【1人の終わりと1人の始まり】掌編小説

統失2級

1話完結

冬もぐっと深まり1月下旬を迎えると、地球の地軸の変化により日本列島は1年で最も厳しい寒冷気温に覆われていた。しかし、鎌田博之は奮発して購入した3万2千円のダウンジャケットを着込んで、地上の夜の冷たさに苦しむ事は無く体は防護されていた。今日は妻の誕生日である。博之はケーキ屋で購入した小型のホールケーキを持って家路を急いでいた。鎌田夫妻の間では誕生日プレゼントは現金で2万円を贈り合う取り決めになっていたので、プレゼントは購入していなかった。


博之は自宅のチャイムを鳴らしてみるが、中からの応答は無い。博之は不審に思いながらも鍵を使いドアを解錠して部屋に入ってみる。廊下を進み、磨り硝子の2番目のドアを開けて居間に入ると、妻のかずみが床に倒れていた。かずみの右手には1枚の紙が握られている。博之はパニック状態に陥りそうになりながらも、何とか平常心を保ちつつ、かずみの右手から白い紙を取り上げる。その紙にはこう書かれていた。「世間は物価高なのに、博之は安月給のまま。もう疲れました。私は死にます。博之は安月給でも我慢してくれる新しい奥さんを見付けて幸せになって下さい。それではさようなら」


かずみは不眠症を患っていたので、睡眠導入剤を大量服用したのかも知れない。博之はそう考え、嗚咽を漏らしながら泣き崩れて、床に横たわるかずみの傍らに寝そべった。1時間ほどかずみの顔を眺めていた博之だったが、その間はかずみとの数々の思い出が脳裏に浮かんで来た。同級生として大学で始めて出会い、交際に至るまでは2年以上も掛かった事。博之の方から交際の申し込みをして、やっと3回目の申し込みでかずみが交際に応じてくれた事。2人で訪れた東京ディズニーランドの思い出とタイ旅行の思い出とハワイ旅行の思い出。次から次に湧いて来る思い出が博之の心を傷付ける。「いくら何でも自殺する事はないじゃないか……」博之は思わず独り言を吐き出す。博之の涙は止まっていたが、心は深く沈み込んでいた。だが、救急車を呼ぶという選択肢は博之の頭には思い浮かんで来なかった。救急車を呼べば警察から事情を聞かれる事にもなる。そうなれば、あの遺書を警察に見せなくてはならない。それはプライドの高い博之には決して受け入れられない段取だった。博之は唐突に床から立ち上がるとテーブルの椅子に腰掛けホールケーキを切り分ける事もなく、無造作にフォークを使いホールケーキを食べ始めた。


小型とは言えホールケーキ1個を1人で食べ終えた博之は満腹になって、何故だか興奮状態に陥っていた。博之はかずみの遺書を鋏を使い細かく切刻むとトイレに流し、そして、一瞬の躊躇いも無く、6階のベランダからアスファルトの地面にあっさりと飛び降りるのだった。博之は即死だった。


「私はチーズケーキを頼んでいたのに、夫がチョコレートケーキを買って来た事に私が不満を言うと夫と口喧嘩になったのです。そして、興奮した夫は1人でチョコレートケーキを食べ終えると、いきなりベランダから飛び降りてしまったのです。私がチョコレートケーキでも喜んで食べていれば、夫が死ぬ事はありませんでした。全て私が悪いのです。私は本当に悪い妻です」かずみは居間にあがって来た刑事2人にそう話すと、ティッシュで涙を拭った。


かずみは偉大なる予言者の直系の子孫だった。予知能力はかずみにも遺伝されており3ヶ月前に突如として予知能力が発現していた。予言者となったかずみには、どうすれば博之が自殺し、3千万円の保険金を受け取れるのかは簡単に把握出来ていたのだ。勿論、かずみの予知能力を持ってすれば、アメリカの巨額の宝くじに当選するのも簡単な話だった。しかし、その前に博之を自殺させ、気持ちも身辺もスッキリさせてから、アメリカの宝くじに当選する腹積もりであった。


2ヶ月後、かずみは渡米して現地の宝くじを購入し、16億4000万ドルに当選した。そして、その後には現地の大学に通う8歳年下の日系人の男性と結婚して、幸せな生涯を送る事になるのだった。因みにかずみは生まれながらの特異体質として、3時間くらいなら平気で呼吸を止める事が出来る人間だったのです。

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【1人の終わりと1人の始まり】掌編小説 統失2級 @toto4929

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