喫茶 潮騒

カイリ

第1話 喫茶 潮騒

 通常、喫茶店を営む者の朝は早い。まだ日も昇らぬ深夜とも呼べる早朝から珈琲豆を焙煎し、客らが求める朝食の準備を始める。とのことだが、この喫茶店の経営を始めてから約十年、太陽が昇る前から活動をしたことは一度もなかった。

 相馬 一(そうま はじめ)の朝は遅い。

 早起きが苦手と言うわけではないが、そもそも、早朝に開いたところで客足が見込めない。そんな場所で相馬 一は喫茶店を経営している。

 再開発から取り残されてしまったシャッター街の一角。そこは昼よりも夜のほうが人の気配が濃い。がらんとした通りにはゴミやら何やらが散乱していて、店を開ける前に掃除は必須だ。海が近いせいもあって、風に乗って爽やかな潮の香りと言うよりも、腐った魚のような匂いが辺り一帯に立ち込めている。

 思わず眉間に皺を寄せてしまうけれど、その匂いにももう慣れてしまった。

 昼過ぎになってようやく開店の準備を始める。狭い店内の掃除はあっという間に終わる。カウンターに五席、壁際に二人掛けのテーブルが二つあるだけだ。煙草を咥えながら手早くテーブルを拭き、卓上にあるカトラリー類を整え、最後にシャッターを開けようと店外に出たところで壁に落書きされているのが目に入った。子供が書きなぐったような汚い文字。相馬の眉がピクリと動いた。

「チッ……」

 舌打ちをしてから咥えていた煙草を携帯灰皿に捨てる。そのまま無視しても良かったが、落書きを放置するのはいくらここが表通りに面していないとは言え、外聞が良くない。

 しかもこれは社会に反抗したい子供が無作為に書いたものではない。むしろそちらのほうが対処のしようがあったというものだが、相馬は一度、店内に戻ってバケツとたわしを手に取り、再び外へと出た。

 むわりとした湿度の多い空気に辟易する。今は一日のうちでも最高気温を記録する時間帯だ。

 ばしゃばしゃとたわしにたくさんの水と洗剤を付けて壁をこする。何も知らない者からすればただの落書きだが、相馬の目には警告として映っている。


”かかわるな”


 バカバカしい。こんな寂れた喫茶店の店主相手に何をやっているのか。犯人がいたら小言でもぶつけてやりたい。毎日毎日、こんなくだらない警告を消す身にもなってほしいものだ。

 だがこんなことをされる原因にも覚えがあるため、相馬はただただひたすらにたわしでこする。数分も続けていれば、大体は落とせたので今度こそシャッターを開けて店を開いた。

 年代物のコンポのスイッチを入れると、少し遅れてジャズが流れてきた。日当たりの悪い店内は常に薄暗く、静かに響くジャズが僅かに雰囲気を明るくさせる。相馬はカウンターの内側に立ち、エスプレッソマシンの電源を入れた。低く唸るような作動音が、無人の店内ではやけに大きく聞こえた。

 カウンターに肘をつき、煙草に火を点ける。一般人が見れば態度の悪い店主だが、ここに一般人が足を運ぶことはそう多くない。煙草を吸っていようが、酒を飲んでいようが、ナイフを持っていようが、銃を構えていようが、きっとここへ来る客は自分に危害を加えられるまでは反応しない。そんな街だ。

 ジャズが静かに流れ続ける中、開店してから一時間が経ってもドアベルが鳴ることはない。カップもソーサーも整然と棚に並んでいる。相馬はそれを一瞥してから、視線を落とした。

 今日も、いつも通りだ。

 誰も来ない時間をやり過ごすことに焦りも落胆もない。ただ店を開けているという事実だけが、ここに自分が存在している証のように残っていた。

 あくびをしながら三本目の煙草に手を伸ばしたところで、ようやくガランと重たい鈴の音が鳴り響く。ちらりとそちらを見て、不愛想に「らっしゃい」と声を掛けようとしたところで、相馬は煙と一緒に大きく息を吐きだす。

「相変わらず寂れてんなあ、ここは」

 こちらが声を掛けるよりも先に相手が話しかけてきた。

「うるせぇ。文句があるなら出ていけ」

 そう言いながら相馬は仕方なく立ち上がり棚からソーサーとカップを取り出す。この店を開いてから、時折例外はあるけれど、大体はこの男に一番最初にコーヒーを提供している。苦みの少ないミディアムローストの豆を挽いた粉をドリッパーに入れる。準備を進めている間に、男は相馬の対面に座った。

「あのさあ、壁んところ、また落書きされてただろ?」

 男はジーンズの後ろポケットからごそごそと煙草を取り出してテーブルの上に置く。白いティシャツから覗く刺青の入った腕は彼が裏社会の人間であることを象徴している。一目見ただけで鍛えていると分かる筋肉質な体躯。表現のしようがないよく分からない青みがかった色に染めた短い髪の毛。男は煙草に火を付けながら相馬を見た。

「なんのことだ?」

 視線から逃れるように背を向けて沸いた湯をドリッパーに注ぐ。

「おい、はじめ」

 馴れ馴れしく名前を呼ばれて一瞬だけ手が止まる。この男に隠し事をしても意味がないのは重々承知している。なんせ彼、神谷直樹とは幼馴染、いや腐れ縁なのだ。

「俺が見て、分からないと思うか?」

 そして彼はこの一帯を占める暴力団、白波会の実質的なナンバーツーだ。

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喫茶 潮騒 カイリ @cairy_tststs

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