ヒトは見えざる手に導かれる
古 散太
ヒトは見えざる手に導かれる
一 プロローグ
「ヒトは見えざる手に導かれる」、と言ったら信じられるだろうか。
信じようが信じまいが、それはどちらでもいい。ただ、科学では説明のできなことを含みながら、この世や個人の人生が成り立っているということは、まぎれもない事実である。
「そんなことはない。この世の事象はすべて科学で説明できる」と考えているヒトもいるだろう。個人の自由なので否定はしないが、それはすこし科学を理解されていないと思う。
科学とは、つねに後追いである。何かしらの現象が起こって、それを解明するのが科学であり、まだこの世に存在しない原子や現象を生みだすことはできない。原子を生みだせなければ、どんな組成も生みだすことはできない。それはこの世に存在していない、まったく新しいものは生み出せない、ということになる。
せいぜいこれまでにあった素材の新しい組み合わせを考えて、新しいものを生みだすぐらいしか出来ないのである。
この世に何かモノやコトがあり、それを解明するのが科学である。そうなると、科学が手を出さないことは、解明されないまま放置されることになる。
例えば心霊現象だ。体験者は大勢いる。体験談もたくさんある。たくさんの中には勘違いや思い込みもあるだろう。ひどい場合には作り物の話もまぎれているだろう。だからといって、ひとつふたつ作り話があったからすべての体験が作り話とは言いきれない。
心霊現象を否定するヒトの多くは、「科学的にあり得ない」と言う。先ほども触れたように、科学はつねに後追いである。科学が手を付けていないのであれば、あり得るとかあり得ないではなく、まだ「わからない」という状態だ。わからないものを否定するというのは、現段階において、今以上の進歩は望めないということになってしまう。
心霊現象などであれば、それほどの問題にならないかもしれないが、それはひとつの「思考パターン」として、そのヒトの脳内に鎮座している。自分の理解できないこと、理解したくないことはすべてその思考パターンに当てはめられて、最後には否定する。
新興宗教などにどっぷりつかっているヒトが、身内の話さえ聞こうとしない、というのがいい例だろう。自分の信じているものが壊れる、それが恐怖なのだ。
否定をするのはそのヒトが「わたしは進化も進歩もしない」と宣言しているだけなので、放っておけばよい。ただ、そういうヒトほど仲間を作りたがり、声高に否定をする傾向が強い。おそらくひとりでは不安なのだろう。そういう声に引っ張られてしまうヒトが多いのもまた事実である。SNSなどでよく見る事例である。
しかし、そのヒトたちの否定の根拠は、科学的な思想だけである。受けてきた教育や育ってきた環境など、ほとんどのヒトが科学的思考で構築された社会という箱庭の中にあるものばかりで否定の根拠を作り上げている。そして、その箱庭の外に何があるのだろうという好奇心もなければ、疑念も持たない。つまり、自分が安心できる環境の中で、安心を抱きしめて生きていきたいのである。
たしかにその思いは、人間であれば誰しもが願うことだろう。平穏無事な日々、幸せな時間、誰もが望むことである。ほとんどのヒトが、そんな願いを抱え、それらを手に入れるべく、日常生活の中で模索し続けている。
ならば現状はどうだろう。探し続けて、平穏無事や幸せは見つけられただろうか。
自殺者は減らず、精神科医や心療内科に通うヒトが増加しているというニュースを観れば、この世が幸せになっているとは到底思えない。
そもそも、平穏無事や幸せは探して見つかるものではない。なぜなら、目に見える物質ではないからだ。現代において多くのヒトが、物質としての平穏無事や幸せを探しているのではないだろうか。
たしかにお金という物質は、ヒトの平穏無事を買うことができるかもしれない。幸せを買えるのかもしれない。しかし残念なことに、目に見えるお金で買えるモノは目に見える物質しかない。そして物質はいつかかならず滅ぶ。諸行無常である。
