真っ赤な嘘

山中康生

第1話

真っ赤な嘘



 2450年、丸の内ヒルズ25階”ドリームエディション(株)”は本日、社内表彰式が行われていた。


「はい、というわけで今年も社内MVPとCEO賞、年間最優秀賞は敷波君だ! みんな拍手!」


「...うす」


 ゆっくりと拍手が止み、静寂が部屋の隅々まで染み込んでいく。数百人の視線が集まるこの瞬間が、敷波には水槽の中から水面を見上げるような息苦しさを感じていた。


「もーみんな飽きたよな! 毎年同じ人で!」


 どっと笑いが起きる。


「もううちも従業員数2000人を超える大企業にまで発展した! 不正はゼロで頼むよ、みんな。」


「「はい!!!」」


「それじゃあ、解散! よいお年を!」


「「よいお年をー!」」


 そう社員たちは叫んで散っていく。静かになりはじめたオフィスで、敷波は呼び止められた。


「......そうだ敷波君、君にしか頼めない案件があるんだ。帰ったらメール確認してくれ。悪いね、年末に」


「承知いたしました」


 


 家のドアを開けると、バタバタと、妻の点がフローリングを駆ける音が聞こえてくる。


「お帰り~今日は遅かったね。今年も、もしかして~?」


「MVP」


「うわ、流石じゃん。まあまあ、心配してなかったですけどね」


「そっちの会社は決算日でしたか?」


「MVPでした。んふー」


「まだ聞いてないですよ」


「どうせ聞くつもりだったでしょ!ふふ」


 ふと視線を机にむけると、寿司に、ビンテージワインまで豪華な食事が用意されていた。


 35階の窓の外には、幾千もの光の粒子が川のように流れる夜景が広がっている。


 食卓の上の光景は、まるで高度なホログラムのように完璧で、それ故に何処か現実味を欠いていた。


「僕にはもったいないくらい豪華ですね」


「お、お腹すいた? 食べよっか」


 カトラリーを用意して、二人は席についた。


「でさ! なんか敷波にしかできない案件だって社長に頼まれたんだって? あれなんだったの?」


「どうやら悪夢レベルは最高の10らしいです」


「えー、てことは二人でだね! 久しぶりだ!」


「夢後返しって何だか覚えてますか?」


「もちろん! 起きた後に来る、ぶり返しのことでしょ?」


「そうです。てなわけで年明けしてすぐ、忙しくなりますよ」


「了解!」


 食べ終わったころには時刻は12時を回り、年越しを迎えた。


「明けました! と同時に、敷波の誕生日! わ~! おめでと~!」


「ありがとう」


「今年は年越し一緒に過ごせるのうれしいな」


「そうですね」


 スマホに通知が来る。




【依頼人、レム睡眠に移行。発生まで5分~10分】




「そろそろだ。行きましょうか」


「は~い、天才夢編集人さん」


 二人は仕事部屋に赴く。細長い机に、大きなモニターがそれぞれ二人に4枚ずつ。監視室の部屋のように大量のスイッチたちに、色とりどりのランプ。そして、椅子が二つ。


「まあまあ、いつも通りやればいいだけ」


「悪夢レベル10と夢後返し10だよ? そう簡単にいくかな~」


「僕たちなら大丈夫ですよ。よし、始まる」


 モニターが明るくなり、夜の街中にぼんやりと店のようなものを映す。寒そうな風の音の中、屋根から垂れ下がった中国風の提灯が周りを照らしている。


「中国飯店......?」


「お、なんか人来たよ」


 深くフードを被った男が、辺りを見渡しながら中華料理店に近づいていく。


 その瞬間、男は中華料理店に向かって全力で走り出した。


「ん?」


 どうやらその華奢な体は、中華料理屋の裏でタバコをふかしている髭面の男に向かっているようだった。


「えっ、ちょっ右手...!」


 鈍い音が、スピーカーから漏れる。肉を断ち、骨に突き当たる、湿り気を帯びた音。


 走りながら右手から取り出したそのナイフが、男の体を貫いた。


「おい、マジか......」


「夢の中でこんな......こんな明確な殺意、見たことがない」


『貧乏人がよ......』


「えっ? ......今なんて言った?」


 その言葉を最後に、髭面の男はばたりと倒れてしまった。


「誰なんだ、こいつは一体」


「初めて見たね、こんなバイオレンスな人。普通、悪夢っていうのは『追いかけられる』『落ちる』とか、防御本能が見せるものなのに。この人は自分から、壊しに行ってる」


 夢の中で人を殺す。それは、文明の代償として現代人が脳の奥底に封印されてしまった、剝き出しの攻撃性だった。


 ”ドリームエディション”の依頼人が見る夢はいつも、何かに襲われる夢だった。それは、なにかを恐れるように。


「中国飯店? の......市ヶ谷店?」


 赤く光る看板が点の目に入る。


 するとゆっくりとモニターが暗くなり、夢の終了を机の青色のランプが告げる。


「ふぅ、これはどうしたもんですかね......」


 一息つき、机の上の日本茶に手を伸ばした時だった。


 点が視線を横に向けると、敷波の手が尋常ではないほど震えていた。


「ちょっと敷波!? 大丈夫?!」


 咄嗟に手を握る。


「あ......ああ......大丈夫......」


「思い......出しちゃった?」


 手を強く握り返す。


「大丈夫。......とにかく作業に取り掛かりましょう」


「分かった。倒れちゃ嫌だからね」


 通常、プロの夢編集人は全てを一人で行う。


 夢に挿入する映像の作成から、それを編集するまで。


 しかし、二人は分ける。映像を作る点、編集するのは敷波だ。


 天才同士が組めば、上場企業の成績ナンバーワンなど容易い。


「とりあえずナイフ除去、看板の光量をプラス8000ルクス」


「了解」


「依頼人のデータの傾向的に、多分気が弱いみたい。近くの花壇に花追加してあげて。明るい花ね」


「花壇に追加完了。看板の光量も調整したから確認してください」


「これで大丈夫」


「中華料理店ってことはこれ、建物の材質タイルですよね?」


「そう。不燃で、油汚れが目立ちにいからね。もう、初歩知識でしょ」


「そしたら、光の反射を抑えつつ、質感の柔らかい素材を探してください。こっちで壁に挿入しておきます」


「了解、漆喰でどう?」


「完璧です」


 二人は顔を見ることもなく、淡々と夢の世界に彩りを出す。


 暗かった空は夕暮れ時に。虫嫌いの依頼人のために、電柱のカブトムシを消去。


「......もうこんな時間ですか。そろそろノンレム睡眠に切り替わる。やれることはやりました」


「お疲れ様!」


「すみません、今回要望多くて」


「しょうがないよ。状況が状況だもん」


「よし......寝ましょっか」


 そういって、敷波がそそくさと寝室に向かおうとしていた時だった。


「待って! 敷波、行かないで! これ、すぐ見て!」


 叫び声に近い、点の必至な声が背中を叩いた。 


 敷波が足を止めるより早く、痛いほどの力で腕を掴み強引にデスクの方へと引き戻す。


「なんですか、仕事は終わりましたよ」


 点はスマートフォンの画面を眼前に突き付けた。


「終わってないんだよ......!」


 スマートフォンには約一年前、中国飯店の市ヶ谷店で上場企業の役員が刺されて亡くなったというニュースが表示されていた。


 犯人は現在逃走中。刺し傷は一か所、死因は失血死だった。


「......まじか」


 ニュース画面に映し出された現場写真。そこには、先程まで必死に光量をあげ、花を植えた『中国飯店・市ヶ谷店』の裏口に、黄色いテープが張り巡らされていた。


「ねえ、敷波。これ......偶然じゃないよね」


 点の声が、深夜に静まり返った仕事部屋に震えて響く。


「まずいよ、だとしたら......」


 今しがた消したのは、ただの悪夢の不純物ではない。


 納品する夢は、プライバシー保護の観点から、編集が完了した瞬間に破棄される。


 それがこの会社の、鉄の掟だった。


 点は、自分の指先を見つめた。完璧に夢を整えたはずの自分の指が、まるで血に汚れているかのような錯覚に陥った。


 「これ、私たちに消させたってこと? 罪悪感のせいで悪夢を見るようになって、一年前の景色が今日の夢だったってこと?!」


 今度は敷波の体が、また震え始めた。


「ああ......あああ......」


 震える敷波の背中に手を回す。


「ごめん、また思い出させちゃったね」


 点は瞳を閉じ、その腕に伝わる体温と、絶え間ない震えを噛みしめる。


 


 ──この感触を、点は知っている。


 まだ「天才」の称号も、MVPの盾も持っていなかった、あの冬を。


 二人が初めて、深層を覗きあった日のこと。


 冷え切った、大学の講義室を。




 2439年一月。東京藝術大学の講義室には、冬特有の、埃っぽくて乾燥した匂いだけが立ち込めていた。


 窓の外は都会の煤に汚れた雪が降り積もる、薄暗い午後だった。


 並べられたモニターが、何十人分もの深層心理を映し出していた。


「よーし、全員課題出したな。講評は以上だ」


 ある者は原色の草花を、ある者は加工された家族の幸福を。


 だが、一番端の席に座る敷波の画面だけは色彩の一切を拒絶した、光と影だけで編まれた作品を映し出していた。


「......これ、貴方が作ったの?」


 キーボードを叩く手が止まる。しかし、点の方を見ようとはしなかった。


 思わず声をかけた言葉は、白い霧となって冬の空気に溶けた。


 敷波は、ゆっくりと視線をあげた。


「......色がないと、不自然ですか」


 敷波に吸い寄せられるように、隣のパイプ椅子に腰を下ろした。


「ううん。すごく綺麗。......けど、どうして? 課題のテーマは『幼少期の風景画』でしょ? 貴方には、こんな風に世界が見えてたの?」


 画面には、深い灰色と浅い灰色が泥のように混ざり合い、空も地面も境界がなく溶け合っている。無限に広がる灰色の空と、灰色のポインセチアが咲いていた。


 敷波は、キーボードの上に置いた自分の細く白い指を、まるで知らない指を見るように見つめていた。


「地下室にいたんです。......あいつらに、閉じ込められてたから」


 そのあまりにも淡々とした一言が、「虐待」という凄惨な事実だということを理解するまでに、少しの時間を要した。


「あいつら......って、ご両親のこと?」


「飼育員......とでも呼びましょうか。当時、あまりに......その、あいつらに言わせれば『可愛げがないペット』だったから。世に出すと、誰かを壊すとでも思ったんでしょうかね。だから、あの中で命がモノに代わる音だけを聞いて育ちました」


「音......?」


「親が運んでくるんです。生きてるのか死んでるのかも分からない、家畜の肉を」


 敷波の言葉が冷たいコンクリートの質阿寒を伴って部屋に満ちていく。


「貴方は知っていますか? 頬に直撃する拳の痛さを」


「......知らないで済んでるわ」


「僕は鮮血が怖かったんです。眩しいとも思えたし、煩わしいとも思った」


「......なぜ?」


「地下室の天井の隙間から差し込む、針ほどの光。それさえなければ、血を流していることにすら気が付かずに済んだ」


 点は、息をすることを忘れてしまった。


 敷波にとって、家族とは決して愛を与える存在ではなく、ただの無機質な食事を投げ込んでくる大きな肉塊に過ぎなかった。


「そこには、ただ影の濃淡があるだけ。だから僕にとってこの灰色に染まった世界が唯一、嘘をつかない景色なんです」


 敷波はそう言って、少しだけ俯いた。その時、彼の長いまつげが微かに震えるのを、点は見逃さなかった。


 その瞬間、点の中にある「芸術への好奇心」は、もっと泥臭い「保護欲」へと変質した。


「......敷波くん」


 点はまつげに雫が溜まるのを見て、震える手に思わず触れてしまった。


 敷波は一瞬、びくりと肩を揺らしたが、決して拒絶することはなかった。




「私が、貴方の光になるから。あなたが見落とした世界の色、全部隣で教えてあげるから」




 初めて目が合った。その済んだ瞳の中に、点の姿が映り込む。


「やっと目、合わせてくれたね」




 大学の研究室では深夜二時を回ろうとしていた。


 モニターに青白く照らされた敷波の横顔は彫刻のように美しく、同時に死人のように生気がなかった。彼は十時間以上、一度も椅子から立ち上がっていない。


「ねー、少し休もうよ......」


 点が差し出した缶コーヒーは、彼の冷え切った指先に触れすっかり体温が奪われてしまった。敷波はキーボードをたたく手を止め、ゆっくりとこちらを向く。


「点さんは、先に帰っていいですよ。このカット、どうも鼠色の発色が足りない」


「違います。あなたに足りないのは体温でしょ」


 点は背後に回り込み、自分のしていたマフラーを巻き付ける。


「......点さんは、嫌じゃないんですか」


「何が?」


「監禁されてた人と、こうしていることが。僕には、みんなが持ってる色が欠けてるのに」


「私が光になるって、そう言ったはずだけど」


「でも、形しか作れない」


「じゃあ二人いれば、完璧だね」


 敷波はどこか困ったように、安堵した表情を浮かべていた。


 その僅かな変化が、何よりの報酬だった。


 この狭くて、埃っぽくて、無機質な研究室。ここが彼の世界の全てだなんて、点にはとても寂しく思えた。


「ねえ、敷波くん。次の休み、実家の別荘に行かない?」


 敷波は、マフラーを顔に埋めたまま不思議そうに瞬きをした。


「別荘......?」


「うん。軽井沢。あそこなら、都会の喧騒から離れていられるから」


 少し躊躇したようだったが、点の熱に押されるように小さく頷いた。




 数日後、降り立ったのは別荘地として有名な旧軽井沢。軽井沢のエリアの中で最も格式が高く、最も古いエリアだ。車窓越しに次々と整えられた木々が通り過ぎていく。


「あそこだよ~」


 指差した先にある家の前のゲートを通ると、二人はふかふかの整えられた芝生の上に立った。


 ゲートから家までは、走っても5秒くらいの時間を要する、とても広い庭だ。


「......ここは、光が正しく死んでいる場所ですね」


「死んでいる......?」


 新緑から抜ける木漏れ日が、敷波の目にはそう映った。


 光とは敷波の現実を照らすだけの、厚かましく粗悪な光だった。


「敷波くん、いこっか」


 家の中に入ると、玄関には様々な調度品や絵画が飾られている。どれも手入れが行き届いており、埃一つついていなかった。


「これは、昔この家を日本画家に描いてもらったの」


 それは見事な油絵が、玄関の前で堂々と佇んでいた。一階部分を一周する白い柵や、煙を噴き出している煙突、ブラウン色の壁。


「......大切にされてるんですね。」


 敷波が、調度品の一つである18世紀のアンティーク・クロックを興味ありげに見つめている。


「触る?」


「......いえ! 結構です」


「あはは、言うと思った」


 リビングに足を踏み入れると、そこには巨大なサンルームから溢れんばかりの陽光が差し込んでいた。磨き上げられたフローリングはその光を鏡のように反射し、朝方の海面を見ているようだった。


