夜の街と黒猫と電柱
鴎
***
会社の帰り道だった。
俺は少し寄り道をして隣町のビル街に足を運んでいた。
コインパーキングに車を停めて、路地を歩いている。
夜の街はまだまだ賑やかだが、一本入った裏路地はそうでもない。
まばらな人通り、静かな暗さ。明かりは街灯ばかりで、たまに家の電気が灯っている。
冬の冷気が俺の肌を刺すが、それでも俺はこの夜の通りに感じ入っていた。
この寂しい静かな景色が俺の癒しだった。
やはり、夜のこの通りは良い。たまに気分転換をしたい日、俺はこうしてこの通りを歩いている。
「やぁ、成人男性が一人でこんな寂しい通りを歩いている。きっと独身だな」
と、俺に声がかけられた。
誰だ初対面の人間にこんなひどいことを言うのはと見れば、そこに居たのは一匹の黒猫だった。
夜の闇に紛れるように、電柱の下に佇んでいる。
「なんだ、本当にしゃべったのか?」
さすがに空耳かと思ったがどこをどう見ても今付近にはネコしか居なかった。
周りは明かりの消えたビルばっかりで人の声が聞こえるはずもない。
「ああ、しゃべったとも。ネコがしゃべるのがそんなに不思議かな」
やはり、この言葉はどう見てもこのネコから発されていた。
「こ、怖い」
俺は膝がガタガタ震えるのを感じた。完全に超常現象だからだ。
黒猫がそもそも不吉の象徴だ。そんな黒猫が目の前でしゃべっている。俺は命の危険を感じた。今日が命日なのかもしれない。
「なんて小心者の人間なんだ。仕方ないな」
そう言うと黒猫の姿がぐにゃりと歪んだ。
そして、次の瞬間には真っ黒な服装の少女に変わっていた。
「そんな馬鹿な。一体全体何が起きてるんだ」
やはり、超常現象だった。
「少しは怖くなくなったかな」
「こ、怖い、死ぬんだ」
「呆れた小心者だな」
ネコだろうが少女だろうが超常現象の塊だ。命の危機を感じるのは十分すぎる。
しかし、恐怖で足が動かなかった。もはや俺の命はこの元ネコの少女の手の平の上である。もしくは肉球の上だろうか。
「お、俺を殺そうってのか」
「なんでそうなる。暇だったから話しかけただけだ」
「よ、妖怪だろ。人の肉が大好物なんだろ」
「猫缶が一番の好物だ。その次はマグロの赤身」
膝は相変わらず踊り狂っている。
どうしても恐怖が消えない。今ここは非日常だった。俺は異常事態の最中に居る。それだけで泣きそうだった。
「う、ううう...」
というか泣いていた。
「信じられない。こんな美少女を前にして泣き出すとか、恥とかないのか」
「こ、怖い。母さん父さん...うううう...」
「呆れたぞ。もう、どうすればまともにお前とコミュニケーションを取れるのか分からん。相当面倒なやつに話しかけてしまったか。後悔してきた」
元ネコの美少女は勝手に後悔していた。
だが、知らん。怖いものは怖い。俺が安心して接することが出来るのは常識の範囲内のものだ。こんな理外の存在と円滑なコミュニケーションを行える器は俺にはない。
「私はただお前と話がしたいだけだ。どうすればお前は私に恐怖をなくす」
「あ、じゃあちょっとあの電柱の上に立ってもらえます?」
「びっくりした。急に流暢にしゃべるな」
「いや、でもあなたがあの電柱の上に立ったらすごく絵になると思うんですよ。やって欲しいな」
その姿をイメージしたら急に恐怖が和らいできた。
夜の都会、人気のない街、静かな裏路地、電柱の上に立つ少女。
うん、素晴らしい。まるで物語のワンシーンだ。ぜひ再現してもらいたい。
「なんなんだお前は。絶対まともな大人じゃないだろ」
「いや、これでも会社員ですね。世界の懐って恐ろしい広さですよ。こんな変人でもやはり普通の範疇からは出られないんですから」
「知らんわお前の価値観なんか。とにかく、お前はこの電柱の上に私が立てば満足なんだな」
「ええ、大満足です」
「なんだこの変態は」
変態と言われようがなんと言われようがそれが俺の好きなことなのだから仕方ない。インターネット風に言うなら性癖なのだ。
俺は夜の街で電柱だの標識だの高層ビルの屋上だのに人間が立っているのが大好きだ。マンガの中のワンシーンのようだ。俺は現代を舞台にしたファンタジーが大好きなのだ。
旅行とかしても景色を見るとあそこに人が立ってたら絵になるなとか考えて、お気に入りのビルだの標識だのの写真を撮るくらいだ。
夢がある。素晴らしい。
間違いなく日常の景色なはずなのに、絶対に人が立つことがないところに人が立っているだけで非日常に様変わりする。その感覚の崩壊、それこそが素晴らしいのだ。
「じゃあ分かった。今から電柱の上に立つから」
「お願いします」
「なんなんだこの人間は」
ブツブツ言いながら少女はポーンと跳ねた。
本当にひとつ飛び。一気に空中に飛び上がり、すぐに電柱の上に降り立った。
「どうだ」
少女は聞いてくる。
「素晴らしい。まさか、こんな日が来るとは。この景色を現実で見る日が来るとは」
「なにを早口でブツブツ言ってるんだ。気持ち悪いぞお前」
「気持ち悪いのも仕方ないです。最高なんですから」
「なんて救いのない人間なんだ」
ネコの少女ははっきりと嫌悪を示していたが、俺は現実では絶対に見ることはないと思っていた景色が眼前に起きているのを理解して感動に震えていた。
また、膝が震えている。しかし、今度は恐怖ではなく感動からだ。
なんて素晴らしいのか。
夜の街の電柱の上に少女が立っている。完全に非日常だ。しかし、この非日常には恐怖は感じない。
静かで暗い夜の街、その電柱の上に確かに人が立っている。その人物が俺を見下ろしている。なんて素晴らしい光景なのか。まるで物語の中に入ったかのようだ。
超常存在最高だ。
こんな日がやってくるとは。
「あ、あああああ」
しかし、俺はあることに気づいた。
「なんだ、どうした」
「でも、俺のお願いを聞いてもらったってことは、俺は魂を奪われるんですよね」
「なんでだ。そんなことはしない。なんの意味もない」
「今日が俺の命日なのは変わらないんだ」
俺の心にまた恐怖が湧いた。
それはそうだ。こんな人外にお願いを聞いてもらう。それすなわち契約だ、契約には対価がつきものだ。
すなわち俺の命だろう。
終わりだった。
「なんだこいつ。もうめんどくさい。そこでずっと震えてろ」
しかし、少女はそう言うとまたぽーんとひとっ飛びした。そのまま雑居ビルの屋上に立ち、さらに飛んで今度は見えなくなった。
「え? 助かった?」
そして、ネコの少女はもう戻ってこなかった。
どうやら去ったらしかった。
俺は助かったらしい。
なんだったのかこの時間は。
だが、一命をとりとめた。俺は生き残ったのだ。
「良かったぁ」
俺の体が緊張から解放されるのを感じた。
そして、記憶に残ったのはただひとつ。
「やっぱり電柱の上に人が立ってるのは最高だな」
あのネコの少女が夜の電柱の上に立っている光景だった。
俺はその感動を胸に家路につくのだった。
しかし、やはり怖かったのでそれからしばらく俺がこの路地を訪れることはなかった。
夜の街と黒猫と電柱 鴎 @kamome008
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