一時的な平穏や幸せは手に入れられる。しかし手に入れた瞬間から、失ってしまう恐怖に襲われるようになる。この時点で平穏も幸せも失っているという事実に気づかないヒトが多い。
目に見えるものではない平穏無事や幸せは、見える物質では手に入らない。
そのことに気づけば、科学的思考の一辺倒では無理だということがわかる。社会の箱庭の中で、どれだけ探しても見つかるわけがないと納得できるかもしれない。
これまでに積み上げてきた思考や理由、人生哲学などは、すべてが科学的思考を材料としている。残念ながらそれだけでは、目に見えないものは手に入らない。
二
生きている中でさまざまな体験を積み重ね、その結果として自分だけの思考や理由、人生哲学のようなものが出来ていく。ヒトはそれらを基準にして、これから出会っていくさまざまな事象を理解し、判断し、結論付けていく。
そのほとんどは常識的な考えかた、つまり科学的な思考から導かれる結論を元にして判断されている。それはそれで正しいことである。ただ、先にも触れたように、科学的な思考というものは、目に見えるもの=物質によってのみ構築されている。
人生には、目に見えないものが多分に含まれている。
わかりやすい例だと、心、愛、思考、情、縁など、人生に不可欠とされていながらも、その扱いがおざなりなものがたくさんある。
誰しも愛があることはわかっているが、それがどういうモノやコトなのかは知ろうとしない。多くのヒトは好意のこととして結論付けているかもしれないが、愛とは心の動きのバロメーターの名前である。
簡単に言えば、好意、恋愛感情、嗜好も、憎悪、嫉妬、恨みも同じ愛から発生している。好意や恋愛感情はわかりやすいと思う。一方、憎しみや嫉妬という感情も、その元は愛である。愛をもって対峙していたからこそ、何かのきっかけで憎んだり、恨んだりするのである。まったく愛を感じていないものに嫉妬はしない。
このように、言葉や名称だけは知っていても、そこにある本当の意味を知らずに知った気になってしまっていることがたくさんあるのだ。
こういった目に見えないものがなければ、ヒトの人生は成り立たない。愛がなければ種の存続はできず、心がなければ何も信じることができない。縁がなければ自分の身の丈など生まれたときに決まってしまう。
世界的に見れば、種の存続はできているし、書面などを使ってでも信用は維持されている。そして誰の人生も、生まれたときは無限大の可能性を持っている。
一般的に考えられているよりも、ヒトの人生に対する、目に見えないものの貢献度は高いのである。
そういった目に見えないものの中でも、一般的に広く浸透しているものとしては、「偶然」や「たまたま」ということがある。以後、「偶然」という言葉だけを利用するが、「たまたま」や「奇跡的」、「運」といったことも含んでいる。
偶然を科学で推し量ることはできない。科学は「いつも、どこでも、誰であっても、同じ結果になる」ものだけを扱っている。水を分解すれば水素と酸素に分かれる。これはいつでもどこでも、誰が実験しても同じ結果になる。これが科学である。なので、偶然は科学の範疇にはない。
確率という考えかたもできるが、人生における可能性の選択肢は確率で計算できるほど少なくもなければ浅くもない。
例えば、電車で仕事に行く光景を想像してほしい。ほとんど毎日、同じ時刻の電車、同じ車両、同じドアの付近に乗っているとして、今日はどうだろうか。毎日がそうだからと言って、今日も同じとは限らない。そもそも寝坊などで電車がいつもより一本遅いものなるかもしれない。いつもより手前の車両に乗り込むかもしれない。いつもと同じドアの付近が混雑していて、隣のドアから電車に乗るかもしれない。そもそも、体調が悪くて休むかもしれない。体調が悪くて午後から出勤するかもしれない。昨日の仕事の残りが気になって、早出をするかもしれない。
まだまだバリエーションはあるだろう。こう考えると、確率はあくまでも傾向であり、可能性だらけの人生において、すべての傾向を導き出すのは困難である。
