夢の中

水科若葉

夢の中

 路傍に咲く花から目を逸らし、あなたは這うように帰路を歩く。その表情は誰が見ても体調不良と分かるほどに青く歪んでおり、足元もどこかおぼつかない。道行く周囲の人々はあなたに不審な視線を送り、けれどあなたを心配し、声を掛けようとするような人間はいなかった。あなたはそんな周囲の関心と無関心に気付かない振りをして、ただ下を向き、足を交互に繰り出すことだけに集中し続けた。


 階段を上り、やがて自宅に到着したあなたは、鞄から取り出した鍵を差し込み、震える手で回転させた。ドアノブを引き、途端に響き渡った子供の悲鳴にも似た扉の軋む音にあなたは萎縮し、本能的に小さく謝罪の言葉を漏らす。ずきん、と脳を焼く頭痛から逃げるために、あなたは自らの安全基地へなだれ込む。扉を閉めてサムターンを回し、乱暴にチェーン錠を引っ掛けたあなたは、そのままずるずると玄関に崩れ落ち、深く息を吐いた。

 このまま舌を噛み切ってしまいたい。そんな欲望の代わりに、あなたは胸ポケットから小瓶を取り出し、縋るように両手でその存在を確かめた。小瓶がそこに存在すること、中身が間違いなく詰められていることを十分に確認したあなたは、もう一度深く息を吐き、その場所があなたの精神を脅かす外敵の存在しない、あなただけの場所であることを再認識する。例えその内装が、生きた内臓を全面に塗り付けたかの如く、紅く蠢いて見えたとしても。

それでも、花咲く外の世界と比べればずっとマシだ。あなたはそう考え、ゆっくりと立ち上がった。

「ただいま、お姉ちゃん」

 掠れたあなたの声が、空虚な暗闇にこだました。


『人は誰しも、心に一挺の拳銃を隠し持っている』

 それは、あなたがこれまでの短い半生で得た、数少ない持論だった。

 隠し持つそれが拳銃の形をしている必要は無い。心の苦痛が限界に達したとき、現実から逃避するための手段を誰もが固有しており、その手段を支えに苦痛を耐え抜いているのだと、あなたは心の底から信じている。そして、あなたにとっての『拳銃』こそが、常に胸ポケットへ仕舞われたその小瓶だった。

 小瓶の中には、濃縮したチョウセンアサガオの蜜が詰められている。別名、気違い茄子とも呼ばれるそれは、麻薬にも用いられるような猛毒だ。

 他者ではなく、自らの脳天を打ち抜くための弾丸。この国で唯一、罪に問われない殺人を遂行するためのトリガーを手に掛け続けることで、あなたは辛うじて生き永らえていた。

 或いは、それが本当に死をもたらすことが出来るのかどうかさえ、あなたにとってはどうでも良いことなのかもしれない。ただ救いを信仰し、依存することの出来る対象であれば何でも良かったのだろう。あなたにとって生きることとは、単に家族へこれ以上の迷惑を掛けないための手段でしか無いのだから。


 音を欲して、あなたはテレビの電源を付ける。平日の昼過ぎにあたる現時刻では気の利いた番組が放送されておらず、あなたは双頭のサメが映し出された画面にチャンネルを合わせ、外着のままソファへと倒れ込んだ。画面の中では安っぽい造形の双頭ザメが暴れ回り、非合理な行動と過剰なリアクションを繰り返す人々を次々と喰い尽くしていた。かつての名作を上映、という題目で放送されているらしいその映画は、しかしあなたから見て、あまり出来が良いものとは言えなかった。

 雑なCG演出とツギハギの脚本。監督と観客のグロテスクな欲望を満たすためだけに生み出された、あなた向きではないその映画を、それでもあなたはぼう、と眺め続けた。他者の労力を単なる娯楽として矮小化し、乱雑に消費する権利を人の尊厳と共に失ったあなたにとって、初めから消費が前提で制作されたその映画は、あなたに気楽さと安心感をもたらしてくれた。