 時間が経つにつれ、陽の光は少しずつその角度を変え、陽光から橙色へと変質していく。


「そろそろ暖炉つけよっか」


 薪を家の裏手から運び、着火剤に火をつけ薪の下にくぐらせた。


 敷波はソファの端に沈み込み、片手で顔を覆った。


「光ってなんて厚かましんだろう。あらゆる隙間に無理やり潜り込んで、境界線をめちゃくちゃにして、映したくないものまで映す。なんで僕には”光”が誉め言葉なのかがわかりません」


 点は立ち上がった。祖父が愛用していた、重厚なベルベットの遮光カーテン。その滑らかな布地に手をかけ、一気に引き絞る。


 カシャン、と真鍮のリングが鳴りカーテンが閉まる。


 一枚、また一枚とリビングを取り囲む巨大な窓がすべて布に覆われた。


 そうして部屋は、完全な暗闇へと変わった。


 視界がゼロになる。二人の呼吸と、今にも薪が爆ぜる予感を孕んだ暖炉の沈黙。


 闇の中を少しずつ歩き、ソファに座る。


 今にも肩が触れてしまいそうな、そんな近さで。


「怒ってるのかと思いました」


 敷波の低い声が、視界を失った空間に、微かな振動となって伝わってくる。


「まさか」


「......点さん、あなたの世界を汚すだけの欠落した人間に、なんで構うんですか」


 その問いは、敷波の心の最も深い場所で糊のように溜まっていた「恐怖」だった。


 柔らかく温かい手が、冷たい手を包み込んだ。


「汚す? 違うよ。退屈だったんだずっと。私の曽祖父は商工大臣、祖母は天皇とテニス。就職は商社か銀行かコンサル。用意された椅子に座り続けるだけの人生。私はね、自分の色がどこから始まってどこで終わるのかさえ、分からなくなっていたんだよ」


 点は暗闇の中で、さらに顔を近づけた。彼女の吐息が敷波の頬をかすめる。


「家柄でも肩書でも気にしない。私の『色』そのものを必要としてくれる。それが堪らなく嬉しいの。


 点は敷波の顎を持ち、顔をこっちに向けさせた。暗闇の中で目が合う。


「......ねえ、私をもっと壊してよ。貴方のその「欠落」で、私の退屈な完成度を台無しにして」


 今まで欠落だと思っていた自分の闇が、彼女にとっては渇望される「毒」であり、救いなのだと突き付けられる。


「......僕にできるのは、世界を呪うような線を引くことだけです。あなたの家系が守ってきた、その美しい景色を、僕は地獄に変えてしまうかもしれない」


「それでいいの。誰も見たことがない、地獄を作りましょう。......鮮やかなだけの輪郭より、死の予感を孕んだあなたのモノクロの輪郭の方が、私にはずっとモダンにで、......そして、何よりもエロティックに映る」


「......エロティック、ですか」


「そう。魂をむき出しにするって、そういうことでしょ」


 敷波は、暗闇の中で息を呑んだ。自分を肯定されることがこれほどまでに痛く、甘美なことだとは知らなかった。


 声はもう、唇が触れ合うほどの距離にあった。


 点の視線は、敷波が先ほど興味を示したリビングの隅に佇む、18世紀のアンティーク・クロックへと向けられた。月光がカーテンの隙間から、一筋の細い糸のようにその金細工を射抜いている。


「...... あの時計。曾祖父が愛したものなの。この家が建ったときから、ずっとこの場所で、一族の時間を刻み続けてきた」


 点の声が、闇の静寂に凛として響く。


「...... 残酷なほど、正確ですね」


 敷波はソファの端で、金色の振り子が規則正しく刻む音――コン、コン、コン、コン――を、まるで自分の命を削る音のように聞いていた。それは、彼が地下室で失った時間を見せつけられるように、逃げられない「正解の重圧」だった。


「敷波くん。...... この『正解の時間』を、壊してみたいと思わない?」


 点は立ち上がり、音もなく時計の前へと歩み寄った。迷いのない指先で、時計のガラスケースを躊躇いもなく開く。アンティーク特有の、古い油と埃が混ざり合った、歴史の匂いが溢れ出した。


「点、さん...... ?」


 点は、透き通るような白い指先を、複雑に噛み合う歯車の中へと迷わず滑り込ませた。


 名門の血を引く彼女の指が、一族の誇りである精緻な機械の中に「異物」として侵入する。


 ギリ、という金属の悲鳴。


 一瞬、振り子が激しく揺れ、そして── 沈黙した。


 19世紀から一度も途切れることなく刻まれてきた、名家の「正解の時間」が、点の細い指一本によって殺された。


「...... 止まった」


 敷波は、息を呑んでその光景を見つめていた。自分を縛り、否定し続けてきたこの世界の「理法」が、目の前の少女によってあっけなく破壊されたのだ。


「これからは、私たちが時間を進めるの。貴方が引く『線』と、私が置く『色』だけで構成された、新しい時間を」


 点は時計から指を引き抜き、ゆっくりと敷波の方を向いた。


 月光に照らされた彼女の指先には、時計の古い黒い油が、まるで「不吉な色彩」のようにべっとりと付着していた。


「敷波くん。...... 貴方の未来を、私のこの汚れた指で塗り潰してもいい?  その代わり、貴方が引く残酷な線で、私をこの退屈な世界から永遠に連れ出して」


 敷波は、その黒く汚れた点の指を、震える両手で包み込んだ。


 彼の指に、名家の時間を止めた古い油が移り、二人の境界線がドロリと溶け合っていく。


「...... 僕たちの手で、この世界の時間を新しく書き換えましょう。...... これからは過去も、全部この壊れた時計の中に閉じ込めて」


 敷波は、点の指についた黒い油を、自らの唇で拭うようにして、その契約を完成させた。


「敷波くん。......貴方の書き間違えを、私の色で全部、地獄の果てまで塗り潰して隠してあげる」


「......はい。頼みますよ、点さん」


 19世紀の時計が沈黙する暗闇の中で、二人は世界で最も美しく、最も汚れた契約を結んだ。


「あなたが私の世界の輪郭を描くの。私がそれの色を塗るから」


「......いいですよ。その代わり、僕が書き間違えたら、貴方の色で、全部塗り潰して、隠してください。僕を一人にしないでください。約束ですよ」


「貴方の罪は私の色で、私の孤独はあなたの線で」




 ただの肉塊だった「人間」が、「体温を帯びた物質」としてそこに存在した。




 軽井沢の別荘から東京に戻る車中、敷波は一度も窓の外を見ようとしなかった。流れていく街灯の光さえも、彼にとってはうざったく光っていた。


 大学に戻った二人は狂ったように共同研究に没頭した。


 研究室の隅、並べられたモニターだけが青白く光る密室。そこは、あの別荘の暗闇を再現したような、二人だけの聖域だった。


「敷波くん、このカットの輪郭。もっと鋭く、容赦なく引いて」


「......分かりました。でも、これだと、貴方の色が死んでしまう」


「死なせていいの。私が一番綺麗な色を乗せるから」


 点の指示は、常に絶対だった。


 それは、敷波の鋳型に、色鮮やかな真鍮を流し込むように。


 その艶やかな真鍮は、違和感を感じることもなく、敷波を魅了した。


 敷波は、黙って電子ペンを走らせた。


 彼は、自分の心血注いだ線の全てが、点の選ぶ鮮やかな色調によって塗られていくことに、奇妙な高揚感を覚えていた。


 自分の構図や線が目立たなくればなるほど、敷波の中で点の存在が肥大化していく。


 


 制作は数か月に及んだ。


 完成した映像作品は、もはや学生の課題という域を超えていた。


 それは、二人の関係を反映するように、禍々しくもあった。


 しかし見るものの脳を直接刺激するような、美しくもある傑作だった。


 


 そして迎えた、講評会。大教室の巨大なスクリーンに、二人の作品が映し出された。


 映像が終わり、数秒の静寂。その後、教壇に立つ老教授が、感極まったように声を震わせた。


「......素晴らしい。特にこの色彩感覚だ。この絶妙なグラデーション、現実よりも輝く、光の使い分け。君たちの才能と努力に脱帽するよ。ここまで人の心を揺さぶる『色』は近年見たことがない。」 


 教授だけではない。周囲の学生たちからも、感嘆のため息が漏れる。


「あの色使い、天才的だよね」


「ああ、上品な色だ」


 絶賛が、敷波の耳を素通りしていく。


 周囲学生たちが点に群がり、彼女の指先から魔法が生まれたかのように称える。拍手の波が寄せては返すたび、敷波の存在は教室の隅へ、さらに暗い場所へと押し流されていった。


「ああ......そうだ。やっぱり、点は太陽なんだ......」


 敷波は、自分の細い指を見つめた。


 自分がどんなに輪郭を描こうが、点の色彩が一度刺せば、その努力は全て背景へとなり下がる。


 彼女の光が強ければ強いほど、彼の影は色濃くなる。


 それは同時に、彼女がいなければ敷波は存在することさえかなわないという事実を突きつけていた。


 所詮、光を反射してようやく人間に見せかけてもらっている、出来損ないの月ですらなかったのだ。


 もし、ここで彼女が彼の手を離したら? 


 当然、太陽が沈めば、影は一瞬で消える。


「......点さん。行かないで」


 喧騒の中で、敷波の喉元まで出かかった言葉は、だれにも届かず飲み込まれた。


 劣等感という名の泥が、彼の全身を覆っていく。


 


 講評会が終わり、学生たちが散っていく中、点はまっすぐに敷波のもとに歩いてきた。


 多くの称賛を背負い、輝くような微笑みを湛えた彼女は、まさに太陽そのものだった。


「ごめんね~、質問攻めに合っちゃって」


 目の前の光を逃せば、敷波は二度と『人間』の形には戻れない。


「点さんがいなければ......僕は終わりです」


 絞りだしたその声は、祈りというより呪詛に近かった。


「だから僕の醜い線を一生、貴方が塗り潰し続けてください」


 点は一瞬驚いたように目を見開く。そしてその瞳に底知れない悦びの色を浮かべた。


 


 彼女は、望んでいたのだ。太陽がいなければ消えてしまう、自分だけの『影』を。




 講評会の喧騒冷めやらぬその夜、二人は帝国ホテルの最上階にあるプライベートダイニングに招かれた。


 招いたのは、作品制作への大口出資家であり、財界に隠然たる影響力を持つ男、勅使河原(てしがわら)だった。


「素晴らしい作品だった。点さん、やはり君の血筋はうそをつかない。お母様の審美眼を完璧に受け継いでいるといえるだろう」


 勅使河原は、敷波を視界の端すら入れず、金色の縁取りがされたワイングラスを傾けた。点は営業用の微笑を絶やさないが、その手はテーブルの下で敷波の膝を痛いほど強く握りしめていた。


「......ところで、そこの君」


 勅使河原がようやくメインディッシュのシャンピリアンステーキを咀嚼し終えたタイミングで、ゴミでも見るような薄い眼差しを敷波に向けた。


「敷波......君だったかな。ナプキンリングの外し方は分かるかな? ぼく」


 まるで幼児を扱うかのような口調で、ストレートな嫌味を敷波にぶつける。


「あと、君は作品のレイアウトや骨組みだけを描いているんだろう? 技術は認めるが、君の卑屈な線が、点さんの鮮やかな色使いを邪魔してると思わないかね? ん?」


「勅使河原さん、彼は私の......」


「点さん。君はまだ若すぎて、不純物の見分けができていない。......敷波君、君はどこの出だ? どんな劣悪な環境で育てば、あんな救いようのない泥のような線を引けるんだ?」


 敷波は目の前にある最高級の肉を、ただの『肉塊』として見つめていた。


 地下室に放り投げられた家畜の肉。コンクリートの冷たさ。自分を『モノ』として扱った飼育員たちの顔。


 それらすべてが、今、この豪華なシャンデリアの下で、勅使河原という男の姿を借りて蘇る。


「出身なら、地下です」


「ははは! 冗談もその程度にしたまえ。 地下街の貧民か? それとも戸籍すら怪しい流浪の民か? まさか、この名門校に君のような出所不明のものが混じっているとは、寄付金を出す身としては笑えない冗談だ。点さん、こんなガキと組んでいると君のキャリア形成に傷がつくぞ。」


