【短編】闇の奥

だーまん

闇の奥

「僕は今月中に自殺を考えています」


 ヘッドセットの向こうで、男の声が震えていた。


「自殺ですか……で、どんな死に方を?」


 俺は、二宮真二。

 今日も俺は「通話アプリのサーバー」に入る。最近このアプリにハマっている。

 何が面白いのかって? それは聞いていれば分かる。


「どういう死に方なら、苦しくないでしょうか」


「死に方ですか……、AIに聞いてみたらどうでしょうか」


 てな具合だ。表向きは一見さんが自分の趣味、嗜好、経験談など「人には言えない話」を言っていく。周りの人はそれを聞き、自分が話す。

 ちなみにこのパターンは最悪。きっとこいつは死ぬ気がない。死ぬのを止めてほしいのだ。死ぬ気のあるやつはもう死んでる。

 今日の当たりはこの後の女だった。


「私、彼氏がいるのにお金のためにおじさんと寝てるんです」


「お金のために……。何人くらいと寝たんですか?」


 四人しか入れない部屋。その中で語り手のことを、真正面から非難してはいけない。それがここのマナーだ。


「十二人……」


「十二人ですか、そういう時ってどんな気持ちで股を開くんですか?」


 パソコンのスピーカーから、女の生々しい息遣いと、微かな後悔が滲んでいた。俺は、この女のどうでもいい話を聞きながら、この女宛にチャットを飛ばした。



 『一月十日午前、東京都豊島区内のホテルで、男性の遺体が見つかりました。

 警視庁は――』



 つけっぱなしのテレビが、無機質な声を上げる。  

 四十代男性。ホテルで死亡。目立った外傷なし。よくあるニュースだ。俺はテレビを消すと、丸ノ内線の駅に向かった。


 新宿まで来ると、駅の喧騒が仕事以外であまり部屋から出ない俺を現実リアルに戻す。東口から外に出ると、年明けの冷たい風が、ダウンの袖から肌をなでた。

 スカイビジョンの明かりが、夜空を白く塗りつぶしていた。すれ違うきつい香水や柔軟剤の匂いに排水溝の腐臭。

 それらが混ざり合ったこの街の空気は、ゴジラが立ったあの日から変わらない肥溜めのような、嘘まみれのこの街を象徴している。


「シンジさんですか」


「初めまして」


 サーバーで知り合った「彼氏がいるのにオヤジに抱かれる女」だ。

 この後、この女とヤッた。


「で、やっぱり彼氏にはこの事言わないの」


 俺は電子タバコをふかしながら女に聞いた。テーブルに適当に置かれた「渋沢」がこちらを見てにっこりとしている。


「言えるわけないじゃないですか」


「やっぱり、罪悪感はもうないの」


「もうないって話したけど、罪悪感あります」


 その表情の裏側に、顔の見えない男がひとり、じっとこっちを見ている気がした。その男が大事にしているはずの女を、自分の手で汚している――その感覚に、ぞくりと興奮が走った。

 俺は女をベッドに押し倒し、唇を塞いだ。


 女と新宿駅に戻る頃も、東口は人がごった返していた。

 別れ際の女は、化粧の落ちた顔を少し気まずそうにゆがめて、冬の風に撫でられた黒髪が、一瞬ふわっと舞い上がる。その艶やかさと整った顔立ちが、ちゃんと“人”に見えた瞬間、俺の中で急速に興味が失せていくのを感じた。


 このサーバーで流れる“どうでもいい話”が、あの日を境に、全部つながっていくことになる――そのときの俺は、まだ知らなかった。


 数日後、仕事から帰った俺は、コートを椅子に投げてパソコンを立ち上げた。デスクトップから、迷わず通話アプリのアイコンをクリックする。

 通話アプリが立ち上がり、一覧から、適当な四人部屋を選んで入る。今日は二部屋しか立っていない。丁度よく、数字は「3/4」になっていて、入った瞬間ヘッドセットの中に男の声が聞こえてきた。


