花と本

紙の妖精さん

flowers and books

レジカウンターに本をそっと置いた。その硬音が、店内の静けさに小響し店員は慣れた手つきでバーコードを滑らせ、ピッと短い電子音が空気を切った。画面の青白い光が一瞬だけ彼女の指先を照らし、すぐに消える。店員は顔を上げ、穏やかで事務的な微笑みを浮かべた。


「お支払いは、図書ギフトカード、クレジットカード、現金のいずれになさいますか」


その言葉が耳に届いた瞬間、彼女の身体はぴたりと止まった。財布はすでに開かれている。白い革の内側に、新札の千円札が数枚と、小銭が散らばり、奥の方で古い図書カードが横たわっている。


視界の外端で、店内の蛍光灯が明るすぎている。光学的粒子が、文庫本の背表紙に落ち、斑かな背の文字をくっきりと浮かび上がらせていた。近くの棚には、誰かが立ち読みした、分厚いハードカバーが放置され、店内の空気は紙の匂いと、どこか遠い 外国の青空の匂いが混じり、彼女の視覚、聴覚、嗅覚に迫ってくるようだった。


一秒。

二秒。

三秒。


店員は変わらず、にこにこしている。

けれど、その笑顔の奥に、ほんの少しだけ「どうしたのだろう」という色が混じっている。


彼女は焦って、違うポケットに手を突っ込み、

そこから一枚、硬いカードを取り出してしまう。


図書館の利用カードだった。


店員は一瞬だけ目を留めてから、声を立てずに、少笑した。

それが逆に、彼女をさらに慌てさせた。


「……あ、ちがいます」


小さく言って、今度は正しく、図書ギフトカードを差し出す。


「こちらでお願いします」


店員は何事もなかったようにカードを受け取り、処理を進める。


「カバーはお付けしますか」


「つけます」


即答。


「では、こちらからお選びください。クマ、パンダ、ネコ、リス、イヌ、があります」


並べられた見本を見て、少しだけ考える。

それから、


「……クマで」


と答えた。



レジを離れ、大型書店を出て施設のメインエスカレーターに足を乗せると、金属のベルトが低く唸るような振動が靴底に伝わってきた。下降するにつれ、店内の喧噪が徐々に遠ざかり、空気の質が変わる。上層階の冷房が効きすぎた乾いた匂いから、徐々に湿り気を帯びた、植物の息づかいが混じり始め、エスカレーターの終点で足を踏み出す。数歩歩き。ガラス張りの通路を、そのまま奥へ進む。人の話し声は、まるで水面下に沈むように薄れ、代わりに遠くで空調の微かな風切り音と、時折響くガラスの反射音だけが残る。足音がコンクリートの床に軽く反響し、やがて、視界が開けた。ガラス扉を抜けると、そこは予想以上に広い中庭だった。建物に囲まれた四角い空間。頭上には透明なガラス屋根が張られ、午後の陽光が淡く屈折しながら降り注いでいる。床は淡いグレーのタイルと、ところどころに埋め込まれた芝生の帯で構成され、人工と自然が計算された比率で共存している。芝は機械で刈り込まれたばかりらしく、刃の跡が規則正しく残り、一本一本が同じ高さに揃っている。足を踏み入れるのをためらうほど、完璧に管理された緑だった。曲線を描く小道は細かな砂利が敷かれ、歩くたびに軽い音を立てる。両脇には低く刈り込まれた箱庭風の低木が並び、その間を縫うように花壇が配置されている。ところどころに植えられた背の高いモミジやイチョウが、柔らかな影を落とし、芝生にまだらな模様を描いていた。全体の意匠は、イギリス式庭園を現代的に再解釈したものだ。左右対称を基調としながらも、きっちりしすぎず、わずかな揺らぎを許している。いくつものバラのアーチが連なり、白や淡いピンク、ほとんど透明に近いクリーム色の花が、静かに重なり合って咲いている。金属製のフレームはマットブラックに塗られ、ガラス壁の反射を受けて鈍く光る。風が吹くたび、花弁が微かに震え、甘く湿ったバラの香りが、嗅覚の奥までゆっくりと広がった。彼女は立ち止まり、深く息を吸った。ガラス屋根越しに見える空は、ビル群に切り取られた四角い青で、雲ひとつない。芝生の緑が、視界を優しく包み込み、足元の砂利が、歩みをためらわせる。


彼女がアーチの下をくぐると、周囲のガラス壁が、無数の彼女を映し出し、どの彼女も、同じように静かに、同じように虚空を見つめている。風が再び吹くと、バラの花弁が一枚、ゆっくりと舞い落ち、芝生の上に着地した。


