。
数日前、「今月中に自殺したいんです。――明日、ちょっと……人に会う約束があって」と言っていた中年男と、同じ声だった。そして、その前のこのサーバーで聞いた声が頭をよぎる。
『僕は今月中に自殺を考えています』
どこかの部屋で聞いた、震える男の声。「ああ、またか」と思いながら聞き流したはずの告白。
適当な冗談だと片付けていた男と新宿で会った女が、一本の線になって俺の方へ近づいてくる感覚がした。
「また、ずいぶん具体的なご相談ですね」
マイクをオンにして、喉を湿らせるみたいに言う。
「この間は、今月中って言ってませんでした?」
男は一瞬黙ってから、かすれた笑い声を出した。
「覚えてたんですね。色々あって決心しまして」
別の参加者が心配を装った声をかける。普段なら俺も適当な相槌を入れていたかもしれない。
「明日、死ぬ前に、誰かと会う予定はないんですか」
そう聞くと、男は少しだけ息を飲む音を立てた。
「もう、会ったので……」
女のLINEが、頭の中で勝手に再生される。
『このアプリで知り合った別のおじさんがいて』
『明日会おうって言われてるんですけど』
「××さん?」
別の参加者が俺のハンドルネームを呼んだ。
「なんか、妙に食いつきません?」
「いや、気になっただけですよ」
俺は軽く笑いながら言う。
「死に方を探してるって言うわりに、こうやってわざわざここに来るのが、律儀だなと思って」
自分の声が、少しだけ上ずっているのが分かった。
チャット欄をクリックすると、モニターの端に、小さなウィンドウが開いた。中年男に個別メッセージを送る。
『いい死に方、ひとつ見つけました。直接会って話しませんか』
数秒後、相手のアイコンの横に「既読」がつく。
『会ってお話ですか?』
『どうせ明日死ぬなら、最後に人に会っておいても損はないでしょう』
自分で打ちながら、指先が少し軽くなる。
『分かりました』
あっさりと約束が決まった。
ボイスチャットの方では、相変わらず別の連中が死ぬだの死なないだの、議論を続けている。俺はそれを聞きながら、明日の待ち合わせの時間と場所を、打ち合わせた。
◇
新宿三丁目のチェーンカフェのガラス越しに、入り口付近の二人席に、スーツ姿の男が座っているのが見えた。
俺はスマホのアプリからメッセージを送った。
『入り口付近のグレーのスーツですか?』
男の顔が、こちらを向いた。
「××さん、ですか」
声をかけると、男は立ち上がりかけて、すぐにまた腰を下ろした。年齢は、声の印象よりいくらか老けて見えた。四十代半ば、といったところか。目の下のクマと、髭を剃ったばかりの青さ。整った身なりが昨夜の話を思い出させる。
「昨日の……」
「自殺する男です」
男は、自分でそう名乗って苦笑した。俺は向かいの席に座り、メニューもろくに見ずにホットコーヒーを頼んだ。男はすでに、水だけのグラスを前に置いていた。
「で、どんな死に方を?」
店員が去ったあと、俺はそのまま切り込む。
「……そんな大したものじゃないですよ」
男は指を組んだまま、テーブルの上を見つめた。
「睡眠薬と酒で……って、ベタですよね。ベランダから飛び降りる根性もないので」
ありふれたプラン。
「それで、いいプランっていうのは?」
男は聞き返してきた。
「申し訳ありません。あまり変わらなかったです。練炭です。車に乗って山奥でっていう」
俺も適当にありふれたプランを出す。小説や、漫画で何度も見たことのある、よくある死に方。
「人に会ったって言ってましたよね」
俺がそう言うと、男のまぶたがぴくりと動いた。
「……会いました」
「どこで」
「新宿の、安いホテルで」
カフェのざわめきが、急に遠のいた気がした。
「その人も、このアプリで知り合った?」
「そうです」
男は、ようやく俺と目を合わせた。