 そうして弛緩したあなたの心に、締め出していたはずの幸せな記憶が流れ込む。地元の小さな映画館。大きな背中。アスファルトに咲く一輪の――

「……っ」

 気付けば、あなたの左手は自身の首を締め付けていた。自身を苦しめるそれを右手で振り払ったあなたは、息を切らしながら、再び小瓶を握り締める。そうして平静を取り戻したあなたの口元からは、ため息の代わりとして、自身への嘲笑が零れ落ちた。

 あなたはいつだって、あなたの醜さで死に沈む。


 映画が好きだった。

 或いは、映画を取り巻く文化そのものを愛していたのかもしれない、とあなたは考える。

 その日のあなたはいつものように、姉とすっかり行き慣れた映画館へと向かっていた。夏休みの半ば、灼熱の太陽が地面を焦がし、ゆらゆらとカゲロウを漂わせていたことを、あなたはよく覚えている。姉は夏の暑さに愚痴を零しつつ、時折タオルで自身とあなたの汗を拭いながらあなたを先導した。年の離れたその背中は、あなたにはどのように映っていたのだろうか。今となっては、もう分からないことだった。

 赤信号に差し掛かり、横断歩道の前で姉は足を止める。一歩遅れて姉の隣へ並び立ったあなたは、今日の映画が楽しみだという旨を姉へ伝え、姉はその言葉に破顔した。姉が『妹が自分同様に映画を好きになった』という事実に心を浮つかせていることを、直感的に感じ取っていたあなたにとって、その台詞は姉の笑顔を引き出すための言葉であると同時に、確かな本心でもあった。

 多くの映画を観た。姉が選ぶ作品にはジャンルの偏りが無く、その中には面白い映画もあれば、つまらない映画もあった。面白い映画を観た後の感想会はとても楽しく、つまらない映画を観た後は、それはそれで盛り上がる感想会となった。あなたは幼いながら、自身の感想を精一杯言葉として姉へ伝え、姉はどんな感想であっても、ころころと笑いながら受け入れた。

「どんな映画があっても良いんだよ。だってそれは、可能性があるってことだからね」

 姉は口癖のように何度もそう言い、その度に、あなたは首を傾げた。当時のあなたにとって、つまらない映画とは時間とお金を奪う存在であり、好ましいものでは無かったのだろう。怪訝な表情を浮かべるあなたの頭を、姉は愉快そうにかき回した。


 信号が青に変わり、姉は左右確認も疎かに、早足で歩き出す。規律と良識を重んじる姉としては迂闊な行為であり、普段は車両が通らない場所であること、何より信号待ちの中であなたとの会話に熱が入ってしまっていたことが、姉の注意を散漫にしてしまっていた。それらの事情は姉の半歩後ろを歩いていたあなたも同様であり、姉の死角から迫るトラックの存在を認知した際には既に、激突の直前だった。錯乱したあなたは、姉を助けるために両手を伸ばし、そして――

 その瞬間のことを、あなたは覚えていない。気が付けば姉の居たはずの場所には何も無く、代わりに少し離れた場所に、ぶよぶよとした肉塊が転がっていた。あなたの両手には姉を押した感触だけが残されており、あなたが状況を理解出来ず呆然としているうちに、その肉塊は次のトラックによって押し流された。

 どうということも無い。大型車両の運転手は轢き逃げをしてしまう人間とそうでない人間に大別され、あなたの姉は連続で外れくじを引いてしまった。ただ、それだけの話だ。

 アスファルトには、深紅の花が咲いていた。あなたはその花を何としてでも消し去らなければならないという衝動に操られ、掃除用具のために自宅へと駆け戻った。自らの罪を隠したい一心からあなたは自宅から持ち出した洗剤を花へとぶちまけ、スポンジではアスファルトに負けてしまうからと、たわしで何度も擦り続けた。恐怖と焦燥感によってぼろぼろと涙を零しながらも続けた、その無意味な行為を終わらせたのは、あなたの存在に慌てて車を停め、あなたへと駆け寄った見知らぬ男性だった。あなたの意識はそこで途切れ、次に気が付いた際には、あなたは病院のベッドで寝かされていた。