庭の一角に、カフェレストランがあり。そのカフェレストランもガラス張りの建物で、屋外にも小さなテーブルが並んでいて、カフェ前には、切り花がいくつか並べられていた。


「本日のお庭の花」


そう書かれた札の横に、バラ、ラベンダー、名前のわからない小さな白い花。どれも派手ではないが、庭からそのまま切り取ってきたような、落ち着いた色をしている。カフェの中では、コーヒーの音と食器の触れる音が静かに重なり、美術館の入口は少し離れた場所にあって、白い壁が庭の緑を受け止めていた。カフェのレストラン部はカフェ部のさらに奥で、ガラス越しにテーブルクロスが見える。


彼女は庭の端にある丸いテーブルのある椅子に腰を下ろた。買ったばかりの本は、クマのカバーに包まれたまま、膝の上にある。袋から、クマのぬいぐるみを取り出して並べて置く。芝生の向こうでは、誰かが写真を撮っている。花を選んでいる人もいる。


ミルクティーを頼む時、砂糖は無しで、ミルクは多めで、とだけ伝える。


カフェスタッフから番号札を受け取って、視線を移動させると、隣のテーブルにベビーカーが見えた。赤ちゃんは、何かを掴もうとするみたいに、小さな手を動かしている。そのそばに、さっきもらったクマのぬいぐるみがあることに気づいた。彼女は少しだけ迷ってから、ベビーカーの横に立った。


「……あの、このクマ。よかったら、もらってください」


若い母親は一瞬きょとんとした顔をして、それから微笑んだ。


「いいんですか?」


うなずくと、若いお母さんは

「ありがとうございます」と言って、クマを受け取り、

そのままベビーカーの中に置いた。赤ちゃんは、すぐにクマを掴んだ。布を握って、口元に寄せて、声にならない声を出す。彼女は何も言わずに、自分の席へ戻った。庭に面した小さなテーブル、椅子に座って、手を膝の上に置いた。


しばらくして、トレイを持ったカフェスタッフが近づいてきた。白いポロシャツの袖が、風に軽く揺れる。トレイの上には、シンプルな白磁のカップとソーサーが置かれ、ミルクティーの表面がわずかに揺れていた。「ミルクティー、お待たせいたしました」カフェスタッフは静かにテーブルに置き、軽く会釈して去っていった。カップの縁から、細く白い湯気が立ち上る。ゆっくりと、まるで時間を測るように螺旋を描きながら、空気の中に溶けていく。彼女はカップに手を伸ばした。指先が瓷の表面に触れると、予想より少し熱い。けれどそれは心地よい熱さで、掌にじんわりと広がる。カップを口元に運ぶ。紅茶の色は、濃い琥珀ではなく、柔らかなキャラメル色。ミルクがたっぷり入っているせいか、光を透かすと淡くオレンジに輝いた。一口。熱くもなく、ぬるくもなく、ちょうど舌に馴染む温度。紅茶の渋みがミルクの甘みに包まれ、喉の奥まで滑らかに落ちていく。舌の上に、ミルクの重いコクが残った。かすかな甘さと、茶葉の奥底に潜む苦みを、ゆっくりと混じり合う。彼女はカップをソーサーに戻し、視線を本に移した。テーブルの上に置かれた文庫本のカバー表紙には、クマのイラストが描かれている。柔らかい茶色のクマが、こちらをじっと見つめているようだった。少しの間、彼女はそのクマと目を合わせた。クマの瞳は、どこか無垢で、責めているわけでも、慰めているわけでもない。彼女は指を伸ばし、カバーをそっと裏返にした。表紙から剥がす音が、庭の静けさの中で小さく響く。カバーを裏返し、柄のない白い内側を表に出す。本の表紙がむき出しになり、クマはもう見えなくなった。彼女はそれを膝の上に置き直した。再びカップに手を伸ばす。もう一口。ミルクの膜が唇に触れ、温かさが頬の内側まで染みてくる。庭の向こうでは、若い女性がバラのアーチの下で花を眺め、指で一輪をそっと摘んでいる。遠くの芝生の端で、子どもが母親の手を振り払い、笑いながら走り回る声が聞こえる。けれどその声は、ここまで届くと柔らかく、遠い波音のようにしか響かない。彼女は本を開かず、ただ膝に置いたまま、ミルクティーを飲み続けた。カップの中身が少しずつ減っていく。湯気が薄くなり、表面にミルクの泡が残る。空になったカップの底に、茶葉の細かな沈殿が見えた。彼女はスタッフを呼び、おかわりを頼んだ。「同じミルクティーで、お願いします」二杯目が運ばれてきた。同じ白いカップ、同じソーサー。

