沢田和早


 部屋が寒い。日曜日の午後2時という日中で最も気温が高い時刻だというのに寒い。暖房器具がコタツしかないからだ。ペンを握る右手がかじかむ。はあはあ息を吹きかけて筆記を続ける。


「相変わらず下手な字だな。日ペンの〇子ちゃんに弟子入りしたらどうだ」


 まるで自分は令和三筆のひとりだと言わんばかりの尊大な態度でコタツに足を突っ込んできたのは僕の先輩だ。


 先輩は小学校で一学年上、中学校で一学年上、高校で一学年上、そして現在、大学では一学年上ではなく同級生である。先輩は一年浪人してしまったからだ。

 同級生を先輩と呼ぶのもおかしな話だが、小学校の頃からそう呼んでいるので、今更別の呼び方を考えるのも面倒くさい。先輩も「よせよ、同級生だろ」などと反論したりもしないので、そのまま呼んでいる。


「寒すぎて指に力が入らないからですよ。ストーブ買ってください先輩」

「己の未熟さを寒さのせいにするんじゃない。それにストーブなどぜいたくだ。おまえには俺が作った手袋がある。有難く頂戴するのだぞ」


 と言って先輩が差し出したのは100均で売ってそうなペラペラのポリ手袋だ。


「これ、本当に効果あるんでしょうね」

「それを確かめるために字を書かせているんだろう。ほれ、もっと下手な字を書け」


 かじかんだ手で拙い文字を書く。あーあ、面倒なことになっちゃったなあ。思い起こせば1週間前の日曜日。いつものように先輩のアパートで昼食を済ませた後、課題のレポートに取り掛かった。

 わざわざ先輩のアパートで始めたのは、ひょっとしたら手伝ってくれるのではないかという甘い期待があったからだ。先輩は頭がいい。それなりに面倒見もいい。隣でレポート作成に四苦八苦する後輩がいるのに知らんふりなんかできないはずだ。

 持参したテキストと講義ノートをめくり、時折先輩をチラチラと横目で眺めながら文章をまとめること十数分、ようやく先輩の声が聞こえてきた。


「おまえ、字が下手だな」


 期待とはまったく違う言葉に、落胆を通り越して怒りを覚えそうになった。


「これは下書きですよ。完成したらスマホ入力して印刷して提出するから、字の上手い下手なんて関係ないんです」

「だが試験は手書きだろう。その多くは論述式だ。人間とは悲しいものでな、字が上手ければそれだけで点数をプラスしたくなる。おまえの成績がパッとしない要因のひとつは、その悪筆にあると言ってもいいだろう」

「でも字が下手なのは昔からだし、今更そんなことを言われても……」

「字だけじゃないぞ。おまえの手は実に不器用だ。キャベツを切らせれば千切りではなく短冊切りになるし、ゆで卵の殻をむかせればボロボロになるし、トランプタワーを作らせれば2段でギブアップだ。そのお粗末な手によってそのうち俺にも迷惑が降りかかってくるんじゃないかと心配になってしまう」

「だったら先輩がなんとかしてくださいよ」

「なんとか、か。ふ~む」


 先輩が僕の右手をつかんだ。指を一本ずつ精査している。手のひらの線をなぞっている。手相でも見ているのかな。


「引き受けた。なんとかしてやろう。料金は1000円だ。次の日曜日までに仕上げておく」


 またろくでもない物を作りそうな予感はするが、こちらから「なんとかしてくれ」と頼んだ形になっているので断りにくい。渋々1000円を払って先輩に任せ、1週間後の今日、先輩が発明した「全てにおいて20倍上手になる手袋」の効果を検証しにきたのである。