「怖かったね。もう大丈夫だよ」

 母は泣きながらあなたを抱きしめた。

「お前だけでも無事でよかった」

 父は絞り出すような声でそう言った。

「調査の結果、きみは無実だ」

 警察官は優しく、諭すように語った。

 それでも、あなたの両手は罪の感触を覚えていた。

 事件以来、あなたは赤い花の幻覚を見るようになった。その花は少しずつあなたの世界を埋め尽くしていき、あなたは自らの人生が主観から客観へと変質していく感覚を覚えた。

 あなたの後ろに、『あなた』がいる。

 それはあなたにとっての理想であり、願望であり、残骸だった。『あなた』はあなたの人生をスクリーン越しに眺め、あなたが人生を送る様子へ冷たい視線を送り続けている。あなたは何か少し良いことがある度に『あなた』の視線を覚え、自らの人生と、そこに付随したあらゆる感情が無価値であることを思い知る。

あなたは、それこそが自身の罪に課せられた罰であると捉え、以来、幻覚を自らの内に押し込め、健康の仮面を被り続けた。

 かつてあらゆる映画の存在を肯定した姉は、果たして、あなたという駄作も肯定してくれるのだろうか。

 あなたは、そんなことを考えた。


 映画が終わり、それから数時間をぼんやりと過ごしたあなたは、テレビの電源を落とし、亡霊のようにふらふらと立ち上がった。

 ぐにゃぐにゃと蠢いて見える床を踏みつけ、あなたは冷蔵庫から栄養剤を取り出し、サプリと共にそれらを喉へ流し込む。吐き気を抑え込みながら、あなたは掃除や洗濯、入浴といった、仮面の手入れに必要な生活行為を淡々とこなし続けた。

必要なタスクを終え、寝巻きに着替えたあなたは、小瓶を抱いて布団へと倒れ込む。途端に流れ込む真っ黒な思想の本流を耐え忍ぶために、あなたは小瓶を必死に両手で握った。

 弾丸としてチョウセンアサガオを選んだことに、あなたは特別な理由を持たない。毒を持つ花でさえあれば他に拘りは無い中で、とある映画から印象に残っていたものをかき集めたに過ぎず、だからこそ、その花言葉を知ったとき、あなたはそれを運命だと感じた。

 曰く、亡霊とは死者では無く、生者の未練によって現世に縛り付けられた存在であり、生者がその未練を断ち切らない限り、亡霊は苦しみ続けるのだという。けれど、もしもこの世界が悪夢で出来ているのならば、あなたはその未練を断ち切るべきでは無いと考える。例え恨まれようとも、あなたは姉の存在を現世に縛り付けようとしている。

いつか姉の亡霊が自分を殺し、人生を成り代わる。そんな幻想を、あなたは生きる糧としていた。

 責任と拳銃と希望。多くの理由をこじつけながら生きているあなたにとって、他者が生きる理由は常日頃からの疑問であり、脳を埋め尽くす穢れた思想の中でただ一つ純粋なものだった。

 あなたはいつだって、大袈裟な理由を必要としている。自身が何かを行うためには、その正当性と言い訳が無くてはならないと考えるあなたは、ただ『楽しいから』と、それだけの理由で十分だったはずの映画鑑賞という趣味を失い、結果として自縄自縛の灰色を過ごし続けてきた。

「お姉ちゃんは、何を支えに生きていたんだろう」

 ふと、あなたの疑問が口を突き、私は端的に「特に無いよ。さっさと寝れば、それで忘れるし」と回答する。あなたはその言葉に対し唖然として目を見開き、それから諦めたような笑顔を浮かべた。

「なあんだ。苦しいのは、私だけだったんだ」

 狂人の振りが不得意なあなたにとって、それは信じてはならないことであり、同時に、何年も前から、心の奥底では気付いていた事実でもあった。

 最後にもう一度嘲笑を残し、あなたはゆっくりと眠りに落ちる。小瓶の花束を献花に、この悪夢が、決して覚めないことを祈りながら。

 幻影は、いつまでも消えることは無かった。

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