「……だから、今月中に、自殺したいんです」


 落ち着いているようで、どこか上ずった中年男の声。仕事帰りにそのままマイクの前に座ったような、スーツの皺が見える声。

 画面越しにその男の顔を想像する。すると、その男の顔に自分の顔が張り付いているような気がして、すぐに声に耳を傾ける。


 聞き覚えがあるような、ないような。このサーバーで「死にたい」とか「消えたい」とか言うやつの声なんて、だいたい同じだ。話を聞いてるうちに、次第に興味が失せた。


「今月って、またずいぶん曖昧な日取りですね」


 俺はマイクをオンにして、いつもの調子で相づちを入れる。


「具体的な日にちは決めてないんですか?」


「漠然としてますよね。それよりも会社も家も、めちゃくちゃで……」


 男が笑ったのか泣いたのか分からない濁った息を吐く。別の参加者が「大変なんですね」とか「人生いろいろあるよな。俺も何回か考えた」など、声を重ねていく。

 その瞬間、ポケットの中でスマホが震えた。画面を覗くと、新宿で会ったNTR女の名前が、LINEの通知に浮かんでいた。


『先日はありがとうございました』


 無難な一文。

 ホテルを出てから新宿駅までのあいだ、一言も喋らなかったくせに、こういう礼儀は忘れない。親指でタップすると、続けていくつかメッセージが流れ込んできた。


『ちょっと相談があって』

『このアプリで知り合った別のおじさんがいて』

『明日会おうって言われてるんですけど、やめた方がいいですかね』


 ヘッドセットの向こうでは、中年男がまだ喋っている。


「誰にも言えないじゃないですか、こんな話。会社の人にも、家族にも、友だちにも……」


 声だけ聞いていれば、そこそこ切実な告白だ。だが、本気で死のうとしてるなら、こんなアプリは使わない。俺は、モニターじゃなくスマホに目を落とした。


『この前も一人、このアプリで会ったおじさんがいて。めちゃくちゃお金持ってて、でもすごいしつこくて、ちょっと怖かったんですよね』


 女のメッセージは、絵文字も顔文字もないのに、妙に楽しそうだった。


『その人、そのあと連絡途切れちゃって』

『だけど、そのおじさんニュースに出てきて、ちょっとゾッとしましたw』


 どこかで聞いたようなニュースが薄く重なった。

 だが、ゾッとした。と書いているくせに、最後に「w」をつけるあたり、そこにあるのは恐怖よりも、自分の“ネタ”がニュースになったという興奮だろう。


「死ぬ前に、やり残したこととか、ないんですか」


 俺は中年男に向かって問いかけながら、スマホを打った。


『まあ、金になるなら会えば?』


 さらにこう付け足す。


『ちゃんと気をつけてれば大丈夫でしょ』


 画面の下の「▶」を押す。数秒後、「既読」がついたまま、女からの返事はしばらく来なかった。


「やり残したこと、ですか……」


 中年男が、ヘッドセットの向こうで呟く。


「やり残したことだらけですよ。でも、もう、片付ける気力もなくて」


 別の参加者が相槌をうち、「死ぬ前に風俗行っとけ」とか、どうでもいい助言を重ねる。

 俺の中では、男の話も、女のおっさんが死んだ話も同じフォルダに放り込まれていく。「どうでもいい話」というごちゃまぜのゴミ箱だ。

 しばらくして、スマホがまた震えた。


『ですよねw』

『でも、そのおじさん、ちょっとメンヘラっぽくて』

『死にたいとか、たまに言うんですよ』


 女のメッセージはどうでもいい内容だった。このアプリで過去に聞いた話の方がよっぽど面白い。


『死ぬ死ぬ言うやつほど死なないから大丈夫』


 そう送ると、女からスタンプが返ってきた。ジャージに名前が書いてある女のキャラクターが、スマホの画面の中で跳ねている。


「……今月中ですか」


 別の参加者が、中年男に聞く。


「なんで今日、明日じゃないんです?」


「明日、ちょっと……人に会う約束があって。それが最後かな、って。それが終わったら、もういいかなって思ってはいます」


 男の声が、そこで一瞬だけ濁った。俺は、スマホから目を離して、男の方へ意識を戻す。


「ずいぶん律儀な遺言ですね」


 軽く茶化すと、別のやつが「さすがに言い方」と笑った。中年男も、それにつられるみたいに「はは」とか細い笑い声を漏らす。

 その夜、女のLINEも、中年男の話も、俺の中では同じくらいの「どうでもいい話」で消えていった。



◇ 



 それから二日後の朝、つけっぱなしのテレビがニュースを流していた。