「よし。下手な字を書くのはそれくらいでいい。手袋を装着しろ」

「これ、右手用しかないんですか。左手は?」

「おまえは右利きなんだから片方だけでいいだろう。早くつけろ」


 それもそうだなと思って右手に手袋をはめる。特に何も感じない。


「じゃあ字を書いてみろ。以前より20倍上手に書けるはずだ」

「はい……あれ?」


 おかしい。手袋をはめた途端、右手がコタツから浮き上がった。紙に近づけようとしても見えない壁が存在しているかのようにまったく動かない。


「おい、どうして右手を上げているんだ。それでは字が書けないだろう」

「下ろしたくても下りないんですよ。どうなってるんですか」

「下りない? じゃあ体を斜めにして下ろせ」


 右手を上げたまま体を左に傾かせる。下りてきた右手のペンが紙に当たった。しかし左手は傾いた体を支えて床につけているのでペンを動かしたら紙も動いてしまう。


「先輩、紙を押さえてください」

「しょうがないな。早く書け」


 不安定な状態で字を書く。下手な字だ。手袋をはめる前に試し書きした字と少しも変わらない。いや、むしろ見苦しい字になっている気さえする。


「先輩、これが20倍上手な字なんですか」

「おっかしいなあ……たぶん姿勢が悪いせいだ。ちゃんと座ってみろ」


 傾いた体を立て直し左手で紙を押さえる。しかし右手はまた浮き上がってしまった。どんなに力を込めても右手は下りようとしない。左手を床につけて体を傾かせれば右手は下りてくる。しかし体を元に戻して左手で紙を押さえると右手は浮き上がってしまう。まるで右手は左手を嫌っているかのようだ。


「もういい。次はキャベツだ」


 少しイライラした口調で先輩は台所へ立った。僕も向かうとすでにまな板と包丁とキャベツが用意されていた。


「千切りを作ってみろ」

「はい」


 手袋をはめた右手に包丁を持ち、左手でキャベツを押さえて切ろうとした。だめだ。右手は宙に浮いたまま下りてこない。


「右手が動きません。上には動いても下には動かないんです」

「どういうことだ。うーむ、うーむ……」


 先輩はぶつぶつつぶやきながら思案を巡らせ始めた。やがてキャベツを押さえている僕の左手をいきなりつかむと、下に引っ張って体の横に密着させた。途端に右手が自由になり包丁をキャベツに当てることができた。


「動きました、先輩」

「うむ。キャベツは俺が押さえているから切ってみろ」


 右手だけを使って千切りに挑む。全然上手に切れない。これなら普通に切った方がマシだ。


「とても20倍上手とは言えませんね」

「片手で切っているのだから当たり前だ。それにこの手袋、どうやら俺の設計が少しおかしかったようだな。うーむ……」


 またぶつぶつ言い始めた。千切りチャレンジはそこで終了し、最後にトランプタワーに挑んでみた。だがこれまでと同じく左手でトランプを押さえると右手が浮き上がるので、2枚のカードで山を作ることすらできない。僕は冷ややかに言い放った。


「この手袋、完全に失敗ですね。1000円返してください」

「いや、ちょっと待て。手袋をはめたまま右手と左手を合わせてみろ」


 何を今更と思いながら両手を合わせようとした。が、できなかった。右手が浮かび上がるのだ。両手の位置を前後左右上下どこに動かしても右手は必ず左手の上に行ってしまう。そして一定の距離以上は近づかない。


「やはりそうか」


 先輩は定規を持ち出して右手と左手の距離を測定した。20センチだった。


「全ての謎が解けた。この手袋は20倍上手じょうずになるのではなく、20センチ上手うわて、つまり20センチ上になる効果があるのだ」

「はあ?」

「いいか、よく聞け。手袋をはめることによって右手は上手うわてとなったが、左手は下手したてのままだ。だから必ず右手が上になるのだ。その差は20センチ。それ以上広げることはできても縮めることはできない。それがこの手袋の能力なのだ。『全てにおいて20倍上手うわてになる手袋』という最初の説明通りなのだから返金の必要はない。これで俺の説明は終わりだ」