けれど、香りはさっきより弱い気がした。茶葉の抽出時間が短かったのか、それとも自分の嗅覚がもう慣れてしまったのか。彼女はそれでもカップを口に運ぶ。二杯目も、ほとんど同じ速さで飲んだ。一口ごとに、庭の風景が少しずつ変わっていく。陽が傾き始め、ガラス屋根越しに差し込む光が長く伸び、テーブルの上に細長い影を落とす。バラの花弁が一枚、風に舞って彼女のテーブルの端に落ちた。

淡いピンクの小さな欠片が、白いソーサーの横で静かに横たわる。飲み終えたカップの底に、わずかなミルクの跡が残っている。彼女は立ち上がり、本を手に取った。裏返したままのカバーを、指で軽く押さえる。クマはもう、見えない、けれど、その存在はまだ、指先に残っているような気がした。レジに向かう。庭の小道を踏む砂利の音が、軽く響く。会計を済ませる。

小さな電子音が鳴り、支払いは終わった。「ありがとうございました」スタッフの声が、穏やかに背中に届いた。


彼女は施設敷地内を、あてもなく歩く。足は砂利の小道を踏み、時折タイルの継ぎ目に引っかかる。ガラス屋根を抜けた光が角度を変え、影が長く伸びる。午後の陽はもう傾き始め、ビルの輪郭をぼんやりと縁取っていた。ガラス張りの美術館入口が、横目に入る。自動ドアが開閉するたび、冷たい空気が漏れ出し、足元を撫でる。入口の看板に書かれた展覧会タイトルは、遠くからでも読めたが、彼女は近づこうともしなかった。庭の奥へ進む。ここはもう、人の気配がまばらになる。

低木の間を抜けると、花の世話をしている人がいた。膝をつき、剪定ばさみを手に、バラの枯れ枝を丁寧に切り落としている。その動作はゆっくりで、まるで時間を計っているようだった。剪定ばさみのカチッという音が、風に混じって小さく響く。彼女の足は、自然と花の売り場に向かった。なぜか、迷いなく。売り場は小さな木製のスタンドで、ガラス屋根の光を受けて淡く輝いている。一輪挿し用の花が、数本ずつバケツに挿され、並べられている。白いユリ、淡いピンクのバラ、薄紫のラベンダー。どれも茎が短く、水に浸された先端が透明な滴を光らせていた。値札は小さな紙片で、鉛筆の字が丁寧に書かれている。彼女は立ち止まり、視線をゆっくりと巡らせた。白い花が一本、目に留まる。純白の花弁が、わずかに内側へ巻き、中心に淡い緑の芯が見える。名前はわからない。ただ、その白さが、庭の他の色を静かに受け止めているように思えた。彼女は指を伸ばし、その一本をそっと抜き取った。茎の感触は冷たく、水の雫が指先に落ちる。値札をもう一度確認し、財布から小銭を取り出す。コインが掌で軽く鳴る音が、妙に鮮明に聞こえた。売り場の女性が近づいてくる。エプロンのポケットからハサミを取り出し、花の茎を少し短く切って整える。「一輪挿しにぴったりでだと思います」と、穏やかな声で言う。彼女は小さく頷くだけだった。女性は透明なセロハンで花を包み、端をテープで留める。包み紙の音が、かすかにシャリシャリと響く。紙袋を受け取る。軽い。袋の底で、花がわずかに揺れるのがわかる。彼女は袋を胸元に抱え、指で紙の端を軽く押さえた。花の香りが、袋の隙間から薄く溢れ出してくる。甘く、けれどどこか冷たい香りだった。彼女は歩き出し、庭の小道を、来た道とは逆方向へ。背後で、花の世話をする人のハサミの音が、小さく、聞こえて、紙袋の中の白い花は、静かに、彼女の歩みに合わせて揺れ続けていた。



複合商業施設エリアを出ると、タクシー乗り場があり、待っていた車に乗り込む。


「新宿、お願いします」


伝えたあと、後部座席に深く座る。本と花を、膝の上に置く。車が動き出すと、複合商業施設エリアはゆっくり遠ざかり、ひとつの景色になっていった。


家に着くと、玄関のドアを静かに閉めた。鍵がカチリと音を立てる瞬間、外の喧噪がぴたりと遮断される。靴を脱ぎ、揃えて靴箱に収める。いつもより丁寧に、踵を揃えて。紙袋を片手に、廊下を抜け、リビングへ向う。袋の底で、花がわずかに揺れる感触が、手のひらに伝わってくる。紙袋を開け、白い花を取り出す。セロハンの包みがシャリシャリと音を立て、茎に残った水滴が床にぽたりと落ちた。花弁はまだ新鮮で、触れると微かに弾力がある。彼女はすぐにキッチンへ向かい、花瓶を探した。棚の奥、ガラスの細長い花瓶が出てくる。透明で、底が少し厚く、重みがある。