『続いてのニュースです。一月十六日。未明、東京都内のホテルの一室で、二十代とみられる女性が死亡しているのが見つかりました――』



 ふと耳にひっかかったのは、「二十代」と「ホテル」という単語だった。画面には、モザイク越しのラブホテルの外観が映っている。

 テロップには「新宿区内」「二十代女性」「職業不詳」。

 俺はその話に動きを止めた。


『女性はベッドの上で倒れているところを、ホテルの従業員に発見されました。目立った外傷はなく、警視庁は事件と事故の両面で捜査を進めています――』


 ありふれたニュースだ。東京では、毎日どこかで誰かが死んでいる。そう思っても、頭の中で、いくつかの情報が勝手に並び替えられていく。


 新宿。

 二十代。

 ホテル。


 そして「明日会おうって言われてるんですけど」と送ってきた女のLINE。

 スマホを手に取って、トーク画面を開く。女のアイコンの横で、最後のメッセージは変わっていなかった。


『おじさんに会ってきたら、また報告しますねw』


 その「報告」は、まだ届いていない。

 数日後の夕方、仕事中に知らない番号から電話がかかってきた。


「○○警察署の××と申します。二宮真二さんの携帯でお間違いないでしょうか」


 男の声。その声は、妙に事務的だった。

 女がホテルで死んだ。スマホに残っていた俺とのやり取り。詳しく話を聞きたいので、できればこれから署まで来てほしい——電話の要点はそれだけだった。


 通話が切れたあともしばらく、スマホを耳に当てたまま固まっていた。喉が妙に乾き、鼓動が速くなった。それは、相手が警察だったからか、女が死んだ聞かされたからか、俺には分からなかった。


 新宿駅から署までの道は、妙に明るく見えた。夜空はもう暗いのに、青梅街道沿いのビルのテナントの看板が、必要以上に道路を照らしている。

 事情聴取の部屋は、ドラマでよく見る取調室とは違っていた。入り口のドアは開いていて、向こうに並べられた机とそこを行きかう刑事たちが見える。正面に座ったスーツ姿の刑事が、ノートとタブレットを前に置いた。


「この方で間違いないですか」


 タブレットの画面に、証明写真みたいな女の顔が映し出される。ノーメイクに近い顔は、ホテルで見たときよりいくらか幼く見えた。


「……そうですね。」


 俺は首を縦に振り、最低限のことだけ話した。アプリで知り合ったこと。新宿駅で待ち合わせをして、ホテルに行ったこと。そのあと、駅で別れたこと。


「……やり取り、見てもらってもいいですか」


 俺はそう切り出した。


「よろしいですか」


 ポケットからスマホを取り出し、LINEを開く。通知の赤い数字がいくつか並んでいたが、それらを無視して、女とのスレッドをタップする。


「これです」


 俺はスマホを、机越しに刑事へ押し出した。


「その女とのLINEのトーク画面です」


 刑事は椅子ごと少し身を乗り出し、俺の手からスマホを受け取る。女の文字が、警察の白い蛍光灯の下でやけに黒く見えた。

 刑事は無言で目を走らせ、眉をわずかに動かした。


「これ、撮ってもいいですか?」


 スマホから顔を上げずに言う。


「ええ。どうぞ」


 刑事は俺のLINE画面を一通り撮影すると、黙ってノートに何かを書き足した。


「この“おじさん”について、何か聞いていますか」


 刑事は視線をスマホで撮った写真から外さないまま尋ねてくる。

 俺は自分のスマホを覗き込んだ。


『だけど、そのおじさんニュースに出てきて、ちょっとゾッとしましたw』


「このLINEのやり取りだけですね」


 俺は手のひらを意識的にテーブルの上に置き、親指と人差し指を擦り合わせた。


「その男性とは、会ったことは?」


 ようやく顔を上げて、俺の方を見てくる。


「ないですね」


 そう答えると、刑事は小さく頷き、俺のスマホをこちら側に押し戻した。俺はそのまま端末をテーブルの端に寄せる。

 警察官はそれ以上追及してこなかった。代わりに、タブレットを見ながら、一言付け加えた。


「女性のスマートフォンから、履歴がいくつか見つかっていましてね。今、その相手方に順番にお話を伺っているところです」


 刑事は淡々とした口調で言った。


「あなた以外にも、何人か」


「そうですか」


 俺は曖昧に返事をしながら、テーブルの端に置いた自分のスマホにちらりと目をやった。画面は真っ黒なまま、何も光っていなかった。


 「一月十日に豊島区で四十代男性の死体が見つかったんです。多分この“おじさん”のことかと」

 