 説明という名の言い訳は聞きたくない。そして今回ばかりはどうしても納得できない。


「20倍って言いましたよね。でも効果は20センチじゃないですか」

「20センチは1センチの20倍だ」

上手じょうずって言いましたよね。上手うわてなんて言ってませんよね」

「そうだったかなあ。漢字が同じだから聞き間違えたんじゃないか。それとも何か証拠でもあるのかね」


 なんという開き直り。漢字が同じで読み間違えるならまだしも、聞き間違えるって何だよ。論理的に破綻してるだろ。あくまでシラを切るつもりか。こうなったら簡単には引き下がれない。


「そもそも本来の目的は僕の手の不器用さを改善することだったんですよね。その目的が果たされていないじゃないですか。返金は当然です」


 先輩が黙り込んだ。不機嫌な表情で目をそらしている。ここまで先輩を追い詰めたのは久しぶりだな。いつも威張ってばかりいるし、たまには吠え面をかかせてやるのも悪くないよね。


「あーあー、わかったよ。なら最後にひとつ実験をさせろ」


 先輩は奥の部屋へ消えた。ここの間取りは学生にしてはちょっとリッチな1LDK。奥の部屋は寝室兼書斎兼作業部屋として使っているらしい。もちろん一度も足を踏み入れたことはない。踏み入れたいとも思わない。室内がどんな状態になっているのか想像したくもない。


「これを左手に装着してみろ」


 しばらくして戻ってきた先輩はポリ手袋を僕に差し出した。右手に装着しているのと同じだ。


「あれ、左手用もあったんですか」

「ああ。何事も予備は大切だからな。この手袋をはめた手は上手うわてになる。が、もし両手とも上手うわてになり下手したてがなくなってしまったらどうなるか、興味があるだろう」


 確かにそうだな。両雄並び立たずと言うし、効果が消滅してしまうような気もするけど。


「わかりました。やってみましょう」


 と安易に引き受けた僕が愚かだった。左手に手袋をはめた瞬間、両手は万歳状態となり、さらに体が浮かび上がって天井めがけて上昇を始めたのだ。


「うわあー!」


 万歳したまま天井に張り付く僕。その光景をにんまりと眺める先輩。


「ほほう。さすがに人間ひとりを持ち上げたまま天井板を突き破るほどの力はなかったか」

「ど、どうしてこんなことが」

「そりゃそうなるだろう。右手も左手も自分が上手うわてだと主張しているんだからな。右手が上へ行けば左手がさらに上へ行き、そうなれば右手もさらに上へ行く。それを繰り返している状態なのだ」

「ど、どこまで繰り返すんですか」

「上下とは重力場にしか存在しない概念だ。よって無重力の空間に行けば上手うわて下手したてもなくなり、右手と左手の対立は解消されるだろう。取り敢えず宇宙空間に出て地球周回軌道に乗ってみろ」


 冗談じゃない。何を言っているんだ、この発明バカは。そうだ、手袋を外せば効果は消えるはずだ。


「うんしょ、うんしょ」


 だめだ。天井板を突き破る力はなくても右手も左手もぴったり天井に張り付いているので外せない。


「先輩、助けてください。手袋を外してください」

「よかろう。俺も困っている後輩を見捨てるほど冷酷ではないからな。ただし謝礼はいただく。1000円だ。手袋開発に使った1000円の返金を諦めるなら助けてやらんこともない」

「うぐぐ」


 はめられた。実験してみようなんて言いながら、こうなることがわかっていたんだ。またしても先輩に一杯食わされてしまった。口惜しいが承諾するしかない。


「わかりました。先輩の言う通りにします」


 こうして僕の「手袋で手が器用になる作戦」は大失敗に終わった。それでもきれいな字が書ければ人生得することも多いだろう。小学生用の硬筆練習ノートでも購入して美文字を目指してみるのもいいかなと思い始めている今日この頃である。













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