駄目な精神科医

真田直樹

第2話

診断名よりも、名前を呼ぶ

桐島は、診察室に入ってくる足音で、患者の調子が分かることがあった。

重い靴底を引きずるような音。

途中で一度、立ち止まる気配。

ノックが弱く、遠慮がちに二回。

「どうぞ」

そう言う前から、桐島は立ち上がっていた。

扉を開けて入ってきたのは、三十代半ばの女性だった。

痩せているわけではないが、体の輪郭が曖昧に見える。

どこか、自分の身体に重さを感じていない人の歩き方だった。

「……失礼します」

声は小さいが、消え入りそうではない。

まだ、こちらに戻ってこようとする力が残っている声だ、と桐島は思った。

「こんにちは、佐藤さん」

彼女は一瞬、目を見開いた。

「……覚えて、ました?」

桐島は頷いた。

「ええ。先週、雨の日に来ましたよね」

佐藤は、その場に立ち尽くしたまま、しばらく動かなかった。

やがて、肩が小さく震え始める。

「……先生、私……」

泣く準備をしてきた患者ではなかった。

ただ、名前を呼ばれる準備をしていなかっただけだ。

精神科医として、名前を呼ぶことは当たり前だ。

だが現実には、カルテの病名で患者を把握する医師も少なくない。

大うつ病性障害

双極性障害Ⅱ型

境界性パーソナリティ障害

診断名は便利だ。

共通言語として、医療者同士を繋ぐ。

だが、桐島はそれを、口に出すことができなかった。

「今日は、どんな一週間でしたか」

佐藤は椅子に座り、両手を膝の上に置いたまま話し始めた。

「……特に、何も」

「何も、というのは」

「良くも、悪くも、何もです」

それは、危険な言葉だった。

“何もない”は、しばしば“全部が空っぽ”と同義になる。

桐島は、焦らなかった。

「それは、楽でしたか」

佐藤は首を横に振った。

「……分かりません」

沈黙が落ちた。

桐島は、沈黙を破らなかった。

破る言葉を、見つけられなかったのではない。

破らないほうがいいと、直感的に思っただけだった。

時計の秒針が、はっきりと音を立てて進む。

やがて佐藤が、ぽつりと言った。

「先生は……私の病名、何だと思いますか」

この質問に、正解はない。

だが、精神科医としての“模範解答”は存在する。

——今は診断よりも、症状を一緒に見ていきましょう。

桐島は、その言葉を飲み込んだ。

「正直に言いますね」

佐藤は身構えた。

「私は、佐藤さんの病名を、まだ決めていません」

「……え?」

「決める必要があるときが来たら、決めます。でも今は、佐藤さんが佐藤さんであることのほうが、私には大事です」

佐藤の目が揺れた。

「……それって……医者として、いいんですか」

桐島は、少しだけ笑った。

「いいかどうかは、分かりません」

それは、彼がよく使う言葉だった。

同僚からは「無責任」と言われる言葉。

「でも、人としては、そうしたいと思っています」

佐藤は、しばらく桐島を見つめていた。

やがて、小さく息を吐く。

「……先生、不思議ですね」

「何がですか」

「失礼ですけど……頼りなさそうなのに、怖くない」

桐島は否定しなかった。

「それは、よく言われます」

佐藤は、初めて少しだけ笑った。

その瞬間、桐島の胸の奥で、かすかな警報が鳴った。

——この笑顔は、危うい。

患者が医師に向ける笑顔には、種類がある。

回復の兆しとしての笑顔。

礼儀としての笑顔。

そして、依存の入口としての笑顔。

桐島は、それを知っていた。

知っていながら、視線を逸らさなかった。

「佐藤さん」

「はい」

「もし、ここに来るのが苦しくなったら、無理に来なくていいですよ」

それは、治療としては誤りに近い言葉だった。

「……来なくても、いいんですか」

「ええ。でも、来たいと思ったら、来てください」

佐藤の目に、涙が浮かんだ。

「……先生って、変です」

「そうですね」

桐島は、その言葉を否定しなかった。

診察が終わり、佐藤が出ていく。

扉が閉まったあと、桐島は椅子に深く座り直した。

——まただ。

医師として正しい道から、確実に一歩、外れている感覚。

それでも彼は、カルテの「診断名」の欄を空白のままにし、

代わりに小さく書いた。

今日は、自分の存在が分からない一週間だったと言う。

名前を呼ぶと、泣いた。

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駄目な精神科医 真田直樹 @yukimura1966

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