蒼墨のロジスティシャン〜異世界に誤召喚された社畜は戦場の最前線で「帳簿」を武器に無双する~ 算術士のペンは剣より強し ―― 《社畜戦記》
いぬがみとうま🐾
第一話:事故物件から異世界へ
深夜二時。
都心のオフィス街は、眠りを知らない。
巨大なオフィスビルの二十四階。そのフロアの一角だけが、周囲の闇を拒絶するように真っ白な光を放っていた。
空になったエナジードリンクの缶が、デスクの上に五本。
すべて、ここ数時間の間に中身が「燃料」として消費されたものだ。
「……合わない」
メガネの奥の瞳は血走り、酷い隈がその下に深く刻まれている。
「九万円だ。端数じゃない。この数字のズレが、あまりにも不自然で気持ち悪い……吐きそうだ」
弥太郎の指が、狂ったような速度でキーボードを叩き続ける。
カタカタ、カタカタ、ッターンと、フロアに響く打鍵音は、まるで精密機械が奏でる不吉なリズムのようだ。
連結決算の最終調整。
下三桁は切り捨てするルールだが、本来なら一円の狂いもあってはならない神聖な帳簿。
そこに、存在してはいけない「違和感」が混じっている。
弥太郎は、プリントアウトされた分厚い帳簿に、愛用のそろばんを取り出し、はじき出した。
チェック、チェック、またチェック。
「九万円の行方はどこだ……。入力ミスか。それとも誰かが意図的に請求書を握り潰したか? マイナーパスだが俺は許さんぞ。……ふふ、いい度胸だ。数字は嘘をつかないが、人は嘘をつく。帳簿を汚した犯人、絶対に見つけ出してやる」
弥太郎にとって、数字の不整合は生理的な嫌悪の対象だった。
パズルのピースが一個だけ欠けているような、あるいは美しい旋律の中に一音だけ外れた音が混じっているような、耐えがたい違和感。
そして。
弥太郎の指が、ある一点で止まった。
「見つけた」
営業部長の交際費。二重計上の疑い。
巧妙に細分化して隠されていたが、合算すればぴったり九万円。
「よし、ビンゴだ、あのたぬきオヤジめ。……さて、現在時刻は午前二時十五分。ここから歩いて家に帰れば、二時三十分には布団に入れる。睡眠時間は三時間確保できるな。よし、
弥太郎は冷徹な顔で修正指示書を叩き出し、愛用のそろばんを引き出しにしまった。
誰に褒められるわけでもない。
だが、数字を正したという事実だけで、彼の脳内には安価なドーパミンが溢れ出していた。
うむ。これだから、社畜はやめられない。
◇
会社を出て、静まり返った街を歩く。
弥太郎の住むマンションは、会社から一駅。歩いて十五分ほどの距離にある。
都内の一等地、築浅、駅近。
本来なら年収一千万円プレイヤーが住むような物件だ。
二十八歳の、一介の経理マンである弥太郎が住めるはずもない。
だが、この部屋には『理由』があった。
前の住人の女性が、ある日突然、部屋から姿を消した。
警察の捜査も虚しく、数ヶ月後、彼女は突如リビングで『物言わぬ姿』で発見された。
いわゆる、事故物件である。
家賃は相場の三分の一以下。
普通なら気味悪がって誰も寄り付かないが、弥太郎は即決した。
『経理的に見て、これ以上の優良案件は存在しませんね。幽霊? ああ、もし出るなら家賃のさらなる引き下げ交渉の証人になってもらいますよ』
不動産屋が引くほどの合理性で勝ち取った城だ。
弥太郎はマンションの玄関をくぐり、エレベーターに乗った。
自室のドアを開ける。
「ただいま」
誰もいないはずの部屋に声をかける。
いつものルーティーンだ。靴を脱ぎ、鞄を置こうとして――弥太郎は足を止めた。
「……? なんだ、これは」
リビングのドアの隙間から、青白い光が漏れ出している。
電気、消し忘れたか?
いや、待て。
一晩の待機電力と照明代で、今月の光熱費予算が数円単位で狂うぞ。
それは許しがたいエラーだ。
弥太郎は慌ててリビングのドアを押し開けた。
「…………は?」
そこに広がっていたのは、見慣れた自分の部屋ではなかった。
フローリングの床一面。
そこには、幾何学的で複雑な、見たこともない紋様が描かれていた。
模様そのものが青白く発光し、呼吸するように強弱を繰り返している。
「泥棒……いや、不法侵入にしては派手すぎる。なんだこの模様は。プロジェクションマッピングか? それにしては、床から感じるこの熱量は……ッ!」
あまりの光量に、目が眩む。
弥太郎は咄嗟にスマホを取り出し、カメラを起動した。
何が起きているかはわからないが、証拠を残すのは経理の基本だ。
その時。
床に描かれた『魔法陣』から、凄まじい圧力が噴き出した。
「うわっ、ちょっと待て! 引っ張られて……離せ! 勝手に移動させるな!」
冗談ではない。
この引力、このエネルギー。
科学的な説明が追いつかない異常事態。
弥太郎の体が宙に浮く。
部屋の空気が、渦を巻いて中心へと吸い込まれていく。
「おい! ふざけるな! 戻せ! 今すぐ戻せーーッッ!」
死の恐怖?
そんなものは二の次だった。
弥太郎の脳裏を埋め尽くしたのは、もっと切実な、社会人としての絶望だった。
「明日の朝イチの会議資料、まだデスクの上だぞ! 俺がいないと連結決算が終わらないんだ! 誰が修正指示を出すと思ってる! 俺を、俺を職場に戻せぇぇぇぇぇーーーーーッ!!」
弥太郎の魂の叫びが、部屋中に響き渡る。
次の瞬間。
強烈な閃光が視界を真っ白に塗りつぶした。
有馬弥太郎の意識は、そこで一度、完全に断絶した。
◇
光が、引いていく。
代わりに鼻を突いたのは、焦げたような匂い。
そして、大勢の人間の、動揺を含んだざわめきだった。
「…………召喚、成功……か?」
「いや、待て。姿が違う。聖女様ではないぞ」
「なぜ、男なのだ……?」
弥太郎は、ゆっくりと目を開けた。
そこは、石造りの高い天井を持つ、広大な広間だった。
壁には豪奢なタペストリーが飾られ、周囲には見たこともない意匠の鎧を纏った騎士たちが、剣を構えて自分を囲んでいる。
足元には、自室で見たものと同じ、光を失った紋様。
弥太郎は、呆然としたまま、その場に立ち尽くした。
隈のひどい顔、よれよれのスーツ。
片手には、今しがた撮影に失敗したスマホが握られている。
「ここは……どこだ。自宅……ではないことは間違いなさそうだが」
正面の玉座らしき場所に座る、王冠を被った男。
その隣で祈りを捧げていたらしい、白い法衣を着た老人たち。
彼らは一様に、弥太郎を見て絶望の表情を浮かべていた。
「な、なんてことだ……。聖女召喚の儀が、失敗したというのか……」
老人が、がっくりと膝をつく。
弥太郎は、ふらふらと立ち上がった。
全身が痛む。
有馬弥太郎。二十八歳。社畜。
彼は、異世界で呆然と立ち尽くすのであった。
――――――ଘ(੭ˊウˋ)੭✧あとがき✧――――――
短編で好評だった経理が無双する話を、しっかりと設定を作り込みましたのだよ。
10万字のプロットは出来ていて、あとは、のんびりコツコツ更新していくのだよ。
不定期更新になると思うのでフォローをして、物語を追ってくれると嬉しいのだよ。
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