 刑事がそう言うと、女のメッセージが、頭の中で蘇った。


「今のところ、あなたを事件の関係者として疑っているわけではありません。もし、何か思い出したことがあれば、連絡をください」


 刑事はそう言って、事情聴取は終わった。

 マンションの階段を上りながら、頭の奥では別のことを考えていた。

 豊島区のホテルの男も、そして新宿で死んだ女も。全員が、このアプリを経由してどこかでつながっている。


 そこに、俺もいる。


 部屋に戻り、またいつものようにパソコンの前に座った。モニターに映るアプリのアイコンを、しばらく見つめる。

 ここで電源を切って、何も見なかったことにして寝る。そういう選択肢も、たしかにあった。

 だが、指は勝手にマウスを動かしていた。

 いつものように部屋の一つに入ると、すでに三人が埋まっていた。画面には、新しいハンドルネームと、見覚えのないアイコン。


「……明日、自殺したいんですが。いい死に方、ないですかね」


 ヘッドセットの向こうで、中年男の声が言った。その一言で、心臓が小さく跳ねた。


 落ち着いたトーン。

 ところどころで息が詰まる感じ。

 言葉を探すときの、妙な空白。


 数日前、「今月中に自殺したいんです。――明日、ちょっと……人に会う約束があって」と言っていた中年男と、同じ声だった。そして、その前のこのサーバーで聞いた声が頭をよぎる。


『僕は今月中に自殺を考えています』


 どこかの部屋で聞いた、震える男の声。「ああ、またか」と思いながら聞き流したはずの告白。

 適当な冗談だと片付けていた男と新宿で会った女が、一本の線になって俺の方へ近づいてくる感覚がした。


「また、ずいぶん具体的なご相談ですね」


 マイクをオンにして、喉を湿らせるみたいに言う。


「この間は、今月中って言ってませんでした?」


 男は一瞬黙ってから、かすれた笑い声を出した。


「覚えてたんですね。色々あって決心しまして」


 別の参加者が心配を装った声をかける。普段なら俺も適当な相槌を入れていたかもしれない。


「明日、死ぬ前に、誰かと会う予定はないんですか」


 そう聞くと、男は少しだけ息を飲む音を立てた。


「もう、会ったので……」


 女のLINEが、頭の中で勝手に再生される。


『このアプリで知り合った別のおじさんがいて』

『明日会おうって言われてるんですけど』


「××さん?」


 別の参加者が俺のハンドルネームを呼んだ。


「なんか、妙に食いつきません?」


「いや、気になっただけですよ」


 俺は軽く笑いながら言う。


「死に方を探してるって言うわりに、こうやってわざわざここに来るのが、律儀だなと思って」


 自分の声が、少しだけ上ずっているのが分かった。

 チャット欄をクリックすると、モニターの端に、小さなウィンドウが開いた。中年男に個別メッセージを送る。


『いい死に方、ひとつ見つけました。直接会って話しませんか』


 数秒後、相手のアイコンの横に「既読」がつく。


『会ってお話ですか?』


『どうせ明日死ぬなら、最後に人に会っておいても損はないでしょう』


 自分で打ちながら、指先が少し軽くなる。


『分かりました』


 あっさりと約束が決まった。

 ボイスチャットの方では、相変わらず別の連中が死ぬだの死なないだの、議論を続けている。俺はそれを聞きながら、明日の待ち合わせの時間と場所を、打ち合わせた。



◇ 



 新宿三丁目のチェーンカフェのガラス越しに、入り口付近の二人席に、スーツ姿の男が座っているのが見えた。

 俺はスマホのアプリからメッセージを送った。


『入り口付近のグレーのスーツですか?』


 男の顔が、こちらを向いた。


「××さん、ですか」


 声をかけると、男は立ち上がりかけて、すぐにまた腰を下ろした。年齢は、声の印象よりいくらか老けて見えた。四十代半ば、といったところか。目の下のクマと、髭を剃ったばかりの青さ。整った身なりが昨夜の話を思い出させる。