「『これでいいかな』」


シンクの蛇口を捻る。水道の音が、部屋に響く。最初は勢いよく、勢いよく飛び出してくる水が、徐々に細く静かになる。花瓶に水を注ぐ。透明な水面が、ゆっくりと上がり、茎の切り口を飲み込んでいく。包丁を取り出し、茎の先を斜めに少し切る。切り口から、新鮮な緑の汁がにじみ出る。水に浸すと、気泡がぷくぷくと浮かび上がり、ゆっくり消えていく。彼女は花をそっと挿した。一本だけ。

花瓶の細い首に、花弁が寄りかかるように収まる。階段を上る。木の段が、足の重みで小さくきしむ。二階の自分の部屋のドアを開けると、空気が保存した木洩れ日匂いがする。窓際の棚に、花瓶を置く。棚は白木で、花瓶を置いた瞬間、部屋の中の光が、花弁に当たって反射した。白い花は、部屋の薄暗さの中で、異様に明るかった。午陽が斜めに花弁の縁を淡く縁取り、だが、その明るさは、部屋の隅々まで届かない。棚の上の本の背表紙、机の上のノート、ベッドの皺に落ちる影は、変わらず濃いままだ。彼女は一歩下がり、花を見つめた。白すぎる。部屋の空気に馴染まず、浮いている。けれど、その浮き具合が、なぜか心地よかった。あるいは、心地悪いほどに、鮮やかだった。花瓶の水面が、微かに揺れる。揺れが止まるまで、彼女はただ、それを見つめ続けた。


彼女は机にある、さっき買った裏返したままのカバーの本を指で角を押さえ、少し考える。


ほんの短い時間だった。


「……やっぱり、やめよう」


独り言のように言って、本を持ち階段を下りると、リビングには親がいた。何も言わずに、ゴミ箱の蓋を開けて、本を入れる。紙が触れる音がして、終わった。親が一瞬だけこちらを見る。『「柚菜!またなの」』という顔だった。


彼女は気にせずに、


「これからお風呂入るから」


そう言って、踵を返す。


「どうして?」


後ろから声がかかる。


少し間を置いて、振り向かずに答える。


「汚れちゃったから」


それだけ言って、洗面所に向かい、そのドアをしっかり閉めた。服を脱ぎ、シャワーを使う。水の音が、家の中の気配を遮り、花は、二階の部屋で水を吸って、買った本は、もう見えない場所にあった。


彼女は何も考えず、湯の中に立っていたが、思い立って一度、浴室を出る。タオルを手にして、二階へ上がる。部屋の窓際に置いた花瓶から、花を抜き、水滴が床に落ちるが、気にせず、そのまま階段を下りる。途中で、親の声がかかった。


「何か羽織りなさい」


彼女は立ち止まらずに言う。


「まだ、お風呂の途中だから。もう一回入るの」


花を持ったまま、浴室へ向かう。


「その花、どうするの?」


少し考えてから、淡々と答える。


「湯船に入れる」


「?」


「花薬草風呂」


それだけ言って、洗面所と浴室のドアをしっかり閉めた。湯船のふたを開ける。湯気が立ち上り、湯気が天井に薄くたまっていて、白い膜のように灯りをにじませていた。彼女は花をそっと浴槽の縁に置き、湯の上に浮かべた。花弁は最初こそ形を保っているが、すぐに湯を含んで柔らかくなり、色が少しずつほどけていく。茎の切り口からは、かすかに青く、土に近い匂いが立ちのぼった。お湯に触れた瞬間、花の香りは強く主張するというより、空気に溶けるように広がる。甘さの奥に、草を指で揉んだときのような青さが混じり、普段の石けんの匂いとはまったく違う。湯面には花弁がゆっくり回り、浴槽全体が浅い池のように見えた。彼女は静かに身体を沈める。お湯の重さが肩から背中へと均等にかかり、皮膚に触れるのは熱だけではなく、花弁がふと腕に当たるやわらかな感触や、湯の中で揺れる水の流れだった。呼吸をするたびに、嗅覚の奥に花の匂いが入り込み、頭の中が少しずつ空白になっていく。

湯の中で色を失いかけた花と、自分の呼吸の音だけが、今ここにあるものとして残っていた。







(了)

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