「若い女の子でした。黒髪の二十代前半ぐらいで。見た目はそんなことしなそうな子で」
あの女の顔が、頭の中に浮かぶ。ホテルの部屋で、彼氏の話をしていたときのあの口ぶり。
「『この前ね、豊島区のホテルで会ったおじさんがいて』って、やたら嬉しそうに話してました」
男の声が少し震えた。
「太っ腹で、いくらでも払ってくれて。でもしつこくて、だからちょっと“お薬”多めに盛ってやったって。次の日にニュース見て、『マジで死んでた』って、不安そうに話してました」
豊島区。
四十代男性。
ホテル。
テーブルの木目が、急に気持ち悪い模様に見えた。
「その子に、あなたも会った」
「はい」
男は、深く息を吐いた。
「最初は普通でした。ホテルに入って、少し話して、シャワーを浴びて。戻ってきたら、彼女がコンビニの缶を二つ開けてたんです」
そこで言葉が途切れる。
「でも、缶を渡されたとき、ふと、変だなって思ったんです」
「変?」
「缶を渡されたとき、一瞬だけ、彼女が自分の缶と俺の缶を見比べた。その時、ニュースの中の『豊島区のおじさん』が頭に重なって」
男は震える指で、水のグラスを持ち上げた。
「むこうが目を離した瞬間に、僕は缶をすっと入れ替えたんです」
「それで」
「彼女が一口飲んで、笑ったんです。……『美味しいね』って。そのあと、身体を寄せてきて。僕の耳元で、『大丈夫、大丈夫』って笑って」
男の喉仏が、ごくりと動いた。
「……彼女は酔ったようにベッドに行きました。その後、呼んでも揺すっても、目を開けなくて」
カフェの空調の音と、隣で話している保険屋の女の声が、やけに鮮明に聞こえた。
同時に俺も殺されたいかもしれないと思うと、何故だか胸が高鳴った。
「救急車を呼べばよかったんでしょうけど、頭の中が真っ白で。ニュースの映像がよぎって。『太っ腹なおじさん』って、あのとき笑ってた顔と、ベッドの上の顔がぐちゃぐちゃになって」
男は、握った手をさらに強く握った。
「気づいたら、部屋を出てました。エレベーターを降りて。そのまま、駅まで歩いて」
「警察には」
「行けるわけないじゃないですか」
初めて、男の声に怒りが混じった。
「彼女はたぶん、僕を殺そうとしてたんですよ。太っ腹なおじさんみたいに。なのに、死んだのは彼女で。それを全部話したところで、誰が信じます?」
たしかに、その通りかもしれなかった。
「でも、僕が逃げたせいで、彼女はあそこで一人で死んだ。そう考えると、やっぱり、全部僕のせいなんだと思ってしまうんです」
男は、うつむいたまま続ける。
「彼女だって金が必要で、俺だって仕事と家に追い詰められてて。死にたいって口にしていただけのはずが、気づいたら本当に人が死んでるところに立ち会ってたんです」
男は感情交じりに言った。
コーヒーが運ばれてきても、俺は手をつけなかった。
「で、今日終わらせる」
「はい」
男は、ようやく俺を見た。
「昨日、警察から連絡がありました。彼女のスマホの履歴から、僕のことも分かったみたいで。『詳しい話はまた明日、署で』って言われました」
そう言って、笑った。
「警察に行く前に、死のうかなって」
「死ぬの、やめようとは思わないんですか」
自分でも、何を聞いているのか分からなくなっていた。
「僕が死んだからって、何かが帳消しになるわけじゃないのは分かってます。でも、生きてても、たぶん、誰も得しないですよ」
男は静かに言う。
「会社にとっても、家族にとっても。彼女にとっても、豊島区の“おじさん”にとっても。僕が生きてる限り、全部、ずっと続いていく気がして」
喉の奥がひりついた。女の罪悪感に興奮していた自分が、この男の罪悪感を前にして、うまく興奮できていない。
それでも、口から出てくる言葉は、相変わらずだった。