「昨日の……」


「自殺する男です」


 男は、自分でそう名乗って苦笑した。俺は向かいの席に座り、メニューもろくに見ずにホットコーヒーを頼んだ。男はすでに、水だけのグラスを前に置いていた。


「で、どんな死に方を?」


 店員が去ったあと、俺はそのまま切り込む。


「……そんな大したものじゃないですよ」


 男は指を組んだまま、テーブルの上を見つめた。


「睡眠薬と酒で……って、ベタですよね。ベランダから飛び降りる根性もないので」


 ありふれたプラン。


「それで、いいプランっていうのは?」


 男は聞き返してきた。


「申し訳ありません。あまり変わらなかったです。練炭です。車に乗って山奥でっていう」


 俺も適当にありふれたプランを出す。小説や、漫画で何度も見たことのある、よくある死に方。


「人に会ったって言ってましたよね」


 俺がそう言うと、男のまぶたがぴくりと動いた。


「……会いました」


「どこで」


「新宿の、安いホテルで」


 カフェのざわめきが、急に遠のいた気がした。


「その人も、このアプリで知り合った?」


「そうです」


 男は、ようやく俺と目を合わせた。


「若い女の子でした。黒髪の二十代前半ぐらいで。見た目はそんなことしなそうな子で」


 あの女の顔が、頭の中に浮かぶ。ホテルの部屋で、彼氏の話をしていたときのあの口ぶり。


「『この前ね、豊島区のホテルで会ったおじさんがいて』って、やたら嬉しそうに話してました」


 男の声が少し震えた。


「太っ腹で、いくらでも払ってくれて。でもしつこくて、だからちょっと“お薬”多めに盛ってやったって。次の日にニュース見て、『マジで死んでた』って、不安そうに話してました」


 豊島区。

 四十代男性。

 ホテル。


 テーブルの木目が、急に気持ち悪い模様に見えた。


「その子に、あなたも会った」


「はい」


 男は、深く息を吐いた。


「最初は普通でした。ホテルに入って、少し話して、シャワーを浴びて。戻ってきたら、彼女がコンビニの缶を二つ開けてたんです」


 そこで言葉が途切れる。


「でも、缶を渡されたとき、ふと、変だなって思ったんです」


「変?」


「缶を渡されたとき、一瞬だけ、彼女が自分の缶と俺の缶を見比べた。その時、ニュースの中の『豊島区のおじさん』が頭に重なって」


 男は震える指で、水のグラスを持ち上げた。


「むこうが目を離した瞬間に、僕は缶をすっと入れ替えたんです」


「それで」


「彼女が一口飲んで、笑ったんです。……『美味しいね』って。そのあと、身体を寄せてきて。僕の耳元で、『大丈夫、大丈夫』って笑って」


 男の喉仏が、ごくりと動いた。


「……彼女は酔ったようにベッドに行きました。その後、呼んでも揺すっても、目を開けなくて」


 カフェの空調の音と、隣で話している保険屋の女の声が、やけに鮮明に聞こえた。

 同時に俺も殺されたいかもしれないと思うと、何故だか胸が高鳴った。


「救急車を呼べばよかったんでしょうけど、頭の中が真っ白で。ニュースの映像がよぎって。『太っ腹なおじさん』って、あのとき笑ってた顔と、ベッドの上の顔がぐちゃぐちゃになって」