こういったことはすべてが偶然という言葉で片づけられてしまう。もちろん何事もなければ日常の一コマということで、すぐに忘れ去られるだろう。もしそれがひとつの大きな事象になっていたとしたら、意味が変わってくる。
先ほどの例で言えば、「偶然」寝坊して、いつもの電車に乗れなかったから、電車の事故に巻き込まれなかった。あるいは「偶然」体調を崩して会社を休んだから、駅までの道で起こった大きな交通事故に巻き込まれなかった、などということになれば、その「偶然」は大きな意味を持つようになるのである。
いつもならすぐに忘れ去られるような偶然起こったことが、自分の身を助けたとか、危機を回避できたとなれば、そうなってはじめて、「偶然」についていつもよりすこしだけ深く考えるのである。
人生に関わる目に見えないものは、偶然やたまたまだけではない。あきらかに非科学的に見えるものも含めれば、人生の半分は目に見えない何者かの手によって、導かれ、そして目に見えるものと融合して導かれているのである。
三
「偶然」が本当に偶然であるかどうかを知る術はない。そもそも非科学的なことなのだから、科学で証明しようとしても無理がある。
それは偶然だけにかぎらず、愛や心なども非科学的な物事なので、それが本当にあるかどうか、あったとしたらどういうものなのかを証明することはできない。精神医学や心理学などでは説明できるのかもしれない。ただそれも、基準は「誰が試しても同じ答えになる」という科学的なものである。すべてのヒトの愛や心が同じであるはずもなく、どこまで説明できるのかはわからない。
それでもヒトは「偶然」を体験している。誰もが、幾度も体験している。この世には、科学的・学術的な説明がつかなくても存在することがあるのだ。
そう考えると、科学的な説明や根拠などを求める意味はなくなっていく。それらがなくても、多くのヒトが何度も体験しているということは、「偶然」という現象は存在していて、科学的なメスが入っていないだけだと考えたほうが理にかなっている。
ただヒトという生き物は、科学的や常識的な基準を失うと途端に不安になってしまう傾向がある。不安な思考から否定や拒絶をして、これまで培ってきた自分の基準を維持しようとする。本能的なものだろう。誰しも未知に恐怖を感じるのだ。
それでも「偶然」は、今もどこかで誰かの身に起こっている。不安になったところで、次の瞬間には自分が「偶然」を体験しているかもしれない。不安になっても何も変わらないし、頭ごなしに否定や拒絶をすれば、その考えが変わるまで不安は不安のまま維持されてしまう。それでもいいならあとは本人次第である。
難しく考えなくても、「目に見えなくても『偶然』は存在する」。それだけでいいのでは、と思う。それが当たり前であることは、ほとんどのヒトが体験しているということと、そのおかげですでに慣れている、ということがある。
そうなると、日常は偶然だらけであるということに気がつくようになる。
朝、目が覚めた時間から、日中の活動している時間、そして夜になり、ベッドに横たわる時間まで、すべてが偶然かもしれない。
自分で考えたとおりに動いていると信じていても、他人が関わればすべてが自分の思いどおりになるとは限らなくなる。たとえば仕事で、打ち合わせのために相手の会社に行く。自分は時間どおりに到着しても、相手が遅刻すればそれは思いどおりではなくなる。また、打ち合わせが終わって次の仕事にかかろうとしても、相手が話し好きでいつまでも話しかけてきたら、思いどおりに事は運ばなくなる。
ヒトは、自分の思いどおりに動いているようで、実はそうでもない。
社会という集団生活の中ではつねに他者という存在があり、言葉は悪いが、それによって振り回されたり巻き込まれたりするものである。その中で自分の思いどおりにだけ動こうとしても、順調なときもあれば、そうはならないときもある。
だとしたら他者の動きは、自分から見れば「偶然」ということになる。「偶然」相手が遅刻してきた、「偶然」相手の話に付き合わされた、ということだ。