「死ぬ気のあるやつは、もう死んでますよ」
男が、きょとんとした顔をする。
「本当に死にたいなら、こんなところで他人に喋ったりしない。アプリに入ったり、カフェで会ったりしない」
それは、俺がこの「サーバー」で聞いた人間の真実だと思った。
「でも、あなたは今ここにいる。だから、まだ自分のことを『生きてていい』って思ってる部分が、どこかにあるんじゃないですかね」
きれいごとだと、自分でも分かっていた。俺が言いたいのは、「死ぬなら勝手に死ね」ということに近い。
それでも、男はしばらく黙ってから、ぽつりと言った。
「……そうだと、いいですね」
店を出るとき、外は薄暗くなっていた。駅へ向かう人の流れの中で、男は何度も振り返るようにしながら、人ごみに紛れていった。
あの背中を引き留めることも、警察に電話をかけることも、俺はしなかった。
◇
翌日、昼前のニュースで、アナウンサーが淡々と読み上げた。
『都内在住の四十代男性が、自宅マンションで死亡しているのが見つかりました――』
画面には、見覚えのないマンションの外観が映っている。テロップには、「自殺か」「部屋から遺書とみられるメモ」。
昨日、カフェで向かい合っていた男の顔が、ニュースには映らない。それでも、俺には十分だった。
その日のうちに、また警察から電話がかかってきた。
前と同じように、狭い部屋。同じような机と、同じような椅子。
「それで、彼とはどんな話をしましたか」
「死にたいって言ってたから、話を聞きました」
「止めようとは?」
「それなりに」
「それなりに」という言葉を、警察官はどう解釈しただろう。俺は、テーブルの一点を見つめたまま、淡々と刑事の言う事に頷いた。
「あなたは、どう思いますか」
「どう、というと」
「彼の死について」
刑事の目は、俺を責めているわけでも、庇っているわけでもなかった。ただ、仕事を進めているだけの目。
「俺の意見を聞いたところで、捜査には関係ないでしょ」
俺は刑事に向かって苦笑いを浮かべた。
警察官は何も言わなかった。代わりに、「今日は以上です。お時間の無い中ありがとうございます」とだけ告げて、俺を署から出した。
外に出ると、冬の空気は乾いていて、肺の中まで冷たくなった。家に戻り、パソコンの前に座る。
モニターに映るアプリのアイコンを、またしばらく見つめる。ここで、アンインストールしてしまえばいい。
それでも、マウスはまた同じ軌道を描いた。アプリを起動し、サーバーに入る。
四人部屋に入ると、見慣れないハンドルネームとアイコンが並んでいた。
「彼氏持ちなんですけど、別の男とも寝ちゃってて」
「借金がやばくて、もう首が回らない」
「私、この間ニュースになってた自殺の人、会ったことあります」
ヘッドセットの向こうから、次々と“どうでもいい話”が流れ込んでくる。俺はマイクをオフにしたまま、その声を聞いていた。今の俺から見ると、このサーバーで出てくる“どうでもいい話”は、全部「証言」に聞こえる。
ヘッドセット越しのノイズまじりの証言。誰かが死ぬ前にこぼした、本音とも嘘ともつかない断片。
死ぬ気のあるやつはもう死んでる――その考えは、今もあまり変わらない。
あの女の笑い声も、あの男のかすれた声も、ニュースのテロップも、取調室の白い蛍光灯も、一度耳と目に入ったものは、勝手に頭の中でリピートするだけだ。そう考えると、指先が少し軽くなる。
そして、俺は今日もこの「サーバー」にいる。
マイクのスイッチを入れ、そこにいる誰かに問いかけた。
「こんばんは……あなたは、どう思いますか。その人の死について」
【短編】闇の奥 だーまん @DERMAN2025
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