 


 勅使河原は煙草をふかしながら、その灰を敷波の取り皿の端に落とした。


「君の代わりなど、いくらでもいる。この学校には、君より血筋の言い、清潔な線を引けるエリートが山ほどいる。点さん、どうだ、次はもっとふさわしいパートナーを紹介しよう」


 その瞬間だった。


 カチャリ、と鋭い音が、静かな店内に響いた。


 点が手にしていたクリストフルのシルバーを、真っ白なテーブルクロスの上に叩きつけるように置いたのだ。


「ふさわしい、パートナー?」


 点の声は低く、冷え切っていた。


 椅子の足が床の厚手のウールカーペットを擦りながら、点はゆっくりと立ち上がる。


「勅使河原さん。お言葉ですが、私の色の価値を決めるのはあなたではなく、私です。


......そして、わたしが唯一その美しさを許される場所は、貴方が言う卑屈な線の上だけなんです。ほかのどんなエリートも、私にとってはノイズです」


 「......なんだと? 君、自分が何を言ってるのかわかっているのか? 私の出資がなくなれば......」


「ええ、どうぞご自由に。出資も、家柄も、そんな退屈なものは差し上げます。......でも、私の輪郭は、だれにも渡さない」


 点は、敷波の顔をまっすぐに見つめた。


「敷波くん、行くよ!」


 点は、敷波の細い手首を、痛いほどの力で掴み上げた。


「......あ、点さん......」


「いいから。こんな、死んだ空気の中にいたら、私たちの色が濁っちゃう。帰ろう、私たちの家に」


 点は敷波を連れて、唖然とする勅使河原を残したまま、店を後にした。


 重厚な回転ドアを押し、一歩外へ出ると、日比谷の夜風が吹き抜けた。


「どこに行くんですか、私たちの家って」


「決まってるじゃない」


 点は、雨に濡れることも厭わず、敷波の手を引いて夜の街へと駆け出した。


 豪華な絨毯の感触も、ワインの香りも、権力者たちの称賛も、すべて背後に投げ捨てて。




 二人が目指すのは、あの埃っぽくて無機質な、けれど自由がある聖域だった。




 一時間半後。二人は大学の隅にある、暖房の効きが悪い研究室に逃げ帰っていた。


 濡れたマフラーをハンガーにかけ、点はポットのスイッチを入れる。ぼこぼこと沸騰する水の音が、沈黙を埋めていく。


「あいつ、ほんとにやばすぎ」


 点は、パイプ椅子に深く腰掛け、ふう、と大きなため息をついた。


 机の上に並んだのは、コンビニで買った安いカップラーメンが二つ。帝国ホテルで一口数千円したシャンピリアンステーキの代わりに、安い粉末スープの香りが部屋に立ち込める。


「点さん......僕があんな出身だから、あんな言われて。出資金、どうしよう」


 敷波は、割り箸を割る手さえも、まだ微かに震えていた。


「何謝ってるの。あんな成金、私一番嫌い。それよりみて、この茶色いスープ。私はポルチーニ茸のスープより、こっちの方が好き」


 点は笑いながら、プラスチックのフォークで麵をすすった。


「......点さん」


「敷波くん、あいつらはね、自分の地位が脅かされるのが怖いんだよ。下剋上をいつだって恐れて、現状に固執する」


 つまりそれは最高の作品をプロデュースしている勅使河原が脅えるほどに、敷波の作品が素晴らしいことを意味していた。


「点さん......僕は、怖かった。あの場所も、あの男の目も。僕みたいな人間が、足を踏み入れていい場所じゃなかったんだ」


 敷波は、プラスチックのカップから立ち上る湯気の向こう側を見つめながら、独白するように言った。


 「出資金が打ち切られたら、僕たちはもう、作品を作れなくなる。研究室も追い出されて、僕はまた、あの地下室のような何もない場所に逆戻りだ」


 麺をすする音が止まった。


 点は、割り箸をカップの縁に置き、ゆっくりと敷波の方を向いた。


「ねえ敷波くん。あいつさっき、なんて言ってか覚えてる? 君の線のことを。『卑屈』だって言ってたよね」


「......はい」


「それはね、君の線が嘘を暴くからだよ。勅使河原みたいな、ゼニアのスーツ着て、当たり障りのないことばっか言って、中身が空っぽな人間。君の剥き出しの真実は、自分の喉元に突き付けられたナイフと同じなの」


 点は椅子を引き寄せ、敷波の隣に座った。


 肩が触れ合う距離。


「出資金なんて、どうにでもなる。私の家には一生かかっても使い切れないくらいの資産がある。......でもね、敷波くん。そんな死んだお金で買う称賛なんて、私には一グラムの価値もないの。」


 点は敷波の手をそっと取り、自分のカップラーメンの容器に触れさせた。安っぽい発泡スチロールの、ざらついた温かさ。


「私はね、この100円のラーメンを美味しいって笑える君と、世界を敵に回したい。......君が輪郭を描いて、私がそこに色を置く。それだけで、私たちは既存のルールを全部ぶち壊せる。あいつらが必死に守ってる『伝統』も『家柄』も、君の線一本で、過去の遺物にできるんだよ」


 敷波は、隣にいる彼女の体温を服越しに感じていた。


 帝国ホテルで凍り付いていた心臓が、彼女の言葉という熱を帯びて、ドクン、と大きく脈打った。


「点さんと一緒なら、僕は自分の欠落すらも......武器だと思えます」


「武器じゃないよ。それは『聖域』。......私だけが、そこに色を塗る権利を持っているの」


 点は、敷波の震える指先に、自分の指を絡めた。


「約束して。これから何が起きても── 例えば、私の家族が君を排除しようとしても、世界が君を犯罪者扱いしようとしていても。君は私の描く檻に、一生閉じ込められていて」


「......はい。僕はあなたの色がないと、自分がどこにいるかもわからないですから。」


 二人は、冷めかけたラーメンのスープを交互に飲み干した。


 それは、どんなヴィンテージワインよりも深く、二人の血肉となって混ざり合った。


 窓の外には、雨が雪に変わり始めていた。


 これから始まる、勅使河原の執拗な『排除』の足音も聞こえないほど、二人は互いの吐息と、安っぽい粉末スープの匂いに没入していた。




 窓の外、雪が上野の街を白く塗りつぶしていく。


 その雪片を、大学の最上階にある理事長室の窓越しに、感情の消えた瞳で見つめている男がいた。


 勅使河原 明人。彼も点と同じく、白い無菌室の出生だった。


 三代続くエリートの家系に生まれ、アカデミズムの若き権威として君臨する彼は、その時、デスクに置かれた敷波のポートフォリオを、汚物でも見るかのような目で見つめていた。


 彼は、幼少期から「正解」しか出せない子供だった。


 点の邸宅から数キロと離れていない場所で、彼は点の幼馴染として育った。庭で共に過ごした時間、彼は常に、彼女が望む言葉、彼女の親が喜ぶ振る舞いを瞬時に計算し、完璧に演じてみせた。


「……結局、歴史は繰り返されるだけなのか」  


 独り言が、冷たい部屋に落ちる。  


 勅使河原は、デスクの引き出しから古い一冊の美術史を取り出した。


 かつて、カメラという技術がこの世に現れたとき、画家たちは皆、死を覚悟した。


 正確に風景を切り取る「機械」の前で、人間の筆など無価値になると信じられたからだ。  


 だが、現実は違った。  


 写真が「事実」を奪ったとき、人間は「抽象」へと逃げ込み、独自の価値を見出した。


 カメラには決して写らない、歪んだ内面、狂気、そして魂の輪郭を描くことで、人間は表現の座を死守したのだ。


 彼はプレイヤーとして、誰よりも速く、誰よりも精密に描くことができた。しかし、彼の作る世界には、人を狂わせるような「熱」も、魂を揺さぶるような「震え」も、何一つ宿らなかった。


 


「勅使河原くん。君の作品は、100点満点だ。だが……そこには『人間』がいない」


 かつて恩師に告げられたその言葉が、彼のプライドを内側から腐らせた。


 彼は自覚してしまったのだ。自分は最高のシステムにはなれるが、歴史を動かす表現者には、逆立ちしてもなれないのだということを。




 大学三年生の実習、アカデミズムの最終課題講評会。


 講堂は、次世代の「ブグロー」を目指す学生たちの熱気に包まれていた。だが、勅使河原の心だけは、冬の底のような冷たさに沈んでいた。


 彼はその日、完璧な作品を提出した。


 数式で解析し、黄金比に基づいた構図と、心理学的に最も安らぎを与える色彩設計。不備は一切なく、成績は大学始まって以来の記録を塗り替えた。


 


 モニターに映し出された彼の作品は、誰が見ても「完璧」だった。


 教授陣は口々に賞賛し、同級生たちは嫉妬に顔を歪めた。だが、特別講師として招かれていた、当時存命だった伝説的な編集者だけは、画面を一瞥したあと、深い溜息をついた。


「勅使河原くん。君は、自分の作品に殺されているね」


 その一言で、講堂の空気が凍りついた。


「この夢には、綻びが一つもない。君が計算し、君が制御した、非の打ち所がない『正解』だ。……だが、見てごらん。君の隣の、あの出来損ないの作品を」


 講師が指差したのは、別の学生が提出した、塗りミスだらけの、支離滅裂なアカデミズムの断片だった。技術的には落第点。しかし、そこには作り手の、誰にも言えないような「恥部」や「叫び」が、制御不能な色となって画面を焦がしていた。


「あっちには、人間がいる。だが君のこれには、システムしかいない。君が正解を求めれば求めるほど、そこから『君』という人間が消えていく。……君が作っているのは夢ではない。ただの綺麗な、死体だ」


 勅使河原は、その場で立ち尽くしていた。


 耳の奥で、自分の信じてきた世界が崩落する音がした。


 


 幼少期から、彼は常に「正解」を出すことで愛され、認められてきた。先代が築いた家系の中で、逸脱は死を意味した。だから彼は、自分の感情さえも「正解」に合わせて生きてきたのだ。


 その夜、彼は誰もいない実習室で、自分の作品を何度も、何度も再生した。


 何度見ても、それは完璧だった。


 しかし、何度見ても、そこには「自分」はいなかった。


 彼は泣くことさえできなかった。泣くという行為にさえ、「適切な場所」と「適切な理由」を求めてしまう自分がいたからだ。


(僕は、抽象を描けない。壊れることができないんだ)


 かつてカメラが風景を奪ったように、自分の精緻な技術は、いつか無機質なAIに取って代わられる。その恐怖を知りながら、彼は「正解」を出し続けることしかできなかった。


 だからこそ、後に敷波に出会ったとき、彼は叫び出したいほどの殺意を抱いたのだ。


 自分が二十年かけて「正解」を積み上げて築いた城壁を、敷波はたった一筆の、あまりに「人間的」な筆致で、土足で踏みにじっていった。


(敷波……。君は、僕が殺したはずの『僕』を持っている。……そんなこと、許されるはずがない)


 彼の大学時代の栄光は、そのまま、誰にも愛されなかった「機械」としての孤独の始まりだった。




 だからこそ、彼は「投資」という名の支配に走った。


 自分にはない魂を持つ、荒削りな才能を見つけ出し、自分の手足として管理する。それこそが、プレイヤーとして終わった自分が、この世界で唯一君臨し続けるための手段だった。敷波をこの大学に引き上げ、出資を決めたのも、当初はそのはずだった。


 だが、あの日。


 敷波が引いた、あの泥のような、死の匂いがする一本の線を見た日。


 勅使河原の中で、長く押し殺してきた「劣等感」という名の怪物が、初めて悲鳴を上げた。


 計算も、理論も、家柄も、すべてを無効化するような圧倒的な「線」。


 自分が二十年かけて築き上げた「正解の城」を、たった一筆で瓦礫に変えてしまう、呪われた才能。


 そして何より彼を狂わせたのは、自分に対しては一度も「本当の顔」を見せなかった点が、その薄汚れた、何一つ持たない男の前でだけ、震えるほど鮮やかな「生の色」を放っているという事実だった。


(なぜだ……。なぜ、あんなゴミ屑のような男に、君はそんな目を向けるんだ)


 勅使河原の指先が、怒りと恐怖で小さく震える。


「卑屈な線だ……」


 独り言が、冷たい部屋に落ちる。


 それは、敷波への評価ではない。敷波の才能の前に、己の空虚さを暴かれた自分自身への呪詛だった。


 勅使河原にとって、敷波はもはや「利用すべき駒」ではない。




 その「正解しか出せない」という呪いは、大学時代に始まったことではなかった。


 さらに遡る。記憶の深淵、まだ彼が「点」の隣で、無邪気な子供として笑うことを許されていた頃。


 点の邸宅の庭で、二人は並んで写生をしていた。


 近隣の住人たちの話し声が、遠くから聞こえてくるような、静謐で高貴な午後。


 青年の勅使河原は、目の前にある噴水の「正解」を描こうとしていた。


 水の屈折、光の反射、石造りの質感。彼は大人たちが喜び、画塾の教師が満点をつけるような、写真と見紛うばかりの緻密なデッサンを仕上げていた。


 