このように、日常生活というのは、自分の考えたとおりに動ける、ということばかりではない。他者が関わることだけでなく、時間的なズレ、距離的なズレ、空間的なズレなど、多くのズレが混ざりあって日常が過ぎていくのである。
自分の思いどおりではない、ちょっとしたズレこそが「偶然」である。おそらくそれは、ヒトが生きていて体験するすべてに当てはまるのではないだろうか。
だとすると、ヒトは果たしてどこまで思いどおりに生きているのか、という疑問が生まれる。すべてが偶然という名の蜘蛛の巣のようなもので繋がっていて、ヒトはそこに囚われているのではないか。そういった疑問である。
その答えは、「ヒトは自分の思いどおりに生きている」。それは間違いない。
赤ん坊としてこの世に誕生したとき、可能性は無限に存在している。それは大人になっても変わらないが、大人になれば加齢という病があり、未病という病が増えていく。そのせいで出来ることの幅はいくらか狭まってしまう。
赤ん坊ももちろん加齢という病を背負うわけだが、それは加齢という病ではなく、成長という望ましい進歩である。脳の発達、肉体の発達がどのように広がっていくのかは未知数であり、無限大の可能性を持っていることがわかる。
このことを踏まえると、ヒトは思いどおりに生きることができている、と言えるだろう。成長過程で興味のあるもの、好奇心をそそられるものに惹かれて、最初こそ趣味や娯楽だが、続けることで、それに特化した思考や肉体に進化していき、その道の第一人者になるのかもしれない。好きなことを追いかけること、それは思いどおりの人生である。
そしてそんな人生にも、偶然という「見えざる手」は介入しているのである。
四
ひとつの仮説として、もし偶然が偶然ではなかったら、と考えてみる。
偶然とは、「自分の思いもよらないところで、何かしらのイベントを体験すること」、あるいは「原因と結果への道のりが曖昧ではっきりしないのに、ひとつの結果が出たとき」とも考えることができる。
これは、理詰めでは考えられないことが起こっている、と捉えることができる。科学的思考では、原因と結果への道のりははっきりしていて、その最たるものが「一+一=二」という数式だろう。ひとつのものにもうひとつ加えれば二つになる。これが科学の基準であると考えてもいいのではないかと思う。
そうなると「偶然」は科学の手には負えない、ということになる。
科学的思考が無理なら、非科学的思考しか道はない。
非科学的思考であれば、「偶然」とは、目に見えても見えなくても原因が自分にあると考えられる。言葉を変えれば、物理的な原因であれ、心理的あるいは霊的な原因であれ、そのきっかけは自分が用意しているということになるのである。
霊的なこと、というと、蕁麻疹が出るヒトもいるかもしれないので、ここでは「心理的」という言葉を使うことにする。
物理的な原因ならば、誰が見ても、「それはそうなる」という流れがあり、本人もその結果に納得するしかないだろう。手がすべり生卵を床に落としたら割れた、という場合である。
これが心理的な原因ならば、第三者には見えないものであり、場合によっては本人ですら気がつかないままであり、気づいたときには結果の真っ只中にいる、ということもある。この気づいたときには結果の真っ只中というのが、「自分の思いもよらないところで、何かしらのイベントを体験する」というこになり、これが偶然と呼ばれる現象である。
心理的な要因というのはさまざまだが、主に決意や信念、思い込みなどが挙げられるが、決意に関しては自ら決めることなので自覚はあるだろう。信念や思い込みなどは、これまでの人生において学んできた教育や知識、あるいは体験などで培われてきたものなので、普段はとくに意識していない人が多いのではないだろうか。
すこし話がそれるが、信念や思い込みは、あくまでも自分中心の基準であり、そのままでは誰とも寄り添うことはできない。言わば、単位の違うモノサシのようなものなのである。
