第9話 始まり

初冬の風を、全身の肌が突き刺すように受けている。


俺は小川へ足を踏み入れ、膝まで、腰までと進んでいく。


水面が胸元に届く深さでしゃがみ込み、やがて肩まで沈めた。


冷えきった川の水が、身体を芯から凍えさせる。




――これは持衰じさいの務めとしてのみそぎ


身にまとわりついた穢れを洗い流し、これから始まる航海に備えるための儀式だ。


岸辺には数人の見届け役の人間が控えている。




衆目に晒されながら、俺は素っ裸で何をしているのだろう?


持衰じさいに女は近づけないから、見られる相手が男だけなのが救いだ。




観測者であれば死にはしない。


歴史の強制力により守られている。


そんな俺の持論はとんでもない間違いであった。




ナビの、魂を撃つ輝く拳シャイニングフィスト(俺が名付けた)を喰らわずとも、俺の魂は肉体から常に飛び出した状態だったと思う。




そして気付い時には野郎ども監視のもと、水浴びをしている自分がいた。




遂に今日の夜、首長の計画を実行に移す。


が、実際何をどうするのか覚えちゃいない。


ただひたすら操り人形のように言う事聞くのが精一杯だ。




禊を終えた俺は、男達に連れられて、舟の隠し場所まで連れられる。






そこに並んでいたのは、長さおよそ九メートル、幅は大人の肩幅ほどしかない丸木舟だった。


見かけは船というよりカヌー。


昔、急流下り体験で似たようなのに乗った覚えがあるけど


渡るのは川じゃなくて海なんだ。




村人たちは誇らしげに胸を張り、「八人乗りだ!」と口を揃える。


だが俺からすれば、それはどう見ても「八人詰め」だ。


たしかに普段漁で使っている舟よりは一回り大きく、木目も分厚くて頑丈そうではある。


……が、それでも海を渡れるイメージがまったく湧かない。


吉備国で見た舟はもう少し立派だったのだが……。




俺は繋いである中央の舟に無理やり座らされた。


舟底の深さはわずか四十センチほど。


水面がすぐそこまで迫り、座った瞬間に波が縁を叩いた。


まるで海の上に直で座っているような感覚だ。


ちょっとでも強い波が来れば、あっという間にひっくり返りそうである。




「吉備国の船は、準構造船って言って――」


いつの間にか横に浮かんでいたナビが、さらりと解説を差し込んでくる。


「丸木舟に板を継ぎ足して、舷ふなばたの高さや幅を補強したタイプ。波にも強いし、荷物も人も多く積める。だから川だけじゃなく、海でも遠出できるの」


必要最低限の解説だけを、感情を交えずに淡々と告げるナビ。


いつものような茶化しもなければ、キラキラした仕草もない。


――まだ怒ってる。


先の戦いのあとは、あんなに気遣ってくれていたのに。


俺が勝手に動いたせいで心配かけているのは分かってる。


ちゃんと反省してるんだから……そろそろ優しくしてほしい。


「あと今回の作戦、吉備国きびこくの力を利用して伊都国いとこくを討ち、その隙に村人全員で逃げ出すわけだけど――当然すぐに吉備国にバレることになる。怒った吉備国は必ず追いかけてくるよね?」


そうなの?吉備国怒るの?


緊張と恐怖と後悔がごちゃ混ぜになって、俺の頭はどんどんバカになっていく。


「こっちは丸木舟。向こうは最先端の準構造船。漕ぎ手を多く乗せられる分、速度は完全にあちらが上。捕捉されれば、いずれ追いつかれる」


じゃあ頑張って速く漕げば?




「普通なら、九州から対馬や壱岐を経て、朝鮮南岸に沿って進み、そこから揚子江ようすこうを遡って江南に入る。これが一番安全な航路」




ナビの指先が緑色に発光し、その軌跡をたどって光の筋が宙に浮かぶ。




「でもそのルートを通ったら、吉備国の準構造船に絶対追いつかれる。沿岸は補給できる分、相手も追撃しやすいから」




ナビは今度は赤い線をすっと引いた。


「だからこっちは、九州から直接、東シナ海を突っ切って浙江せっこうを目指す。このルートは黒潮の強流にぶつかることになるし、嵐に見舞われる可能性も高い。流石に吉備国もそんなリスクを取ってまで追いかけてこないはず。ある程度の所まで逃げ切れば、必ず途中で諦める」




「へえ、やったじゃん……」


よく分からんが逃げ切れるならそれは良いことだ。




「うん。でも途中で補給もできない一発勝負。歴史の強制力でキミたちが何人かはたどり着けるのだろうけど、犠牲者ゼロで中国に到着できる可能性は一体どれほどあるんだろうね?」


冷めた目で舟に座る俺を見下ろすナビ。


凄い追い打ちしてくるじゃん。




言い終えてナビは姿を消してしまい、俺は一人になる。


ここまで俺を案内してくれたおっさん達も近くにいるが、




「おい。アイツ、ずっと一人で何か喋ってるぞ」


「持衰だからな。神にでも祈ってるんじゃないのか?」


「いや、アイツはいつもああだろ?」




持衰は他人とあまり干渉できないが、より一層距離を取られてしまっている。



――孤独だ。



ああ、俺やっぱ死ぬんかな?