「見て、点。完璧だろう?」


 自信満々に声をかけた彼が、隣に座る点のスケッチブックを覗き込んだ瞬間。


 彼は、息をすることさえ忘れた。


 そこには、噴水など描かれていなかった。


 点は、キャンバスいっぱいに、ただ激しい「青」と、重なり合う「黄金色」を、まるで感情を叩きつけるように置いていた。


 それは写実とは程遠い、抽象の暴力だった。だが、その色使いを見た瞬間、少年の勅使河原の網膜には、噴水が太陽に透けるときの「眩しさ」や、水しぶきが肌に触れたときの「冷たさ」が、実物以上に鮮烈に突き刺さった。


 彼女は、形を描いているのではない。


 彼女は、その瞬間の「命の震え」そのものを、色彩として抽出していた。


(……勝てない。僕がどれだけ精密に線を重ねても、彼女の一塗りの『青』にさえ、届かないんだ)


 青年の心に、初めて黒い泥のような感情が芽生えた。


 周囲の大使や教授たちは、彼の絵を見て「将来有望だ」と目を細めたが、点の絵を見た瞬間、彼らは言葉を失い、ただただその色彩に「魅了」されていた。


 


 彼は、人々の称賛を集める「技術」を持っていたが、


 点は、人々の魂を奪う「神の色彩」を持っていた。


 彼はそれから、必死に彼女を模倣した。


 彼女がどの色を使い、どのタイミングで筆を置くのかを計算し、自分の「正解」の中に組み込もうとした。点に好意を抱いたのは、その美しさゆえだけではない。


 彼女の持つ、自分には一生手に入らない「色彩の真実」を、自分のものにしたかったからだ。


 だが、彼がどれだけ彼女を模倣し、家柄という共通言語で彼女に近づこうとしても、点の瞳の中に「勅使河原」という人間が映ることはなかった。


(点……。なぜ君は、僕が用意した完璧なパレットには目もくれないのに、あんな……)


 思考は、再び現在へと引き戻される。


 


 敷波という触媒を得て、点は初めて「自分のための色」を使い始めた。


 それは、勅使河原が人生のすべてを賭けても手に入れられなかった、点の「真実の開放」を意味していた。


「……僕が、君を完成させるはずだったのに」


 暗い理事長室で、勅使河原は自分の白い手を、万年筆のインクで汚れるほど強く握りしめる。


 幼い頃からの憧憬は、今や、自分を置き去りにして加速する二人への、破滅的な執着へと変質していた。


(敷波。……君を、消さなければならない。君という存在をこの世界からデリートし、君の引いたすべての線を、僕の完璧な理論で塗りつぶす)


 デスクの上のボタンを押し、彼は冷酷な声で秘書に告げた。


「敷波と点の籍を、今すぐ抹消しろ。……徹底的にだ」




 翌朝、大学の門をくぐると刺すような沈黙が彼を迎えた。掲示板の前には人だかりができ、スマートフォンを片手に視線をよこす学生たちの目は、昨日までの『畏怖』ではなく、害虫を眺めるような『嫌悪』になっていた。


 勅使河原がばら撒いた噂は、卑劣極まりないものだった。




『敷波は、幼少期の監禁事件の被害者ではなく、実は共犯者である。彼の描く禍々しい線は、被害者の断末魔をなぞった犯罪的快楽の産物だ。そして彼は今、点という名門の令嬢を、その特殊な人心掌握術によって精神的に支配している── 』




 ありもしない、けれど大衆が最も好む「スキャンダラスな物語」は、冬の風より早くキャンパスを駆け巡った。


「......おはよう、点さん」


 中庭で見つけた点の背中に声をかけたが、彼女に届く前に、黒塗りのセダン数台がその脇に滑り込んだ。


 車から降りてきたのは、大学の警備員ではなく、仕立てのいいスーツを着た、「実家の使い」と思われる男たちだった。


「離して! 触らないで!」


「お嬢様、学長からも許可はいただいております。今のお嬢様は、正常な判断ができていない。ご家族がお待ちです」


 点の叫びが、乾いた冬の空気に虚しく響く。


 敷波は駆け寄ろうとしたが、その行く手を阻むように勅使河原が立ちはばかった。


「近寄るな、敷波。......これ以上彼女を汚せば、君の『すべて』を警察に差し出すことになるぞ」


 勅使河原の冷ややかな笑いが、敷波の鼓膜を汚した。


 点は、一度だけ敷波の方を振り返り、何かを言おうとして......そのまま車の中へ押し込まれた。


 タイヤが砂利を嚙む音が遠ざかり、敷波は冬の太陽の下、一人残された。


 冬の大学のキャンパスを吹き抜ける風の音も、遠くでなるチャイムも、自分を指さして嘲笑う学生たちの声も、すべてが分厚い氷の上に沈んだように遠のいていく。


 視界が、急速に色を失い始めた。


 かつて地下室で見た、あの忌々しい灰色の濃淡が、現実の景色を侵食していく。


 アパートに帰り着いたのか、それとも道端で蹲っていたのか、敷波には記憶がなかった。気づいたときには、自宅の冷え切った床の上に転がっていた。


 暖房をつける気力も、照明を灯す知性も、すでに彼からは剥がれ落ちていた。


 暗闇な中で、敷波は自分の指先を見つめた。


 かつて、点という太陽を浴びて、確かに「人間」の血が通っているかのように見えたその指は、今や冷たい鉛の棒のようにしか見えなかった。


 腹が減る。だが、空腹感という生理現象さえも彼にとっては他人の体が起こしているようにしか思えなかった。


 机の上の、あの日のカップラーメンの空容器。


 彼女が触れ、最高の色と呼んだあの安っぽいスープの残り香。


 敷波は、その容器を抱きしめるようにして震えた。


「点さん......、点さん......」


 名前を呼ぶたびに、喉の奥が砂を噛んだように痛む。


 彼女という酸素を断たれた彼の肺は、呼吸するたびに「絶望」という名の猛毒を全身に送り込まれた。


 勅使河原が撒いた噂の毒は、敷波自身の内面を侵食し始めた。




『お前は不純物だ。人殺しの線しか書けない欠陥品だ』




 その声は、勅使河原のものだったかもしれないし、自分を地下に閉じ込めた飼育員たちのものだったかもしれない。


 敷波は、液晶タブレットの電源を入れた。


 せめて、彼女の輪郭を描こうとした。彼女という色を、この手で再現しようとした。


 だが、ペン先が画面に触れるたびに引き出されるのはどろりとした黒い泥のような線だった。


 「違う。こんなの、点さんじゃない」


 彼は狂ったように、描いては消し、描いては消した。


 画面は傷つき、ペンは折れた。


 自分を繋ぎ止めていた「理法」が、彼女の不在によって純粋な「凶器」へと塗り替えられていく。




 あれから三日目の夜、アパート空気は停滞し、冬の湿った冷気が床から這いあがって敷波の細い肢体を締め付けていた。


 彼は三日間、何も食べていなかった。胃が自分の内壁を削り取るような鈍い痛みさえも、もはや遠い国の出来事のように感じられる。


 彼は、吸い寄せられるようにデスクに向かった。


 震える指で液晶タブレットの電源を入れる。


 暗闇の中に、青白い光が爆発した。その光はあまりに暴力的で、敷波の網膜を刺し、逃げ場のない現実を照らし出す。


 画面に映っていたのは、あの日、点が連れ去られる前に直前までいじっていた製作途中のキャンバスだった。そこには、敷波が引いた執拗なまでの「黒い線」がのたうち回っている。そしてその線を、優しく、慈しむようあに包み込んでいた点の『藍色の色彩』が、デジタルデータとしてそこに残っていた。


「......ああ、点さん......」


 敷波は、画面に映るその『藍色』を指先でなぞった。


 だが、指に触れた瞬間、不可解なエラーが起きたかのように画面が乱れた。勅使河原が大学のサーバーを捜査してデータを遠隔操作し始めたのか、あるいは敷波の精神が限界を迎えて機材が悲鳴を上げているのか。


 画面上の藍色が、じわじわと黒い渦に侵食され、点の塗り残した「光」が次々と飲まれていく。


「やめてくれ......消さないでくれ! そこは、点さんの場所なんだ!」


 敷波は狂ったようにデジタルペンを握り、消えていく色を繋ぎ止めようとした。だが、彼が線を引けば引くほど、画面には不透明な灰色と、泥のような濁った色ばかりが溢れ出す。


 その時、視界が歪んだ。


 モニターの漆黒の渦の中から、ヘドロのようなものが溢れ出し、敷波の首に絡まりついた。 




『お前は汚い』


『点の人生から消してやる』




勅使河原の冷酷な声が、地下室の冷たいコンクリートの壁に反射するように増幅される。




(消される......。僕が、消されていく) 




 自分の腕を見つめても、そこには確かな肉体があるはずなのに、感覚がまるでない。


 点が与えてくれた体温が、指先から、心臓から、蒸発していく。


 彼女がいなければ、自分は誰にも認識されない無へ帰ってしまう。世界から自分の存在という「線」が一本残らず消去され、だれの記憶にも残らない空白へと変わってしまう恐怖。


「嫌だ......消えたくない......」


 喉の奥から絞り出した声は、ひどく掠れていた。


 底知れない消失への恐怖が彼を支配した。もしこのままで一人、色を失えば、自分は二度と人間に戻れなくなる。


「点さんに......会いたい」


 一度口にすると、その思いは決壊したダムのように溢れ出した。


 あの日、帝国ホテルから逃げ出した時の彼女の手の熱。研究室ですすったカップラーメンの、喉を焼くような安っぽいスープの温かさ。


 それだけが、自分がこの世に存在していい理由だった。


「点さんに会わなきゃ。僕が、僕でなくなる前に」


 敷波は、折れそうなほど細い体で立ち上がった。


 視界はまだちかちかとノイズが走っているが、その奥にある藍色の記憶だけを道しるべにする。


 敷波は、点にもらったあのマフラーを、顔に埋めるようにして強く巻き直した。かすかに残る、彼女の香水の匂い。


 それが暗闇に沈んでいた彼が掴んだ、唯一の蜘蛛の糸だった。


「研究室......あそこに行けば、まだ彼女の熱が残っているかもしれない」


 一刻も早く、彼女の欠片に触れたい。その一心で、敷波は夜の闇へと飛び出した。




 敷波は、泥を吸い込んだような足取りで、一人キャンパスへと向かっていた。


 昼間の喧騒が嘘のように静まり返った正門は、巨大な墓標のように立ちはだかっている。警備員の目を盗み、影に溶け込むようにして柵を越える。地下室で育った彼にとって、暗闇の中を音もなく移動することは、呼吸をするよりも容易なことだった。


 目指すのは、あの研究室。


 二人が最後に100円のカップラーメンを食べ、世界を塗り替える誓いを立てた、あの「聖域」だ。


 校舎の廊下は、月明かりさえ届かない完全な闇に支配されていた。


 自分の足音だけが、コンクリートの壁に跳ね返り、追いかけてくる。


 「卑屈な線」「地下室のネズミ」「ノイズ」。


 勅使河原の撒いた毒が、暗闇の中から幻聴となって敷波を責め立てる。彼は耳を塞ぎながら、狂ったように階段を駆け上がった。


 研究室のドアの前に辿り着く。


 けれど、そこにあったのは、冷たい真鍮の錠前と、一枚の「立ち入り禁止」の紙だった。


「……嘘だ」


 敷波は、扉に縋り付くようにして崩れ落ちた。


 勅使河原の権力は、もはや二人の思い出さえも「禁忌」として封じ込めていた。


 彼は懐から、隠し持っていた予備の鍵を取り出した。手が震えて、鍵穴にうまく差し込めない。金属が擦れ合う高い音が、静まり返った廊下に響く。


 ようやく鍵が回り、重くなったドアを開けると、そこには絶望的なまでの日常の残骸が広がっていた。


 月光が、カーテンの隙間から細いメスのように差し込み、部屋を切り裂いている。


 机の上には、あの日のカップラーメンの空容器が、そのままの形で残っていた。


 湯気はもう立っていない。粉末スープの匂いも、冬の乾燥した空気に奪われていた。


 敷波は、這うようにして椅子に座り、液晶タブレットの画面に触れた。


 冷たい。


 かつて、点の指先が触れ、熱を帯びていたはずのその画面は、今や死人の肌のように冷え切っていた。


「点さん……どこにいるんですか。色を......僕に色をください……」


 彼は震える手で、自分のペンを握った。


 画面を起動すると、そこには制作途中のデータが残っていた。敷波が引いた鋭い黒い線。そして、その上に点が置いた、透明感のある藍色のグラデーション。


 その色を見た瞬間、敷波の瞳から、それまで一度も出ることのなかった涙が溢れ出した。


 色が、痛い。


 彼女がいない世界で見る彼女の色は、救いではなく、自分を切り刻む刃だった。


 ふと、ゴミ箱の中に目が止まった。


 そこには、勅使河原の指示で破棄されたと思われる、二人のラフ画が、無造作に丸めて捨てられていた。


 敷波はそれを拾い上げ、破かないように、祈るように広げた。


 ぐちゃぐちゃに踏みつけられたその紙には、


「ドリームエディション(株)代表:敷波&点」


 という、落書きのような文字が残っていた。


 敷波はその紙を胸に抱き、声に出して泣いてしまった。


 「点さん......点さん......!」


 聖域は、すでに死んでいた。


 ここはもう、自分たちの居場所ではない。


 大学も、この東京も、勅使河原によって、自分たちの存在ごと塗りつぶされようとしている。


 (逃げなきゃ。点さんのいる場所へ)