 男は、握った手をさらに強く握った。


「気づいたら、部屋を出てました。エレベーターを降りて。そのまま、駅まで歩いて」


「警察には」


「行けるわけないじゃないですか」


 初めて、男の声に怒りが混じった。


「彼女はたぶん、僕を殺そうとしてたんですよ。太っ腹なおじさんみたいに。なのに、死んだのは彼女で。それを全部話したところで、誰が信じます?」


 たしかに、その通りかもしれなかった。


「でも、僕が逃げたせいで、彼女はあそこで一人で死んだ。そう考えると、やっぱり、全部僕のせいなんだと思ってしまうんです」


 男は、うつむいたまま続ける。


「彼女だって金が必要で、俺だって仕事と家に追い詰められてて。死にたいって口にしていただけのはずが、気づいたら本当に人が死んでるところに立ち会ってたんです」


 男は感情交じりに言った。

 コーヒーが運ばれてきても、俺は手をつけなかった。


「で、今日終わらせる」


「はい」


 男は、ようやく俺を見た。


「昨日、警察から連絡がありました。彼女のスマホの履歴から、僕のことも分かったみたいで。『詳しい話はまた明日、署で』って言われました」


 そう言って、笑った。


「警察に行く前に、死のうかなって」


「死ぬの、やめようとは思わないんですか」


 自分でも、何を聞いているのか分からなくなっていた。


「僕が死んだからって、何かが帳消しになるわけじゃないのは分かってます。でも、生きてても、たぶん、誰も得しないですよ」


 男は静かに言う。


「会社にとっても、家族にとっても。彼女にとっても、豊島区の“おじさん”にとっても。僕が生きてる限り、全部、ずっと続いていく気がして」


 喉の奥がひりついた。女の罪悪感に興奮していた自分が、この男の罪悪感を前にして、うまく興奮できていない。


 それでも、口から出てくる言葉は、相変わらずだった。


「死ぬ気のあるやつは、もう死んでますよ」


 男が、きょとんとした顔をする。


「本当に死にたいなら、こんなところで他人に喋ったりしない。アプリに入ったり、カフェで会ったりしない」


 それは、俺がこの「サーバー」で聞いた人間の真実だと思った。


「でも、あなたは今ここにいる。だから、まだ自分のことを『生きてていい』って思ってる部分が、どこかにあるんじゃないですかね」


 きれいごとだと、自分でも分かっていた。俺が言いたいのは、「死ぬなら勝手に死ね」ということに近い。

 それでも、男はしばらく黙ってから、ぽつりと言った。


「……そうだと、いいですね」


 店を出るとき、外は薄暗くなっていた。駅へ向かう人の流れの中で、男は何度も振り返るようにしながら、人ごみに紛れていった。

 あの背中を引き留めることも、警察に電話をかけることも、俺はしなかった。





 翌日、昼前のニュースで、アナウンサーが淡々と読み上げた。


『都内在住の四十代男性が、自宅マンションで死亡しているのが見つかりました――』


 画面には、見覚えのないマンションの外観が映っている。テロップには、「自殺か」「部屋から遺書とみられるメモ」。


 昨日、カフェで向かい合っていた男の顔が、ニュースには映らない。それでも、俺には十分だった。

 その日のうちに、また警察から電話がかかってきた。


 前と同じように、狭い部屋。同じような机と、同じような椅子。


「それで、彼とはどんな話をしましたか」


「死にたいって言ってたから、話を聞きました」


「止めようとは?」


「それなりに」


 「それなりに」という言葉を、警察官はどう解釈しただろう。俺は、テーブルの一点を見つめたまま、淡々と刑事の言う事に頷いた。


「あなたは、どう思いますか」


「どう、というと」


「彼の死について」


 刑事の目は、俺を責めているわけでも、庇っているわけでもなかった。ただ、仕事を進めているだけの目。


「俺の意見を聞いたところで、捜査には関係ないでしょ」


 俺は刑事に向かって苦笑いを浮かべた。

 警察官は何も言わなかった。代わりに、「今日は以上です。お時間の無い中ありがとうございます」とだけ告げて、俺を署から出した。


 外に出ると、冬の空気は乾いていて、肺の中まで冷たくなった。家に戻り、パソコンの前に座る。

 モニターに映るアプリのアイコンを、またしばらく見つめる。ここで、アンインストールしてしまえばいい。

 それでも、マウスはまた同じ軌道を描いた。アプリを起動し、サーバーに入る。

 四人部屋に入ると、見慣れないハンドルネームとアイコンが並んでいた。


「彼氏持ちなんですけど、別の男とも寝ちゃってて」

「借金がやばくて、もう首が回らない」

「私、この間ニュースになってた自殺の人、会ったことあります」


 ヘッドセットの向こうから、次々と“どうでもいい話”が流れ込んでくる。俺はマイクをオフにしたまま、その声を聞いていた。今の俺から見ると、このサーバーで出てくる“どうでもいい話”は、全部「証言」に聞こえる。

 ヘッドセット越しのノイズまじりの証言。誰かが死ぬ前にこぼした、本音とも嘘ともつかない断片。


 死ぬ気のあるやつはもう死んでる――その考えは、今もあまり変わらない。

 あの女の笑い声も、あの男のかすれた声も、ニュースのテロップも、取調室の白い蛍光灯も、一度耳と目に入ったものは、勝手に頭の中でリピートするだけだ。そう考えると、指先が少し軽くなる。

 そして、俺は今日もこの「サーバー」にいる。

 マイクのスイッチを入れ、そこにいる誰かに問いかけた。


「こんばんは……あなたは、どう思いますか。その人の死について」

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