仮に、あなたがミリやセンチのモノサシを持っているとしよう。あなたの隣にいるヒトは寸や尺のモノサシを持っている。あなたの向かいにいるヒトはインチやフィートのモノサシを持っている。あなたがセンチの話をしても、尺やフィートのモノサシのヒトには通じない。時々目盛りが合うことがあり、そのときに話が合う、といった具合だ。
結婚などがわかりやすいが、男女が夫婦になったとしても、同じ信念や思い込みで生きているわけではない。目盛りが合う機会が多い=気が合うと感じているだけである。そう考えると、性格の不一致など当たり前のことで、夫婦が社会の最小単位であることを理解していない、ということがよく分かる。夫婦にかぎらないが、二人以上のヒトがいて何かを始めるのであれば、極端な話ではあるが、まったく考えかたの違う他人たちが同じゴールに向かって集まっているだけだと理解しておいたほうがいい。
夫婦が離婚したり、集団が仲間割れを起こしたりするのは、「自分だけのモノサシ」を他の人も共通であると勘違いしているところから始まる。言い換えれば、自分のモノサシがどんなものか理解していないから、同じモノサシを持っていると信じてしまっている、ということになる。
それぐらい、誰も自分のことを知らないし知ろうともしない。あるいは知りたくないのかもしれない。自分のすべてを知らないということではないが、もっとも大切な本質の部分については、多くのヒトが気づかないまま人生を送っているように見える。
そんな状態であれば、心理的な要因などを自分が生みだしたとしても、気づくことはほとんどない。気づいていないのだから、良いことでも良くないことでも、自分の身にいつもと違う何かが起これば、それは「偶然」と考えるだろう。
自分の意図ではなく偶然にコトが起こる。では自分が意図的であれば、偶然は偶然ではなく、必然としてコトが起こる。実際にそれができるのかどうかは後述するとして、理屈で言えばそういうことになる。
偶然は本当に偶然やたまたまで起こっているのではなく、自分の無意識のまま意図したことが現実化して、その結果を自分で体験している、というだけのことである。無意識の意図が、きちんと意識して意図された場合、自分の望んだことが現実化して、見えざる手により結果を体験できる。それが「引き寄せの法則」である。
五
「引き寄せの法則」については賛否両論あるだろう。しかしこれが「意図的な偶然」だとしたら、とくに不思議なことでもなくなるのではないだろうか。
ご存じない方のために簡単に触れておくと「引き寄せの法則」とは、思考や感情によって望む現実を引き寄せる、というものである。法則というぐらいなので、おまじないなどではなく、万有引力や慣性のようにいつ、誰が実験しても同じ結果になるとされている。今回は話がずれてしまうので、ここまでにしておく。
ヒトには信念や思い込みがあり、それらを基準にして思考や行動をする生き物である。コンビニなどにポテトチップスを買いに行ったとして、うすしお味が欲しいのにコンソメ味を手に取るということはない。イヌと暮らそうと思いペットショップに行って、九官鳥を買ってくることなど、そのときに気が変わらないかぎり、あり得ないだろう。
人生もそれと同じで、自分が決めたことや自分では気づいていないが信じていること、思い込んでいることが基準となって物事を考えたり、行動を起こしたりしている。
つまり、人生は自分が創っている、ということになる。
自然災害など、もっと大きな意志によって、望んだとおりにならなかったり、望んでもいないことが起こったりすることもあるが、人生の大半は、気づいていてもいなくても、自分の意図がおおよそ現実化している。ただそのことに誰も気づいていないだけである。
ヒトの物理的・現実的な力だけで、望んだとおりの人生を生きることはかなり難しい。出来ないことはないだろうが、そのために払う努力や我慢、時間などの代償を考えると、見合っていないように思えて疲弊してしまう。
しかし実際の人生は、自分でも知らないうちに意図を生み、それに沿った形で、自分でも気づかないまま考えたり行動した結果、望んでいることも望んでいないことも現実化させて、体験する仕組みになっている。
