「💞聖園凛華の極端な日常」友人に恋人を寝取られ、純潔の盾を壊したあの日、私は悪女として再生する。

⚓フランク ✥ ロイド⚓

第1話 聖園凛華

 神奈川県、横浜の石川町駅近く。潮の香りを孕んだ海風が、容赦なく秋の午後を吹き抜けていく。ホームに立つ聖園凛華みそのりんかの頬を撫でるその風は、どこか刺すような冷たさを帯びていた。彼女は制服のスカートが乱れるのを嫌うように手で押さえ、いつもの場所で電車を待っていた。


 彼女はプロテスタント系の女子高に通う高校三年生。漆黒の髪を高い位置でポニーテールに結い、周囲を拒絶するような鋭い眼差しを湛えている。その姿は、近づく者すべてを切り裂く氷の刃のようであり、暗黙のうちに「近寄るな」という警告を発していた。凛華はこの「武装」を、自らの意志で選んでいた。


 長い髪を隙なく結び上げる。それは単なる身だしなみではない。素朴で、古風で、そして何より「隙がない」という印象を植え付けるための儀式だ。そうすることで、不要な人間関係や、泥のように濁った他人の感情が流れ込んでくるのを防げるから。


(これでいい。誰も私に触れなくていい)そう自分に言い聞かせながらも、ふとした瞬間に、風に煽られる髪の根元がちりりと痛む。その微かな痛みは、心の奥底に沈めたはずの「寂しさ」という名の澱をかき乱した。このポニーテールは、幼い頃から変わらない。変われない自分を、そして変わることを許さない自分を縛り付ける鎖でもあった。


 凛華の通う学校は、厳格な校風で知られる中高一貫の女子校。彼女自身、筋金入りの「貞操観念」を持つ少女だ。恋愛?興味ない。身体の関係?論外。生理的な嫌悪感に近いその価値観を、彼女は「凛華マインド」と密かに呼んでいた。このマインドは、家族からの厳格な教育、そして「汚れてはならない」という強迫観念から作り上げられた強固な盾だ。


 しかし、盾が重ければ重いほど、それを支える腕は疲弊していく。クラスメイトたちが教室の隅で、頬を赤らめて囁き合う「恋バナ」。その甘ったるい毒のような響きを耳にするたび、凛華の胸は激しくざわついた。(私は彼女たちとは違う。安っぽく自分を切り売りしたりしない。私は、特別なんだ)そう何度も心の中で唱えなければ、立っていられないほどの不安が、盾の裏側には隠されていた。


 そんな凛華の、完璧に管理された日常に、泥足で踏み込んできたのが高橋悠真たかはしゆうまだった。一駅離れたカトリック系の男子校に通う三年生。背が高く、春の陽だまりのような笑みを浮かべる彼は、友人の紹介という、凛華にとっては「最もくだらない理由」で彼女の前に現れた。


(なぜ私が、こんな雑音に付き合わされなければならないの?)最初、凛華は苛立ちしか感じなかった。自分の聖域が、見知らぬ男子の存在によって汚されるような感覚。


「ねえ、聖園さんって、ツンデレだよね?なんか、冷たくしてるけど本当は優しいんでしょ?」


 初対面で、悠真は事もあろうにそんな言葉を投げつけた。凛華は心底、不快そうに眉をひそめた。(ツンデレ?そんな安っぽい記号で私を括らないで)自分の矜持も、孤独も、守り続けてきたルールも、すべてを「照れ」の一言で片付けられたような気がして、腹の底が熱くなった。


「は?ツンデレ?何それ。気持ち悪いこと言わないでくれる?」


 放たれた言葉は、もはや言葉という形の氷塊だった。だが、悠真はあろうことか、その氷を笑って受け流した。


「え、でもさ、なんかそんな雰囲気あるじゃん!照れてるんだよね?」


 凛華は内心で激しく舌打ちした。この男は救いようのない馬鹿か、あるいは恐ろしいほどに無神経なのか。それでも、なぜか悠真は凛華に絡み続け、あろうことか二人は「付き合う」ことになっていた。後になって、凛華はあの時の自分を激しく呪うことになる。あれは、悠真の明るさに当てられた一瞬の眩暈だった。あるいは、一人で盾を持ち続けることに疲れ果てた彼女の、無意識の「救済」への渇望だったのかもしれない。それを認めるのは、死ぬよりも屈辱的なことだったが。


 付き合い始めて数週間。二人の関係は、今にも崩れそうな砂の城のようだった。悠真は「彼氏」として、当然のように距離を詰めようとする。手を繋ごうとする指先。歩道でふいに寄せられる肩。だが、そのたびに凛華の全身の細胞が、非常警報を鳴らした。(触らないで。私に、その不潔な温度を押し付けないで)内側から湧き上がるのは、愛おしさではなく、生理的な恐怖と拒絶だった。


「やめてよ、気持ち悪い」「え、でも、付き合ってるんだからさ、普通こういうのするんだよね?」「普通?あなたの普通なんて知らないよ。私には私のルールがあるの」


 凛華の拒絶は、鋭利な刃となって悠真を切り裂いた。最初は「照れ隠し」だと思い込もうとしていた悠真の瞳からも、次第に光が消えていく。ある日、横浜赤レンガ倉庫。海が見えるその場所で、悠真がすがるように凛華の手を握ろうとした瞬間、彼女は弾かれたようにその手を振り払った。


