朧谷幽夏とその他すべての事象について

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朧谷幽夏とその他すべての事象について

 朧谷幽夏おぼろやかそかは幽霊のような女子高生である。というのは僕の言だ。これはなにも、彼女の名前に幽が付いているからという、そんな簡単な話ではない。


 とにかく、彼女からは少しも生気が感じられないのだ。


 本当に血が通っているのかと心配になるほど、セーラー服の袖から伸びる彼女の腕は青白い。霞でも身にまとっているのかと思ってしまうほどに。


 僕と彼女は同じ高校に通っているが、朧谷おぼろやとはなぜか学校では会ったことがない。


 しかし、彼女に会うのは簡単だ。僕がふらりと外に出ると、二日に一度程度の確率でなぜか彼女に遭遇することができるのだ。

 きっと、彼女も僕みたいに散歩が好きなのだろう。こんな田舎を散歩しても、なにも楽しいことなんてありはしないのだが。


 この日はテスト期間で、学校はすぐに終わった。政経には山勘で当たったため、赤点をとらないかどうかはお祈りだ。


 家に帰って明日の勉強をしなくてはいけないのだが、なんとなくそんな気分ではない。僕は自転車で帰路を駆けながら、どこかに朧谷おぼろやはいないだろうかと目を走らせた。

 

 僕を歓迎してくれるのは、水面に風の形を刻んでいる田園のみ。


 揺れる稲穂を眺めていると。


 ──田の中に突っ立ち、蒼天を瞳に入れた朧谷幽夏おぼろやかそかを見つけた。


 僕は思わずブレーキをかけ、歩道に自転車を止める。


 朧谷は靴が濡れることも厭わずに田の中央に立ち、なにが楽しいのか無言で空を見上げ続けている。


 セーラー服を着た女子高生が田の中にいる光景はどこか現実離れしていて。


 それに、彼女がまとう空気はあまりにも人間らしく思えないものだから、あそこに立つのは幽霊であると思ってしまう僕の気持ちも誰か理解してほしい。


 声をかけるべきかと逡巡し、なんだか面白いからこのまま彼女のことをここから眺めていようかと思っていると。


樋渡ひわたりくん」


 朧谷が瞳だけをこちらに向けて、小さいがなぜかよく通る声でそう言った。

 