 敷波は、ゴミ箱から拾ったその汚れた紙を、点に貰ったマフラーの隙間に隠し、再び暗闇の中へと駆け出した。




 背後で研究室のドアが閉まる音は、彼にとって「人間としての生活」との、完全な決別を告げる音だった。




 軽井沢へ向かう新幹線の車窓に映る自分の顔を、敷波は何度も嫌悪感と共に凝視していた。


 使い古されたコート、爪の間にこびりついた落ちないインク。この薄汚れた男が、点の別荘という「不可侵の領域」へ向かっている。その事実だけで、胃の奥が酸を吐くように焼けた。


 点の実家からは、明確な出入り禁止を言い渡されている。


 軽井沢駅に降り立った瞬間、冷たい風が「帰れ」と囁いているように感じられた。


(もし、そこに点さんがいなかったら。……もし、彼女の家族に捕まったら)


 タクシーを降り、街灯さえ途絶えた深い森の奥へと歩を進める。


 雪を含んだ重い空気が肺を圧迫し、一歩踏み出すごとに、自分の靴音が「不正侵入者」の罪を数え上げているようだった。


 辿り着いた別荘の門。


 闇の中に聳え立つその屋敷は、巨大な墓標のように静まり返っていた。


 敷波は門扉に手をかけたまま、数分間立ち尽くした。指先は寒さではなく、自分の身分不相応な欲望への恐怖で、感覚を失うほどに震えていた。


(僕は、何を期待しているんだ。彼女は、向こう側の人間なのに)


 絶望に近い不安を押し殺し、音を立てないよう庭を抜け、テラスの陰へと回り込む。


 死後の世界のように冷たい暗闇。その沈黙を切り裂いたのは、あまりに場違いな、凛とした「色彩」を感じさせる声だった。


「……遅ーい。待たせすぎ」


 心臓が肋骨を突き破るかと思うほど跳ね上がった。


 振り返ると、闇の濃度がそこだけ変わったかのように、椅子に浅く腰掛けた点がいた。


「て、点さん……」


「もう、寒いよ。……君は、私を殺す気?」


 点はゆっくりと立ち上がり、敷波の元へ歩み寄った。


 彼女の歩調には、迷いも、外界への怯えもない。自分を縛っていた家柄さえも、今の彼女にとっては脱ぎ捨てた古い衣に過ぎないようだった。


「……僕みたいな人間が、ここに来ていいのか、ずっと足がすくんで」


「君みたいな人間だから、ここに来てほしかったの」


 点は敷波の目の前で立ち止まると、その冷え切った彼の頬に、さらに冷たい、けれど熱を孕んだ指先を触れさせた。


 「ねえ、敷波くん。世間では、お互いの時間を独占し、互いの欠落を埋め合う関係のことを、便宜上『付き合う』って呼ぶんだよ」




「だから、私たちもその形を借りましょう。これは告白じゃないからね。......契約だから」


 


 敷波は、彼女の言葉の重さに息を呑んだ。


 愛している、という安っぽい言葉よりも、その「契約」という響きの方が、今の彼にはずっと救いのように聞こえた。


「契約……?」


「私たちは唯一無二の共犯者になるの」


 点は、敷波の震える手を掴み、自分の心臓の上に押し当てた。


 薄いドレス越しに伝わる、彼女の激しく、そして確かな鼓動。


「私のこの無菌室を、あなたの泥で汚して」


「汚します、貴方の世界も、心も、全部」


  敷波は、そのまま吸い寄せられるように唇を重ねた。


 触れた唇は、驚くほど冷たく、けれど一瞬で火がついたように熱くなった。


 世界が定義する「愛」などという、生温いものではない。それは互いの欠落を埋め合わせ、既存のルールを拒絶するための、血の入れ替えに近い接吻だった。


 ドレス越しに伝わる彼女の激しい鼓動が、敷波の指先に伝播する。


 点は、彼の首に細い腕を絡め、逃がさないように強く引き寄せた。彼という不純物を取り込むことで、ようやく自分は完成する── 。


 そんな確信に満ちた熱情が、二人の吐息を白く、濃く、闇の中に溶かしていった。


 唇が離れたとき、敷波の瞳には、先ほどまでの絶望は消えていた。


「これから世間が私たちをどう呼ぼうと、私たちの本質は共犯よ」


 二人は、軽井沢の冷たい闇の中で、最も深く暗い結合を果たした。




 二人が軽井沢の闇の中で共犯の契りを交わしていたその頃。


 深夜の大学、立ち入り禁止のテープが貼られたあの研究室に、一人の男がいた。


 勅使河原は、手袋をはめた指で、敷波のデスクの引き出しを荒々しく引き出していた。


 彼の目的は、二人が密かに進めていた「未完成のプロジェクト」の全データだ。


「……これだ」


 見つけ出したドライブを端末に差し込むと、モニターに、敷波の鋭利な線と、点の暴力的な色彩が混ざり合う、圧倒的な光景が広がった。


 勅使河原の顔が、モニターの青白い光に照らされ、醜く歪む。


「……素晴らしい。やはり君たちは、僕には一生たどり着けない、最高の正解だ」


 彼は知っていた。近々、大学の威信をかけて行われる「次世代エンジニアリング世界大会」で、自分が成果を残すことは、不可能だということに。


 恩師に言われた『綺麗な死体』という言葉が、今も彼の心臓を抉り続けている。


(敷波の『泥』を僕の理論で漂白し、点の『色』を僕の解釈で制御すれば……それは、歴史上最も完璧な『芸術』になる)


 彼は、二人の魂そのものであるデータを、フォルダへとコピーした。


 それは、表現者としての死を意味する「盗作」だった。


 だが、もはや勅使河原にはプライドなど残っていない。あるのは、自分を置き去りにした二人への、執着にも似た憎悪だけだ。


「敷波。この世の『正解』は僕が作る。君たちの思い出も、才能も、すべて僕が塗り潰して、僕の名で発表してあげよう」




 翌週。


 大学のメインホールには、世界中からメディアが集まっていた。


 壇上に立った勅使河原は、自信に満ちた微笑みを湛え、スライドを起動する。


「本日皆様にお見せするのは、歴史を塗り替える、我が大学の最高傑作……プロジェクト名『夢の福音』です」


 映し出されたのは、敷波と点から盗み、勅使河原が”修正”を加えた映像だった。


 会場からは、割れんばかりの拍手と感嘆の声が上がる。


 だが、勅使河原は知らなかった。


 敷波の引いたあの「死の匂いがする一本の線」は、他人が触れれば、その者の精神を蝕む猛毒へと変わることを。


 そして、点の置いた「色彩」は、敷波の「線」という檻がなければ、一瞬ですべてを焼き尽くす「業火」になることを。


 「── 以上が、私が提唱する『完全なる夢の調和』です」


 会場の照明が落ち、夢のデモンストレーションが始まった。


 観客たちがヘッドセットを装着し、勅使河原が「完成」させた偽物の理想郷へと没入していく。


 「これで、もう悪夢におびえる日々とはおさらばです」




 2440年、世界を覆っていたのは、終わりのないハイパーインフレーションだった。


 物価は高騰し、富は一握りの特権階級にのみ濃縮され続けている。


 物資の格差は、そのまま精神の格差となった。


 持たざる者たちは、日々の労働の苦痛と、報われない未来への不安を、睡眠という唯一の無料の逃避先に持ち込もうとする。


 だが、あまりに肥大化したストレスは、脳内で自己消化できずに鋭利な「共有される悪夢」として暴発し始めていた。


 


 それは、2438年の冬に起きた。


 インフレ率が年率500%を超え、パン一つ買うのに一掴みの札束が必要になった年。


 六本木ヒルズの周辺に築かれた巨大な防壁の外側では、失業者とホームレスが溢れ、彼らの脳内には「明日の餓死」への恐怖が、高濃度の毒素として蓄積されていた。


 その夜、港区の狭いカプセルホテルで一人の男が見た「悪夢」が、すべての始まりだった。


 男が夢の中で見た「業火に包まれる世界」という強烈なイメージが、人々を燃やす。


 それは、精神のウイルスだった。


 そのイメージは、同じく絶望の淵にいた近隣の数千人の脳に瞬時に「シンクロ」した。


 彼らは眠りながらにして、自分の隣人が焼かれる幻覚を見、その恐怖がさらに脳波を増幅させ、次の数万人へと感染していく。




「――あれは、ただの夢ではなかった。物理的な暴力だった」




 翌朝、都心の至る所で、数万人の人々が「眠ったまま」絶命しているのが発見された。


 死因は一様にショック死。あるいは、悪夢のあまりの恐怖に耐えかねた脳が、自ら心臓を止めた。


 


 さらに凄惨だったのは、生き残った者たちだ。


 彼らの脳には、他人の「死の瞬間の恐怖」が永久に焼き付けられ、現実と悪夢の境界を喪失。街中で、存在しない影に怯えて暴徒化する者が続出し、首都機能は一週間の間、完全に沈黙した。


 この悪夢のパンデミックこそが、インフレ社会が生んだ現代のペストであった。


 


 勅使河原は、勝利の確信と共に最後のスイッチを押し、会場のヘッドセットから「完璧な花園」の映像をクライマックスへと導こうとした――その時。


 