何だか恐がることにも疲れてきた。


俺はただひたすら、ボーっと海を眺め続けた。




そしてやがて夜になる。


そろそろか。


しばらくして、伊都国の砦から火が上がった。


みるみるうちに広まっていき、漆黒の闇は赤々とした炎に照らされる。


俺達の姿が夜空の下にはっきりと浮かび上がる。


吉備国の連中からもよく見えることだろう。




足音が聞こえた。


一緒にいた男達は僅かに身構えるが、走ってきたのが首長をはじめ村人達だと分かると、歓喜しながら駆け寄っていく。




「急げ! 一人たりとも取り残すな!」




船着き場に到着すると、首長が大声で指示を出しながら女子供を舟に乗せ始める。


吉備国の兵を案内していた別動隊も合流し、全員が舟に乗り移った。




いよいよか……。




舟が漕ぎ出し、岸が次第に遠くなる。


船上の多くの人々が、長年過ごした集落をじっと見つめていた。


皆それぞれに、心の中で別れを告げているのだろう。




途中、吉備国の舟影が後方に見えたが、ナビの言葉通り、強流にぶつかる直前で引き返していった。


だが、本当の敵は吉備国ではなかった。




潮流に呑まれ、舟は軋みながら激しく揺れる。


漕ぎ手たちは死に物狂いで櫂を振るうが、波に抗うのは至難の業だ。


空は暗雲に覆われ、滝のような豪雨が打ちつける。


稲光が閃き、雷鳴が鼓膜を突き破る。こんな音は今まで聞いたことがない。


背丈を超える波が押し寄せ、舟は上下に揺さぶられる。――こんな小さな舟で耐えられるはずがない。




あー、無理無理無理無理。絶対無理。怖いよ怖いよ怖いよ。


眼前で繰り広げられる凄絶な光景に、俺の恐怖心は限界を超え、逆に声を上げることすらできなかった。




「……あれを見ろ」


「アイツ、この嵐の中眉一つ動かさねぇ」


「気味が悪いな……」


「もしかしたら本当に、あの男は特別な存在なのか?」




――違うんです。ごめんなさい。


誰よりもビビってます。怖すぎて、怖いって表現する機能が完全に壊れてるだけなんです。




そして、一際巨大な波が目前に立ちはだかった。


あばばばばば、あーーーーーー無理無理無理……!




プツン。




意識は、そこで途絶えた。












あれ?何だか周りがうるさいな。


何人もの叫び声が飛び交っている。


もう、静かにしてくれよな……人が気分良く寝てるのに。




――!?いや、違う。俺は……舟の上で……!


生きてる?嵐は?みんなは?




「陸だ!!」


「着いたのか!?」




耳をつんざく歓声に、まだ寝ぼけた脳が急速に覚醒していく。


意味を持たなかった音が、次第に言葉として聞こえてきた。




――何だって?着いただと?




ゆっくりと顔を上げ、周りの舟を見回す。


一隻、二隻……七。


七隻!みんないる!全員無事だ!




胸の奥がじんわり熱くなる。


良かった。誰も死ななかった。


その安堵が大きすぎて、同時にどっと疲労と眠気が押し寄せた。




再び意識が暗闇に沈んだ。


再び俺が気付いたとき、舟はすでに岸に着いていた。


見れば全員が浜へ上がり、俺だけが取り残されている。




身体は鉛のように重い。


それでも必死に立ち上がり、這いつくばるように舟を降りる。


波打ち際に足を踏み入れた瞬間、ぐらりと身体が揺れ、さざ波に足を取られそうになる。




ふらふらと前に進む。


首長が俺に気付き、駆け寄ってくる。




「……よくやった。お前のおかげで我らは助かったのだ」




その声は震えていて、目は赤く充血していた。




「おい。誰か介抱してやってくれ!」




声を聞きつけた数人が駆け寄り、両脇を抱えて俺を持ち上げる。




「持衰、よくやってくれた!」


「大した男だ、お前は!」




運ばれながら、俺の存在を思い出した人々が、口々に称賛を浴びせてくる。


中には両手を合わせ、拝むように俺を見上げる者までいた。




――やめてくれ。本当に俺は何もしてないんだ。


むしろ怖すぎて気絶してただけなんだ。




でも。


ああ……生きてる。生きてるんだ。




あー……




「……マジ死ぬかと思った……」




歓喜に包まれた人々の喧騒の中、俺の呟きは誰にも届かなかった。

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