 彼女は、涙袋を持ち上げて目を微かに細めるという、随分と蠱惑的な微笑み方をする。


「なにしてたの」

 そう問うと、朧谷は。


「飛行機雲、見てた」


 天を指さし、そう言った。


 僕も試しに上を見ていると。なるほど。確かに一機の飛行機が青空を割りながらどこかへと飛んでいく途中であった。


「私、思うんだ」


 朧谷は、瞳を空色にして続ける。


「飛行機はね、きっと空を食べて生きてるんだよ。彼らが通った後には、白しか残らないから」


 僕は彼女のその言葉を、身体全体で噛みしめるように味わう。


「なら、飛行機雲は飛行機の子どもか?」

 僕が言うと。


ふんじゃない?」


 彼女は真顔でそう言った。

 台無しだ。


「で、どうして田んぼの中なんかにいるんだよ?」


「いやね、ひるに血でもあげようかと思って」


「絶対にやめた方がいい、そんなこと」

 僕は引きながらそう言った。


「ともかく、さっさと出た方がいい」

 呟きながら、僕は歩道から畔道あぜみちまで歩いていく。そして、朧谷に手招きをした。


「でもね。私、知ってるんだ。蛭に自分の血をあげて、ペットとして飼ってる人がいること」


「そうなんだ」

 世界は広い。


「いや、だからって朧谷が蛭に血をあげる意味がわからない。別に、飼ってるわけでもないのに」


「命の循環」


 朧谷は、瞑目めいもくしながら両腕を広げてみせる。


「世界に与えられた物を、こうして私は世界に返している」


 朧谷は、田と一体になったかのようにぴくりとも動かない。


 横合いから吹くそよ風だけが、彼女のそこまで長くない髪を揺らしている。そのおかげで僕は、彼女が本当にこの世に存在するのだという確信を得られる。少しだけ。


 彼女の言っていることはよくわからないが、僕はよくわからないなりにも彼女のことをわかろうとする。

「ふうん。で、蛭はいたの?」


「ううん。おたまじゃくしならいたけど」


 おたまじゃくしに囲まれながら「命の循環」とか言ってたのか。


「ともかく、そろそろ出たらどうだ? 本当に蛭に噛まれて病気にでもなったら大変だ」


「そうだね」


 そうして朧谷は、僕のいる畔道まであがってきた。彼女の履くスニーカーとニーソックスは、泥に食われてドロドロであった。


「というか、知らん人の田んぼに勝手に入るのとか、あんまりよくないと思うぞ」

 朧谷にそんなことを諭しても意味はないと思いつつそう言ったのだが。


「ここ、私のおじいちゃんの田んぼだから大丈夫。知らない人の田に入ったりしないよ? 普通」


 制服のまま田に入って蛭に血を吸わせようとするやつが、なんでその辺の常識を持ってるんだよ。


「そうか。なら、いいんだけど」

 自分で言っておいてなんだが、なにもよくないと思う。


 泥の足跡を刻む朧谷の横を、僕は自転車を押して同じスピードで歩く。

 朧谷は、頭上を走る電線を目でなぞりながら歩いている。


「前見ないと、電柱にぶつかるぞ」


「いいよ。私、電柱も電線も好きだから」


 なにがいいのかさっぱりわからない。

 ちなみに、この場合の『なにがいいのか』というのは、電柱や電線をさしているのではなく、ぶつかってもいいと思っている朧谷に対しての言葉だ。

 僕も、どちらかといえば電柱と電線は好きだから。


「電線は、空の血管。そうなれば、電柱は骨だよね」


 朧谷は、電線に塗まみれた空に向かって右手を伸ばしてみせる。

 陽光に、血管を透かすかのように。

 そうして、朧谷は近くの電柱に寄り添い、耳を近づけた。


「こうしてるとさ。地底の声が聞こえる気がするんだよね」


「へー」


 朧谷幽夏おぼろやかそかの言動を理解しようとするだけ無駄だ。だから僕は、時折魂の抜けたような相槌を彼女に対して打つことがある。


 朧谷は、電柱に耳を付けたままにこちらを見て、ちろりと舌先を出してみせた。

どういうことだろう。

 なんてね? ってことだろうか。


 朧谷が変な人間であることは間違いないのだが、素で変な人なのか変な人を演じようとしているのか、僕には判別がつかない。

 変な人を演じようとする人なんて、おしなべて変な人ではあるとは思うのだが。


 その後も、僕らは他愛のない会話を交わしながら田舎道を歩き続けた。

 いや、会話というか、僕が朧谷の変な言葉を聞いているだけなのだが。


 いつの間にか、青いはずだった空に橙が溶け始めている。


 そんな空を見上げて、朧谷はこう言うのだ。


「そろそろ帰ろっか。青空が全て、夕焼けに盗まれちゃう前に」


 斜陽を受けて輝く朧谷の横顔は、陽光をカンバスとした絵画のように見えた。


「そうだな」


 そう呟く僕の口角は上がってしまっている。


 僕は、朧谷といる時間が好きだ。

 彼女といるときだけは、僕は自分が特別になったかのような錯覚を覚えられるのだから。本当にそれは錯覚で、特別なのは僕ではなく朧谷だけなのだが。


 やぼったい色のオレンジが、次第に空の端を焦がしていく様を、僕と朧谷は歩道の真ん中に突っ立って眺めていた。

 僕らの影法師はやけに長く伸び、田園の上で寂しそうに揺らめいている。


「ねえ、樋渡ひわたりくん。夕陽を見てると、不安にならない? なんだか、理解の外にいる怪獣を相手取っているみたいで」


 確かに、目を焦がすかのようなこの橙の光の帯を見ていると、自分が今本当に正しい世界の上に立っているのか不安になってくる。

 こんな色が世界に住んでいるのは、この黄昏時だけだというのもなんだか不思議というか、不気味な気すらしてくる。


「なら、二人で倒しにいく? 夕焼けの怪獣」


 僕が言うと、朧谷は口元だけで笑ってみせる。


「いいね」


 朧谷は、無言で僕の自転車の荷台に乗ってくる。


 ペダルを漕ぐ。しっかりと、二人分の体重を足に感じる。

 もしかすると、朧谷は、幽霊じゃないのかもしれない。


「朧谷って、生きてる?」

 ペダルを漕ぎながら、そんなことを言う。


「ぴんぴんとね」


「なら朧谷は、人間?」


「宇宙人の方が良かった?」


「宇宙人と言われた方が納得はできる」


「いぇーい」


 僕の背中から、凄くローテンションな朧谷のそんな声が聞こえた。断言しよう。きっと彼女は今、あり得ないくらいの真顔だ。


 風の間を縫い、背中から、朧谷の声が聞こえてくる。


「それじゃあまあ、ぶっ倒しにいきますか。怪獣」


「そうだな」


 僕は、だんだんと大きくなっていく夕焼けの怪獣に向かってペダルを強く漕ぐ。

 夕風が、僕らのことを優しく包んでいる。


 ちなみに、明日は普通にテスト。

 こんなことをしている場合では、全くない。


「楽しいね、樋渡くん」


「そうだな」

 僕は、もう一度同じ相槌を返した。


 まあ、テストなんてどうでもいいか。

 テストなんかより大事なことなんて、いくらでもある。


 ――例えば、気になる女の子と一緒に大怪獣をぶっ飛ばしにいく、とか。

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