 勅使河原が、陶酔しきった表情で最後の実行キーを叩いた瞬間。  


 会場に流れていた完璧な花園の映像が、一瞬、ノイズのように歪んだ。


 そして、数千人の出席者の脳内に響いたのは、叫び声でも爆辞でもない。


 コン、コン、コン、コン……。  


 規則正しく、残酷なまでに正確な、時計が時を刻む音だった。


「なっ……なんだ、この音は! 音声ファイルにこんなものは入れていないはずだぞ!」


  狼狽する勅使河原を嘲笑うように、音は次第に大きくなっていく。


  出席者たちの視界。盗まれたデータの「理想郷」の真ん中に、アンティーク・クロックが巨大なホログラムのように浮かび上がった。  


『……勅使河原さん。あの日、私たちはその時計を「止めて」契約を結んだの』


脳内に響く、澄んだ、けれど氷のように冷たい声。


『あなたが盗んだそのデータは、私たちが止めた「死んだ時間」の集積。……でも、誰かさんが勝手に再生ボタンを押しちゃったから。……ほら、動き出しちゃった』  


 その瞬間、時計の文字盤が真っ黒に染まり、針が異常な速度で逆回転を始めた。    


 逆回転する針に合わせて、映像が「巻き戻って」いく。  


 花は枯れ、光は闇に吸い込まれ、漂白された「偽物の平和」が剥がれ落ちる。


 その下に隠されていたのは、勅使河原が必死に消し去ろうとしたものだった。


『これが、あなたが盗んだものの本当の形。僕たちが仕込んだのは、爆弾じゃない。……あなたがなかったことにした記憶を、元の場所に戻すための、ただのしおりです』  


 静かな声が、勅使河原の理性を断ち切る。  


 盗まれたデータは、単なる映像資料ではなかった。  


 二人があらかじめ「勅使河原の深層意識」に呼応するように設計した、一種の「鍵」だったのだ。  


 彼が自らの指でそのデータを再生した瞬間、データの「鍵」が勅使河原の脳の奥底に眠る隠蔽の扉をこじ開けた。


「ぐ......ぐあああああ!!」  


 勅使河原は、自分自身が隠し続けてきた過去の隠蔽や汚い資金工作が、数千人の意識と強制的に同期していく感覚に、悶え苦しみながら崩れ落ちた。  


会場の巨大スクリーンの中。


かつて彼が「卑屈だ」と蔑んだ黒い線が、今や勅使河原のプライドをずたずたに切り裂くナイフとなり、そこに鮮やかな赤が、逃げ場のない「罪の宣告」を塗りつけていく。


「……粋じゃないですね。他人の時間を勝手に動かすなんて」  


 ステージの袖から、影のように現れた敷波が、折れた万年筆を弄びながら冷たく言い放った。


「いたぞ!  あそこにいた!  追え!  何をしてる、拉致してでも連れ戻せ!!」  


 舞台の端、非常口の影に立つ敷波の姿を捉えた勅使河原が、形相を変えて叫んだ。  


 彼の合図で、黒いスーツに身を包んだ護衛隊が一斉に駆け出す。数千人の出席者が困惑し、悲鳴を上げる中、重い靴音が大理石の床を叩き、敷波を追い詰めていく。


 だが、敷波は逃げなかった。ただ、勅使河原を見つめていた。


 その瞳に宿る冷たい憐れみに、勅使河原は一瞬だけ足が止まった。


「……さよなら、勅使河原さん。あなたの『正解』は、僕が全部塗りつぶしておきましたから」


 敷波が非常扉の向こうへ消えると同時に、ビル中のシステムがダウンし、全ての隔壁が強制ロックされた。  


 護衛たちの荒々しい罵声が、閉ざされた扉の向こうで遠ざかっていく。  


 夜の有楽町。雨に濡れたアスファルトが、街の灯りを滲ませている。  


 追っ手を振り切り、ようやく辿り着いた高層ビルの屋上のヘリポート。


 そこには、赤いドレスの裾を風に靡かせた点が、一人で夜景を見下ろしていた。  


 敷波が背後から歩み寄ると、彼女は振り返り、悪戯っぽく微笑んだ。


「隔壁、ありがとう。時間ぴったりでした」


「お疲れ様、敷波くん。……いい『線』だったわ。会場中の脳が、あなたの絶望で震えてた」


「……点さんの方こそ。あんなに暴力的な色、初めて見ましたよ」  


 二人は並んで、2440年の歪な摩天楼を見下ろした。  


 インフレに喘ぎ、他人の悪夢に怯え、美しくも醜い世界。


「ねえ、敷波くん。……これで私たち、もうどこにも戻れなくなったわね」  


 点は、敷波の冷え切った指先を、自分の温かい掌で包み込んだ。  


 勅使河原を社会的に殺し、権力を敵に回した二人は、明日からこの世界の「正解」からはみ出した逃亡者だ。


 「戻る場所なんて、最初からありませんよ。……僕には、この地下室のような暗闇と、あなたが描く色があれば、それでいい」


 敷波がそう答えると、点は彼の肩にそっと頭を預け、宝石のような瞳を細めた。


「ふふ、そうね。……世界がどれだけインフレして、愛や命の価値が暴落しても。……私の『色』と、あなたの『線』だけは、誰にも買わせない。……絶対に」  


 二人の視線の先、有楽町の夜景が、まるで巨大なキャンバスのように広がっている。  今日から、この世界は彼らのものだ。




 数日後。熱狂と混乱の余韻が残る丸の内の喧騒とは対照的に、大学の評議会議事堂は死んだような静寂に包まれていた。


 重厚な扉の向こう側。かつて恩師と仰いだ教授たちが、冷徹な裁判官のような顔をして並んでいる。


 その中心には、包帯を巻き、憎悪で顔を歪めた勅使河原の父親——この大学の理事の一人が座っていた。


「敷波、そして点。……君たちの行為は、本学の品位を著しく汚し、公共の秩序を破壊した。よって、本日付で両名を除籍処分とする」


 宣告されたのは、この2440年の高学歴社会における「存在の否定」だった。


 除籍。それは単なる退学ではない。これまでの研究実績、取得単位、そして「正解のレール」に乗る権利、そのすべてがデータベースから抹消されることを意味する。


「……何か言い残すことはあるか?」  


 老教授の問いかけに、敷波は薄く笑った。


 彼は懐から、かつてこの大学に入学した際にもらった学生証を取り出し、迷うことなく床に放り捨てた。


「いいえ。ここで僕が描くべき『線』は一本も残っていませんから」


 隣に立つ点も、退屈そうにあくびを漏らし、ルージュの引かれた唇を吊り上げた。


「私の『色』を理解できない人たちに、私の未来を評価されるなんて、反吐が出るわ」


激昂し、机を叩く理事たちの罵声を背中で受け流しながら、二人は堂々と議事堂を後にした。


 キャンパスの正門を出た瞬間、背後で重い鉄扉が閉まる音が響く。


 二人の「身分」は、この瞬間に消滅した。肩書きも、住む場所さえも。


 インフレの嵐が吹き荒れるこの世界で、彼らは名実ともに無一文のアウトサイダーになったのだ。




 大学の正門を出た二人の前に、数人の投資家たちが「出資させてくれ」と群がってきた。


 彼らは札束と契約書を突きつけ、二人の才能を「商品」として管理しようと躍起になっている。


 だが、点はその中の一人が差し出した、数百万ドルの小切手を、指先で無造作に弾き飛ばした。


「勘違いしないで。あなたたちにできるのは、ただ私たちが作る『毒』を、喉を鳴らして待つことだけよ」


 敷波もまた、投資家たちの顔を一人ずつ、冷徹な目で見据えた。


「……誰かの金で描く線は、もう飽きたんです」


 呆然とする投資家たちを置き去りにし、二人は駅へ向かう雑踏の中へと消えていった。


 


 その夜、二人が辿り着いたのは、丸の内の片隅にある、取り壊し寸前の古い雑居ビルの一室だった。


 インフレの影響で放置されたその場所には、窓ガラスもなく、冷たい風が吹き込んでいる。


 敷波は、大学から持ち出した最低限のデバイスを、埃の積もった床に広げた。


「……ここからですね。点さん」


「ええ。最高のキャンバスじゃない。……何もない、誰もいない、私たちだけの暗闇」


 点は、寒さに震える自分の肩を抱く敷波の手を、ぎゅっと握り返した。


 彼らにはもうパトロンも、肩書きも、社会的な信用もない。




 あるのは、世界を屈服される黒い線と、魂を焼く赤い色だけだ。


 


 3日後、丸の内ヒルズの最上階に位置する空中庭園では、この世の春を謳歌する特権階級たちの忘年パーティーが開催されていた。


 会場を埋め尽くすのは、インフレの波を乗りこなし、他人の困窮を数字に変えて肥え太った亡者たちだ。彼らの脳内チップは、常に最新の「幸福感」を維持するためのアドレナリン調整機能が働いており、会場には不自然なほど明るい笑い声が響いている。


 その喧騒の中、一際目を引く紅いドレスを纏った女が、音もなく滑り込んだ。


 点だ。


「――あら、渋沢総裁。お久しぶりですわ」


 点は、グラスを片手に、白髪を完璧に整えた老人へと歩み寄った。日本中央銀行総裁、渋沢。勅使河原家が三代にわたって癒着し、この国の通貨価値を操作してきた張本人だ。 「……おや、勅使河原の息子が探していた『迷い猫』じゃないか。大学を辞めたと聞いたが、こんなところで何をしている」


「ふふ、迷い猫だなんて。私はただ、退屈な講義を捨てて、本物の『数字』を学びに出ただけですわ」


 点は、渋沢の耳元に顔を寄せ、密やかに囁く。その動作は傍目には親密な社交に見えるが、彼女のチョーカーに仕込まれた近距離スキャナーが、渋沢の首筋に埋め込まれた脳内チップの周波数を、猛烈な勢いで解析し始めていた。


 同時刻。丸の内の一角にある廃墟のような雑居ビル。


 敷波は、暗闇の中で青白く光るモニターに向き合っていた。


  点は、二回チョーカーを叩く。


 それは、脳内チップと接続(リンク)し、彼の脳内ログを流すという合図だった。


  点の耳飾りに仕込まれたイヤフォンから、会場の喧騒を突き抜けて敷波の声が届く。


「了解。……リンク確立。障壁が多いな……さすがは銀行総裁だ。脳に最高レベルの防壁を張っている」


 敷波の指が、キーボードの上で舞う。


 モニターには、渋沢の脳波が、無数の複雑な「黄金色の線」となって浮かび上がった。   「……見えた。渋沢の防壁の奥に、不自然な『空白』がある」


『空白?』


「ああ。……一年前、インフレによる餓死者が最大に達した週のログだけが、無理やり削除されている。……たぶん、彼が直接手を下した『通貨操作』の証拠だ。その罪悪感が、彼の脳内で重度の不眠症を引き起こしている」


 敷波は、その空白の輪郭を、鋭利な黒い線でなぞっていく。


 渋沢の脳は、その罪悪感を隠すために、膨大なエネルギーを消費し、自己崩壊の危機に瀕していた。


「……ねえ、渋沢さん? あなた、最近よく眠れていないでしょう?」


 点は、渋沢の瞳をじっと覗き込んだ。


 渋沢の顔が、一瞬だけ、恐怖で引き攣る。


「……何を、言っている」


「隠さなくていいわ。あなたの脳波は、悲鳴を上げているもの。……でも、安心して。私たちが提供するのは、あなたの罪を『なかったこと』にする、魔法の眠りよ」


 点は、指先で渋沢のジャケットの襟を整えるふりをしながら、小型の「誘導パッチ」をその裏側に貼り付けた。


 これで、敷波のコンソールから、いつでも彼の脳内へダイレクトにアクセスできる。 『敷波、準備はいい? ターゲットは今、私の手の中よ』


「……いつでもいけます。……彼が見ている『黄金の悪夢』を、僕の線で、終わらせてあげましょう」


 華やかなパーティーの裏側で、一国の経済を握る男の運命が、二人の天才によって静かに、そして残酷に上書きされようとしていた。




 渋沢の脳から吸い上げられた膨大な記憶のパケットが、敷波のモニター上で「黄金色の濁流」となって渦巻いている。


 それは2441年の経済を操る男の、強欲と保身、そして数万人を路頭に迷わせたという冷徹な罪悪感の澱だった。




「……敷波、始めて」


 雑居ビルに戻った点は、コートを脱ぎ捨て、敷波の背後に立った。


「……待ってください、点さん。まだ『解』が決まっていない」


 敷波はキーボードから手を離し、暗闇の中でモニターを見つめたまま動かない。その横顔には、いつにない迷いがあった。


「彼の罪は、この世界の歪みそのものだ。それを安っぽい『正解』で塗り潰してしまえば、彼は明日からまた、何も感じずに人を殺せるようになる。……僕が引きたいのは、そんな無機質な線じゃない」


 敷波がモニターを指し示す。そこには、渋沢が隠蔽した「餓死者の記憶」が、ノイズの混じった黒い染みとなって疼いていた。


「敷波くん、落ち着いて。……あなたの言いたいことはわかるわ。でも、私たちはボランティアで『真実』を暴いているわけじゃないのよ」


 点は、注がれた冷たい水を一口含み、敷波の肩越しにモニターを覗き込んだ。


「いい?  渋沢を完全に廃人にしてしまったら、誰が私たちの『ドリームエディション』を政財界に売り込んでくれるの?  彼には、明日も元気な顔で中銀総裁として君臨してもらわなきゃ困るのよ。罪悪感だけを綺麗に取り除いて、彼が『自分は救世主だ』と思い込めるような、輝かしい英雄譚を上書きしてあげればいい。それが一番、商売として『正解』なの」


「『正解』……。また、その言葉ですか」


 敷波の声に、棘が混じる。


「点さん、僕にとって編集とは、脳を都合よく書き換えるツールじゃない。……渋沢が犯した罪、その『痛み』を、彼は死ぬまで背負い続けるべきだ。僕が作るのは、彼が一生逃げ出せない、完璧なまでに整合性の取れた『美しい地獄』だ。……それこそが、僕の描くべき芸術だ」


「芸術で腹が膨れるとでも思っているの?」


 点は、グラスをデスクに置いた。その衝撃音が、狭い部屋に鋭く響く。


「はあ......敷波くん。あなたのその純粋さは、時にビジネスの邪魔になるわ。いい?  顧客が求めているのは、救済であって、あなたの作品を鑑賞することじゃない。彼を私たちの依存症にするのは賛成だけど、壊して使い物にならなくするのは、ただの損失よ。……私たちは、このインフレ社会の頂点に立つの。そのためには、あなたの芸術を、少しだけ『使い勝手のいい毒』に希釈してもらう必要があるのよ」


「希釈……? 僕の線を、薄めろと言うんですか」


 敷波の瞳に、激しい拒絶の光が宿る。


「僕は、勅使河原のような漂白された正解が嫌いで大学を捨てた。点さん、あなたとなら、真実の深層を曝け出せると思ったから、僕はここにいるんだ」


「ええ、そうね。だからこそ、私は貴方をプロデュースしているの。……あなたの深い絶望を、私が最高級の欲望としてラッピングしてあげる。……いい、敷波くん?  これは取引よ。渋沢の罪の『本質』は一欠片だけ残してあげて。それを核にして、周りを私の眩い色彩で塗り固める。……彼が、自分の罪を『聖なる犠牲』だと勘違いして、うっとりしながら私たちに貢ぎ続けるようにね」


 点は、敷波の硬直した指を、自分の柔らかな指先で解きほぐすように包み込んだ。


「……あなたの芸術性は守ってあげる。でも、経営は私に任せて。……いいわね?」


 二人の間に、冷たくも熱い火花が散る。


 敷波は、己の「線」を汚されることへの屈辱を感じながらも、目の前の女が示す「冷徹な現実(ビジネス)」に、抗いようのない魔力を感じていた。


 敷波の指がキーボードの上を猛然と滑り出した。モニターには、渋沢の脳波と「ドリームエディション」の編集コンソールが同期し、複雑な三次元の神経回路が浮かび上がる。


「……セッション開始。渋沢の防壁をバイパスします」


 敷波の引く「黒い線」が、渋沢の意識の最深部、あの重苦しい『餓死者の記憶』へと容赦なく突き刺さった。


 渋沢の脳波が激しく波打ち、モニターにアラートが点滅する。罪悪感という拒絶反応だ。


「敷波くん、 私の『色』を乗せるわよ!」


 点の叫びに合わせ、彼女が用意した「補完データ」が回路に流れ込む。


 渋沢が見ている視界――かつての冷酷な通貨操作の現場。累々と積み上がる困窮者の死体。その陰惨な光景が、点の放つ「目も眩むような黄金の色彩」によって、一瞬にして塗り替えられていく。


 敷波は、死体の一人一人の輪郭を鋭い線でなぞり、それを「未来のために捧げられた聖なる彫像」へと変質させていった。


 点はそこに、夕焼けのような温かい光と、教会の鐘の音、そして「これは、さらなる繁栄のための必要な犠牲であった」という、甘美で力強いプロパガンダの色彩を叩きつける。


「……ああ、なんて酷い。……でも、なんて美しいのかしら」


 点はモニターに映る「再構成された記憶」を見て、恍惚とした吐息を漏らした。


 渋沢の脳内では今、数万人の餓死という消し去りたい汚点が、国を救うための「偉大なる殉教」という神話へと書き換えられていた。


「……仕上げだ。点さん、あなたの言った通り、彼の罪の『核』を、喉元の棘として残します」


 敷波は、黄金に輝く英雄譚の奥底、渋沢の意識のほんの片隅に、たった一本の、細く、震えるような「黒い線」を隠し入れた。


 それは、どれだけ英雄として酔いしれても、ふとした瞬間に脳の裏側をチクリと刺す、拭えない違和感。


 