「何度言えばわかるの?そういうの嫌いだって言ってるよね?」「ご、ごめん……でも、聖園さん、僕のこと嫌いじゃないよね?付き合ってるんだから……」


 必死に繋ぎ止めようとする彼の声に、凛華は深い溜息をつき、感情の抜け落ちた声で言い放った。


「嫌いじゃないよ。でも、だからって何でも許すわけじゃない」


 その夜、悠真は自室で絶望の淵にいた。(聖園さん、本当に僕のこと好きなのかな……?)彼が望んだのは、温かな体温の通い合う交流であり、凛華が守り抜こうとするのは、冷たく清らかな静寂だった。二人のレールは、最初から交わっていなかったのだ。


 そんなある日、悠真は凛華の親友、佐藤美咲さとうみさきと偶然出会う。凛華とは真逆の、太陽のように屈託のない笑顔を持つ少女。彼女の揺れるツインテールは、凛華の縛り上げたポニーテールとは対照的に、自由で、奔放だった。


「悠真くん、大丈夫?なんか元気ないね」


 カフェの窓際。美咲の優しい声が、枯れ果てた悠真の心に染み込んでいく。


「聖園さん、僕のことどう思ってるんだろう……。いつも冷たくて、僕、なんか疲れてきたかも」


 美咲は少しだけ寂しげな表情を見せ、諭すように言った。


「凛華ってさ、本当に頑固なの。自分の価値観が世界のすべてだと思ってる。だから、悠真くんが求めているような『普通の女の子』にはなれないんだよ。……でも、悪い子じゃないの。ただ、臆病なだけなんだと思う」


 美咲の言葉は、悠真にとって初めて受け取った「正解」のように感じられた。彼女との会話は、泥沼の中を歩くような凛華とのデートとは違い、呼吸をすることさえ忘れるほど軽やかだった。


 それから、二人の距離が縮まるのに時間はかからなかった。凛華という共通言語から始まった会話は、いつしか二人だけの秘密の音楽や趣味へと移ろっていく。悠真は、美咲の隣で初めて「愛される喜び」を知った。


 秋が深まり、木々が血のような赤に染まった頃。悠真は凛華を駅前のカフェに呼び出した。現れた凛華は、いつにも増して険しい表情をしていた。彼女の直感が、終わりの足音を捉えていたからだ。


「聖園さん、話があるんだ」


 悠真の声には、かつての迷いはなかった。


「ゴメン、凛華。僕、君を誤解してた。君がツンデレだとか、勝手に自分の理想を押し付けてた。でも、君は全然そんなんじゃない。……僕たちの間に、愛なんて、最初からなかったんだ」


 凛華の胸を、巨大な楔が貫いた。視界が白く明滅する。それでも、彼女の仮面は剥がれない。剥がすわけにはいかなかった。


「……それで?」


「友達として、これからも付き合ってほしい。君のことを、これ以上嫌いになりたくないんだ」


 嫌いになりたくない。それは、今はもう愛していないという宣告に他ならなかった。凛華は唇を血が滲むほど噛み締め、震える声を押し殺した。


「わかった。友達でいいよ。別に、期待してなかったし」


 その言葉は、彼女のプライドという名の墓標だった。悠真が去った後、凛華の心は音を立てて軋んだ。(これでいい。これが私の望んだ、誰にも汚されないハッピーエンド。なのに、どうして……こんなに、息ができないの?)


 数週間後、悠真と美咲が付き合い始めたという噂が教室を駆け巡った。凛華は教科書を捲る手を止めず、無関心を装った。だが、耳を劈くように響く美咲ののろけ話が、彼女の脳を直接かきむしる。


「凛華、聞いてよ!悠真くんとこの前、鎌倉行ってきたんだ!すっごく楽しかったよ!」


 美咲の笑顔は、毒々しいほどに輝いていた。


(残忍な女。こいつ、私の前でわざとやっているの?この私を、憐れんでいるの?)内側から黒い感情が溢れ出す。それは、彼女が「凛華マインド」で封じ込めていた、醜く、そして人間臭い嫉妬だった。


「へえ、よかったね」


 声は驚くほど平坦だった。だが、彼女の視界の中では、悠真のあの優しい笑顔が、今は自分ではなく美咲の「ツインテール」に向けられている光景が、呪いのように繰り返されていた。


 その夜、凛華は自室の暗闇の中で、天井を見つめていた。「私には、あんな風に笑う資格なんてない。悠真に与えられるものなんて、何もなかった。……当然の結末よ」


 そう呟いた瞬間、熱い雫が耳元へと流れた。(涙?違う、これはただの生理現象。部屋が乾燥しているだけ)自分を騙そうとすればするほど、胸の痛みは増していく。その痛みこそが、彼女が否定し続けた「心」の叫びだった。


 冬の気配が忍び寄る夕暮れ。駅のホームで、凛華は見てしまった。向かいのホーム、人混みの中で寄り添い、笑い合う悠真と美咲。二人の間には、凛華が決して許さなかった「体温の交流」があった。


 凛華は逃げるように目を逸らし、イヤホンを耳の奥深くへと押し込んだ。爆音で流れる音楽が、外界のすべてを遮断していく。(これが私のハッピーエンド。私は私を守り抜いた。……それなのに)


 自分の「凛華マインド」が、すべてを壊したのだ。けれど、それを捨ててしまえば、自分は自分でなくなってしまう。聖園凛華という少女は、その矛盾の檻の中で、一人もがいていた。


 電車の轟音が迫る中、彼女の唇が微かに動いた。


「……いつか、私も、あんな風に笑える日が来るのかな」


 その呟きは、鉄錆の匂いと強冷な風にかき消され、誰の元にも届くことはなかった。ただ、彼女の手首に刻まれたポニーテールの結び目だけが、静かに彼女を縛り続けていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る