例えるなら、ありとあらゆる方向に延び、幾重にも重なり、どこでも思った場所へ行ける鉄道のようなものである。鉄道はどこまでも進むことができる。とは言え、それは線路の上だけの話。意図すれば目的地にたどり着くことはできるが、線路から離れることはできない。
線路を管理する何かしら大きな意識のようなものがあり、その意識によって、走行するべき線路、止まるべき信号などが管理され、意識的か無意識なのかは別にして、意図した目的地に向かって「生きる」という走行を続けている。
多くのヒトは、自分が意図したかどうかも気づかないまま、目的地に向かって走りだし、大きな意識に管理された線路の上を、そうとは知らずに走り続け、途中で出会う、物事や出来事に驚いてしまう。それが「偶然」である。
偶然と言っても、生みの親は自分の意図であり、気づかないまま自らそのように思考し、行動し、出会っているのだ。
また、人生の線路は無限の可能性へと繋がっているが、分かれ道のどちらへ行くか、となったとき、大きな意識によって管理され、目的地へと向かうことになる。この大きな意識を「縁」と考えれば、スピリチュアル思考を否定するヒトにも理解しやすいのではないだろうか。
「縁」は自分の力でどうにかすることなどできない。しかし何事も「縁」があって線路は続いていく。偶然に起きるコトも、たまたま出会うモノも、すべてはこの「縁」によって引き合わされる。もちろん自分の意図に沿ったモノやコトしか出会うことはない。
ただ生きている、それだけで人生と呼ぶことはできるだろう。だが、せっかく肉体があるおかげで五感があり、いろいろな場面で五種類の感覚を使用して楽しむことができる機能を持っている。そう考えると、肉体が滅び、五感を失ってからでは味わうことができないさまざまなものを、いろいろなバリエーションで体験することができるのだから、「今・ここ」という時空間を充実させておくことが、本当の意味で「生きる」ということになるのではないか、と考えている。
偶然やたまたまは、偶然やたまたまではなく、自分の意図によって導かれた必然である。生きていれば体験は続き、さまざまな物事や出来事に出会う。そのほとんどが、自らの意図によって設定された目的地へ向かうための兆し、あるいはチェックポイントのようなもの。当然だがそれを物理的に予測することなどできるはずもない。
日常的な思考の中で、今後の自分にとって不利になるようなことを考えていたりすると、いつ、どれが意図となり、偶然を装って、あなたにとって不都合な体験が起こるのかわからない。
「今・ここ」というポイントが、自分のひとまずの目的地であることを自覚しておく。「今・ここ」が気に入らない、納得できないというのであれば、ネガティブな思考はなるべく避けて、ポジティブな思考に焦点を合わせるのがもっとも効果的である。
病は気からという言葉と同じように、人生は意図からである。自分が何を考え、どの方向に向かって人生を進ませようとしているのかぐらいは、把握しておくのがいい。
自分がどこへ行きたいのかわかっていれば、目には見えない車掌や駅員が、その見えざる手によって、目的地へと導いてくれる。
多くのヒトは気づいていないかもしれないが、誰の人生においても「ヒトは見えざる手に導かれる」ように出来ていて、ヒトはそれに従っているにすぎない。見えざる手に従っているだけだからこそ、予定されていた物事や出来事も「偶然」や「たまたま」起こっているように見えるのである。
それはあなたが意図的に選んだ線路であり、その「偶然」があなたにとって都合の良いモノやコトであれば、あなたは自分の望んだ正しい路線の電車に乗っている、のである。
あなたにとって都合のよい素敵な偶然が、見えざる手により、贈り届けられることを祈りつつ。 完
ヒトは見えざる手に導かれる 古 散太 @santafull
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