 この『黒い棘』がある限り、渋沢は自分一人の力では正気を保てなくなる。


 彼は定期的に「ドリームエディション」を訪れ、二人の『線と色』でその棘を麻痺させてもらわなければ、たちまち悪夢に引き戻されてしまうのだ。


「……編集、完了」


 敷波がエンターキーを叩くと、モニターの狂騒が嘘のように静まり返った。


 同時に、丸の内ヒルズの会場で気を失いかけていた渋沢が、大きく息を吹き返し、目を見開く。


 彼の瞳からは、先ほどまでの怯えが消え失せていた。


 代わりに宿ったのは、自らを救世主だと信じて疑わない、狂信的なまでの自信。


『……素晴らしい。……私は、間違っていなかった。……私は、この国を救ったのだ……』


 通信回線から漏れ聞こえる渋沢の独白。


 点は満足げに口角を上げ、敷波の椅子を自分の方へ向けさせた。


「完璧よ、敷波くん。……明日になれば、彼は自分が救われた感謝の印として、中央銀行の裏口座から私たちの法人へ、目も眩むような数字を振り込んでくる。……そして同時に、勅使河原家への資金提供を『公共の利益に反する』として打ち切るはずよ」


「……ビジネスとしては、これでいいんですね」


 敷波は自分の指先を見つめた。


 そこには、一人の男の魂を「壊しながら生かす」という、芸術的で残酷な手触りが残っていた。


「ええ。……これが、ドリームエディションのやり方。……救済を与え、同時に依存を授ける。……さあ、敷波くん。次のお客さまが、行列を作って待っているわよ」


 丸の内の夜景が、二人の足元で跪くように輝いている。




 二人の毒は、今この瞬間、上流階級という巨大な血管を通じて、この街の深層へと回り始めた。




 ドリームエディション(株)が丸の内の裏支配を盤石なものにしつつあった頃、市場(マーケット)に異変が起きた。


「……敷波くん、これを見て」


 点がホログラム・ディスプレイに投影したのは、最近ネットワークに氾濫し始めた「安価な睡眠パッチ」の広告群だった。


 そこには、かつての大学の研究室で二人が使っていたロゴを、巧妙に歪ませたような意匠が踊っている。


「『テシガワラ・メンタル・ソリューションズ』……。あいつ、僕たちの手法を丸ごとコピーしたつもりか」


 敷波が吐き捨てるように言った。


 勅使河原は、二人が大学を追われる際に残していった研究データの残滓と、渋沢の脳から逆探知した「編集ログ」を解析し、二人の『線と色』をAIでシミュレートした模造品を大量生産し始めたのだ。


 それは、敷波の鋭利な線をマイルドにし、点の毒々しい赤を誰もが好むパステルカラーに薄めた、「幸せのジャンクフード」だった。


「経済的戦争ね。あいつは資本力を使って、私たちの顧客層を根こそぎ奪うつもりよ。……『ドリームエディションの編集は脳に過度な負担をかけるが、我が社の製品は安全だ』……。各界の著名人を使って、そんなネガティブ・キャンペーンまで張っているわ」


 点は街の大型モニターを見上げた。  


そこには、勅使河原がパトロンを務める人気俳優が、清々しい顔で「最高の目覚めだ」と語るCMが流れている。


「……気持ち悪い。あんな『正解』しかない夢のどこがいいんだ」


 敷波は、市場に流出している勅使河原製のパッチを自分のデバイスに接続し、そのソースコードを解剖し始めた。


「……点さん。これ、ただの模造品(コピー)じゃない。……勅使河原は、僕たちの『編集』の本質を理解していない分、恐ろしいミスを犯している」


「ミス?」


「ああ。人間が脳内で処理すべきストレスや罪悪感を、ただゴミ箱に捨てているだけだ。短期的には多幸感を得られるが、中長期的には、脳内に『処理不能な精神の残骸』が蓄積していく。……このパッチを使い続ければ、いずれ顧客の脳は、溜まったゴミに耐えきれなくなって内側から爆発する」


 点は、その言葉にゾクゾクするような歓喜を覚えた。


「……あら。じゃあ、放っておけば勝手に自滅するわね」


「いいえ。自滅する前に、彼らは『ドリームエディション』のせいにする。……勅使河原は、自分の製品が引き起こすバグを、すべて僕たちの手法の副作用だとして世論を操作するつもりだ」


 二人のオフィスに、かつてないほどの緊張が走る。


 ビジネスとして顧客を奪い、経済的に干し上げる。そして技術的な欠陥をなすりつけ、二人の評判を地に堕とす。


 勅使河原が仕掛けたのは、二人の存在そのものを「悪夢」として定義し直し、社会から抹殺するための、冷徹な経済戦争だった。


「……面白いわ。偽物が本物を飲み込もうとするなんて」


 点は唇を歪め、不敵に笑った。


「敷波くん、あいつに教えてあげましょう。本物の『毒』を希釈して配るのが、どれほど恐ろしい結末を招くか。……市場に流れている彼の模造品を、彼の箱庭を地獄に変えてやりましょう」




 丸の内を見下ろす漆黒のオフィス。敷波の指先は、戦場を俯瞰する指揮者のように、無数のモニターの上で舞っていた。


「……始まったわね。勅使河原の『幸せのジャンクフード』。それでも、市場シェアは既に六割を超えたわ」


 点は、高価なルビー色のカクテルを揺らしながら、ネットワーク上の勢力図を見つめていた。画面上では、勅使河原派の顧客を示す青い点が、地図を塗りつぶしていく。


「ええ。……でも、その青い点は、すべて僕の『導火線』に繋がっています」


 敷波が不敵に口角を上げた。


 彼は、勅使河原の模造品が持つ致命的な欠陥――「脳内のゴミ(罪悪感)を処理せず、ただ隠すだけ」という特性を、完璧に理解していた。


 二人は、闇ルートを通じて、勅使河原のパッチに「更新プログラム」を密かに紛れ込ませた。それは、普段は何の害もないが、特定の周波数――敷波が発する「黒い線」の信号を受けた瞬間、溜まったゴミを一気に『悪夢』として再構築する起爆剤だ。


「まずは、この男から行きましょう。……勅使河原の筆頭後援者、不動産王の九条」


 敷波がキーを叩く。


 九条は今、自宅の最高級ベッドで、勅使河原の偽物の夢に浸りながら、自分が救世主であるかのような甘美な眠りについていた。


 しかし、敷波が引いた一本の「線」がネットワークを駆け抜け、九条の脳に届いた瞬間、黄金の夢は一変した。


 社会から隠されていた、地上げで自殺に追い込んだ家族の記憶が、点の描いた「腐敗した肉の色彩」を纏って、一気に噴出したのだ。


『……ぎ、ぎあああああ!!』


 九条は深夜の寝室で、自分の内側から溢れ出す真実の重みに耐えきれず、絶叫と共に失禁した。彼の脳は、もはや偽物の夢では癒やせないほど、二人の狂気に汚染されていた。


「次。……勅使河原に同調して、私たちを『危険思想』と叩いた経済評論家」


 敷波の手は止まらない。


 一人、また一人。


 勅使河原の息のかかった権力者たちが、最も信頼していた「安全なパッチ」によって、自らの深層意識に食い殺されていく。


 それは、外側からは一切見えない、静かな虐殺だった。


「ふふ……見て、敷波くん。勅使河原の顧客リストが、次々と『精神崩壊』の赤色に染まっていくわ」


 点は、モニターに表示された顧客たちのバイタルデータが、一様にパニック状態を示すのを見て、うっとりと目を細めた。


 彼らはもう、勅使河原の製品では救われない。


 彼らがこの地獄から逃れる唯一の方法は、ドリームエディション(株)にひれ伏し、彼らの芸術で脳を再手術してもらうことだけだ。


「……勅使河原は、自分が配ったパッチが、自分自身の首を絞める絞首刑の縄になるとは、夢にも思っていないでしょうね」


 敷波は、最後の一手として、勅使河原のメインサーバーへ向けて、巨大な「空の夢」を送り込んだ。


 


 顧客たちが次々と発狂し、責任を追及される勅使河原。


 資金は凍結され、信頼は失墜し、彼が築いた「正解の帝国」は、内側からボロボロと崩れ落ちていく。


「……これで王手です」


「ええ。……さあ、仕上げに、彼らから『最高の慰謝料』を回収しに行きましょうか」


 二人の影が、青白いモニターの光の中で重なり合う。


 


 この「経済的戦争」の果てに待っているのは、勝利ではない。


 丸の内という巨大な精神病院の、唯一の「医師」として君臨する、二人の王と女王の姿だった。




 丸の内の洗練された空気から遮断された地下鉄のトンネルを抜けると、そこには正解からこぼれ落ちた者たちの墓場が広がっていた。


 かつて秋葉原と呼ばれた街は、今や巨大なゴミ集積所と、違法なサーバーラックが複雑に絡み合う迷宮と化している。上空を覆う巨大な排気ダクトからは、常に重油と饐えた合成食品の匂いが混じった蒸気が噴き出し、太陽の光を完全に遮っている。


「……ここが、私たちの毒が濾過された後の、最後の『溜まり場』ね」


 点は、灰色のコートを深く羽織り、足元の泥濘を嫌悪感と共に避けた。


 この街で流通しているのは、本物の貨幣ではない。「夢の断片」だ。


 極端なインフレにより、本物の米や肉はもはや伝説上の食べ物となり、下層の住人たちは、一食分の栄養すら満足に取れない「灰色のゲル状食品」で命を繋いでいる。


「……見てください。彼らは、空腹を『食べている夢』で誤魔化している」


 敷波が指差した先には、錆びた配管に背を預け、虚空を見つめて笑う男たちがいた。  彼らの後頭部には、安価なプラスチック製の端子が乱雑に突き刺さっている。そこから伸びる細いケーブルの先にあるのは、勅使河原の模造品をさらに劣化させたような、粗悪な「合成夢パッチ」だ。


「……あれは、僕の引いた『美食の線』を無理やり引き伸ばして、ループさせている。……一時間の食事の記憶を、二十四時間に薄めて脳に流し込んでいるんだ。あんなことをすれば、脳の味覚中枢は一週間で焼き切れる」


 路地裏の至る所から、不自然な多幸感に浸る笑い声と、夢の同期に失敗して嘔吐する者の呻きが聞こえてくる。


 本物の睡眠を取る権利すら、ここでは剥奪されていた。


 彼らに許されているのは、安価な電磁波で無理やり脳をシャットダウンさせる「強制停止」か、あるいは二人が丸の内で売っているような「輝かしい虚構」の、ひどく濁ったコピーに耽溺することだけ。


 歩みを進める二人の前を、一人の少女が通り過ぎた。


 彼女の頬は痩せこけ、肌は日光を知らないために不健康なまでに白い。だが、その瞳だけが、異常なほどの熱を持って輝いていた。


「……赤。……きれいな、赤……」


 少女は、点のコートの裾からチラリと覗いた、彼女がかつて社交界で纏っていた紅いドレスの残影のような裏地を、震える指でなぞろうとした。


「……ねえ。あなた、本物の『赤』を知っているの? ……私が昨日の夢で見たのは、もっと黒くて、鉄の味がしたわ」


 点は、少女の言葉に息を呑んだ。


 自分が”芸術”として、あるいは”ビジネス”として選んだ色彩が、この地獄では唯一の『真実』として渇望されている。  


 少女が見ているのは、誰かが捨てた、あるいは勅使河原のパッチから漏れ出した、点の色彩の残滓だ。


「……敷波くん。……私たちの仕事は、この人たちの『安楽死』を手伝っているだけなのかしら」


「……いいえ。……僕たちは、この灰色の現実に耐えられない彼らに、唯一の慈悲を与えているんです。……それが、毒であっても」


 丸の内という「表の世界」では決して見えない、夢の消費の最果て。


 二人はこの灰色の街を歩きながら、自分たちが作り出した夢編集という技術が、すでに個人の復讐を超え、この世界の神経そのものを侵食し始めていることを、肌で感じていた。




 さらに路地の奥へと足を踏み入れると、もはや人間が生活する場所ではなく、そこはまさに使い捨てられた脳の集積所だった。


 壁のあちこちに、誰かが落書きのように描き殴った「ドリームエディション」の偽ロゴが歪んでいる。その下で、数人の若者と老人が、重なり合うようにして地面に転がっていた。


「……っ、これは」


 敷波は、思わず足を止めた。


 若者の一人が、白目を剥き、喉の奥でヒュッヒュッと奇妙な音を立てながら、指先を痙攣させている。彼の後頭部には、絶縁テープで無理やり固定された粗悪な変換器が刺さっていた。


 敷波は、背徳的なまでの好奇心に駆られ、自分の携帯端末をその安物のチップにシンクロさせた。


 モニターに流れてきたのは、ノイズにまみれた「かつての自分の線」だった。


「……ひどい。こんな……こんな繋ぎ方があるか」


 敷波の指が、怒りで小さく震える。


 彼らが見ているのは、敷波がかつて研究初期に描いた安らぎの波形や高揚のスパイクを、文脈を無視して無理やり継ぎ接ぎした、支離滅裂な「精神のコラージュ」だった。


 


 美しかったはずの曲線は、歪な角度で折れ曲がり、情報の過負荷で黒く焦げ付いている。それは、モナ・リザの肖像を切り刻み、ゴミ袋の中でシェイクして「さあ、笑え」と突き出すような、芸術に対する最悪の侮辱だった。




「敷波くん、見なさい。これがマーケットの現実よ。……あなたの『芸術』は、ここではグラム単位で切り売りされる安価な麻薬でしかない」


 点は、痙攣する若者の横を、汚れを避けるようにして通り過ぎながら、冷徹に言い放った。


「……点さん。僕は、こんなもののために、あの大学で線を磨いてきたわけじゃない」


「わかっているわ。でも、彼らは救いを求めているの。たとえそれが、あなたの美学を汚すような偽物であっても、この泥の中で笑えるなら、彼らは喜んで脳を焼き切る道を選ぶ」


 敷波は、地面に転がる老人の瞳を覗き込んだ。


 老人は、自分の子供を絞め殺している最悪の記憶と、敷波が描いた幸福な食事のデータが混濁し、もはや自分が何に対して笑っているのかも理解できていないようだった。


 敷波が誇りとしていた真実を暴く線は、ここでは真実を隠し、人間を家畜化するための「目隠し」に成り下がっていた。


「……勅使河原は、これを知っていて放置しているのか」


「放置どころか、供給源の一部は彼の傘下にあるわ。……本物のサービスを受けれない層を、この劣悪なコピーで飼い慣らしているのよ」


 敷波は、自分のデバイスでその粗悪なパッチの通信を強制遮断しようとして、踏みとどまった。


「......くそっ!!」


 今、この偽物の夢を止めてしまえば、この老人たちは直後に訪れる「空腹」と「後悔」という現実の重みに耐えきれず、その場で絶命するだろう。


 自分の芸術が、人を救うのではなく、人を「緩やかな死」に繋ぎ止めるための鎖になっている。


 敷波の胸の内に、言葉にならないドロドロとした葛藤が渦巻く。


「……点さん。……僕は、許せない。……僕の線を、こんなふうに扱う連中も……そして、こんなゴミを美しいと言って受け入れるこの世界も」


 


 饐えた匂いの立ち込める路地の角、錆びた配電盤の陰に、その少女は蹲っていた。


 年齢は十歳にも満たないだろうか。汚れにまみれた薄いシャツを纏い、剥き出しの足は寒さで青白く震えている。しかし、彼女の視線だけは、ある一点を狂信的なまでの熱量で凝視していた。


 彼女が見つめていたのは、壁に貼られた「ドリームエディション」の、雨風で色褪せた古い宣伝ポスターの剥がれ跡だった。


「……赤。……ここにも、きれいな、赤……」


 少女の呟きに、点は思わず足を止めた。


 少女の指が、ポスターの隅に残った、点が得意とする「真紅」のインク跡を愛おしそうになぞる。


「……ねえ。あなた、その『色』が何だか知っているの?」


 点は、汚れを気にするのも忘れ、少女の前に膝をついた。


 少女は怯える風でもなく、ただ夢遊病者のような瞳で点を見上げた。


「……知ってる。……夢の中でだけ、食べられるの。……すごく甘くて、少しだけ酸っぱい、魔法の果物。……『リンゴ』って言うんでしょ?」


 点は息を呑んだ。


 2442年のこの街で、本物のリンゴなど、中古の車に匹敵する価値がある。この少女がそれを口にすることなど、一生かかってもあり得ない。彼女にとっての「赤」は、敷波が闇市から回収してきた質の悪いコピーデータの中に、たった数フレームだけ混じっていた、断片でしかなかった。


「……そう。それが、あなたの知っている赤なのね」


「うん。……お姉さんのそのドレスの裏……夢の中のリンゴと同じ色がする。……ずっと、その色の中にいられたら、お腹が空くのも、パパが帰ってこないのも、怖くないのに」


 少女は、点のドレスの裾を、壊れ物を扱うようにそっと指先で触れた。


 その瞬間、点は自分の中にあった「色」の定義が、完全に崩壊した。


 自分にとっての「赤」は、政敵を誘惑し、渋沢のような権力者を支配するための「毒」であり、勅使河原を叩き潰すための「武器」だった。


 だが、この暗い泥濘の底で、その色は、少女が明日を生きるための唯一の「光」として崇められている。


「……敷波くん。……私は、この色を、ただのツールだと思っていたわ」


 点は、少女の手をそっと握りしめた。その小さく冷たい手の感触が、点の心臓を直接掴む。


「……私の色が、この子の世界では唯一の真実......。現実のリンゴよりも、この子が夢で見る私の『赤』の方が、彼女を支えている。……なんて傲慢なことかしら」


 点は、自嘲気味に口角を上げた。


 自分の色彩が他人の魂を救っているという事実は、高潔な点にとって、感謝される喜びよりも、他人の人生を不当に「買収」してしまったような、深い罪悪感となって突き刺さる。


「……いいわ。……敷波くん、あなたの端末を貸して。……この子に、本物の『紅』を教えてあげる。……偽物のコピーなんかじゃない、私が命を削って作った、最高の夢を」


「点さん、それは……今の僕たちの位置を特定されるリスクがあります」


「構わない。……私の色が、この子の現実を壊してしまう毒だとしても……せめて死ぬほど甘い毒を、一滴だけ残してあげたいの」


 点は、敷波から受け取ったデバイスに自分の脳波を直結させた。


 彼女の脳内にある「究極の赤」が、ネットワークを通じて、少女の安っぽい端子へと流れ込む。


 少女の瞳が、一瞬にして鮮やかな光を取り戻した。


 彼女は、生まれて初めて「本物の色彩」に触れ、頬を紅潮させて、天を仰いだ。


「……あ……あ……っ」


 言葉にならない歓喜の声。


 点はそれを見届け、一度も振り返ることなく立ち上がった。


 背後で、少女はもう現実の景色を見ていない。彼女は今、点の描いた「永遠に腐らない、美しいリンゴ」の檻の中に、幸せに囚われてしまったのだから。




その日の朝、丸の内ヒルズにある二人のオフィスの重厚なドアを、叩き割らんばかりの勢いで拳が打った。


 現れたのは、日本中央銀行総裁・渋沢だった。


 数日前、パーティー会場であれほど威厳を保っていた老人の姿はどこにもない。髪は乱れ、高級なスーツの襟はよれ、その瞳は血走って虚空を彷徨っている。


「……編集してくれ! 頼む、もう一度、あの『黄金の夢』を見せてくれ!」


 渋沢は、部屋に踏み込むなり敷波のデスクに縋り付いた。


 敷波が脳内に残したあの「一滴の黒い棘」が、彼の神経を内側から削り始めていたのだ。一度「正解」を与えられた脳は、もはや自力で現実の重みに耐えることはできない。 「総裁、落ち着いてください。私たちはボランティアではないと言ったはずです」


 点は、デスクに置かれた高級な革椅子に深く腰掛け、脚を組んだまま冷たく言い放った。


 その指先には、すでに渋沢が「救済の対価」として振り込んできた、天文学的な数字の入金通知が握られている。


「金ならいくらでも出す! 予算も、特権も、君たちの望むままに用意しよう!  だから……あの地獄(現実)から、私を連れ出してくれ!!」  


 渋沢が床に膝をつき、二人に頭を垂れたその瞬間。


 オフィスの外の廊下には、すでに次の「患者」たちが列を成していた。


 渋沢の豹変は一晩で「聖人」のような自信を取り戻し、同時に特定の個人に依存し始めたその姿を、丸の内のハイ・ゲートたちは見逃さなかった。


 次に部屋に入ってきたのは、次期首相候補の代議士だった。


 その次は、巨大コンツェルンの女帝。


 さらにその次は、最高裁判事。


「……敷波くん、見て。『正解』たちが、こぞって自分たちの魂を売りに来ているわ」


 点は、ひっきりなしに鳴り響く予約通知の電子音を、まるで心地よい音楽であるかのように聞き流しながら、カクテルグラスを傾けた。


 敷波は、モニターに映し出される彼らの脳波ログを無表情に見つめていた。


 彼らが求めているのは、もはや解決ではない。自分たちの犯した罪や、抱えきれない不安を、敷波の「線」で美しく削ぎ落とし、点の「色」で麻痺させてもらうという「至高の依存」だった。


「……滑稽ですね。この国を動かしているはずの連中が、僕たちが作るたった数ギガバイトの『嘘』なしでは、立っていることすらできないなんて」


 敷波の指が、淡々とキーボードを叩く。


 一人、また一人と、東京の支配者たちが診察台に横たわり、二人の共犯者となっていく。


「ドリームエディション(株)」の口座には、秒単位で莫大な富が蓄積され、同時に、丸の内のあらゆる機密と「首輪」が二人の手元に集まっていく。


「……これでいいわ、敷波くん。……世界が私たちの『毒』を求めて行列を作っている。……勅使河原がどれだけ喚こうと、もうこの流れは止められない」


 点は、窓の外に広がる灰色の下層街を見下ろした。




 渋沢という巨駒を手に入れ、勝利を確信した夜。


 丸の内を見下ろす二人のオフィスに、突如としてそれは現れた。


「――甘いな、敷波。そして、点」


 スピーカーから響いたのは、デジタル合成された勅使河原の声だった。


 その瞬間、敷波が心血を注いだコンソールが火を吹き、蓄積された「権力者たちの弱み」が、目の前で次々と砂嵐へと変わっていく。


「なっ……バックアップが、書き換えられて……!? 外部からのアクセスは遮断していたはず!」


『君たちが夢に溺れている間に、私は「現実」のルールを書き換えた。……渋沢の脳に仕込んだ「棘」、あれが私の発信機になるとは思わなかったかい?』


 モニターに映し出されたのは、血を流しながら笑う勅使河原の顔。


 彼は自らの脳の一部をチップ化し、二人の編集を逆探知する「生きた罠」として渋沢を差し向けていたのだ。


 ビルの外では、複数の制圧ヘリがその銃口を二人のオフィスへと向けている。


「敷波、逃げて……! ここはもう、私たちの聖域じゃないわ!」


 点が叫ぶのと同時に、オフィスに閃光弾が投げ込まれた。


 視界が真っ白に染まり、炎の中で、点が誰かに引きずられていく影が見えた。


「点さん……! 点さん!!」


 叫び声は、爆音にかき消された。


 二人が築き上げた帝国が、灰色の煙に巻かれて崩落していく――。


 ……。


 …………。  


 ハッと、敷波は目を開けた。


 そこは、2442年の廃墟ではない。


 2051年、一月一日。現代の東京。静まり返った仕事部屋。   


 先ほどまでの光景は、過去の記憶か、あるいは――。


 


 深い、泥のような眠りの底から、敷波を引きずり出したのは、冷たくて甘い気配だった。


「……ねえ、敷波くん。そろそろ起きて。依頼してくれた人が、もう待ちきれないって」


 耳元で囁く声。視界がゆっくりと開くと、そこには2451年の丸の内を支配する美しき女王――点の顔があった。


 ぼやけた視界の中で、彼女の纏うドレスの「紅」だけが、網膜に突き刺さるような鋭さで揺れている。


「……点?」


 敷波は、割れるような頭痛を抑えながら、硬いソファから上体を起こした。


 全身が、ひどく重い。まるで数日間、休まずに走り続けた後のような、形容しがたい疲労感が筋肉の芯にこびりついている。


「……僕、どれくらい寝てました?」


「ずいぶんぐっすりだったわよ。1月1日の午前1時に気絶するように眠ってから、今まで一度も目を覚まさなかった。丸20時間。……お正月を丸ごと夢の中で過ごすなんて、贅沢なことね」


 点は、デスクに置かれたクリスタルグラスの水を敷波に手渡した。


 1月1日、21時。


 窓の外には、インフレの極致にある丸の内の夜景が、冷徹な宝石箱のように広がっている。


「……1時……」


 敷波は水を飲み干し、記憶の断片を繋ぎ合わせようとした。


 年末の社内表彰式、そして……。


 その先にあるはずの、昨日(元日)の記憶が、霧に包まれたように真っ白に抜け落ちている。


「……ごめん、まだ頭が回らない。依頼人っていうのは?」


「例の、年末に社長からメールが来てた案件よ。彼、相当参ってるわ。今日一日の間に、何度もここに連絡を入れてきた。……『あの光景が、どうしても脳から消えない。助けてくれ』って」


 点は、コンソールの脇に設置された「新しいデバイス」に指を這わせた。


 それは、小さな、見慣れないランプの付いた機械だった。


「そうだ敷波、これ、誕生日のプレゼント。……後で説明するけど、今日の編集から使ってみて。貴方が、自分自身に呑まれて壊れないように、私からの気持ちよ」


「……ありがとう。……助かるよ」


 敷波は、そのデバイスが何であるかも、なぜ今それが必要なのかも深く考えないまま、フラつく足取りでメインコンソールの前に座った。


 彼にとって、1月1日は誕生日であると同時に、世界で最も孤独な日だ。


「……よし、セッションを繋いで」


「了解。……セッション、開始よ」


 敷波はヘッドセットを装着し、意識をネットワークの海へと沈めた。


 彼はまだ知らない。


 点からのプレゼント――「赤いランプ」が、彼の座るコンソールの端で、静かに獲物を待つ蛇のように、明滅の準備を整えていることを。




 敷波は、点が開発した編集用インターフェース『グラフペン』の端子を、自身のこめかみと右手の甲に固定した。


 このツールは、脳内のイメージを直接、デジタルの「線」として出力する。画面を介する必要はない。敷波が指先をミリ単位で動かすだけで、依頼人のニューロンに刻まれた記憶の断片を、外科手術のように切り取ることができた。


「……接続、開始」


 敷波の脳内に流れ込んできたのは、依頼人が一年前の12月31日に、市ヶ谷の中華料理店の裏で目撃した生々しい記憶データだ。


「またこれね......」


 敷波が見ている視界を、点も隣のモニターで見る。


 視界は、依頼人が厨房のダストシュート越しに覗き見ていた、歪んだアングル。


 あの薄暗い路地。湿ったコンクリートの質感。


 すると、髭面の男が中華料理店の裏に現れた。


 髭面の男を見つけたと同時に、彼のもとに華奢な男は全力で走っていく。




 鈍い音が、スピーカーから漏れる。肉を断ち、骨に突き当たる、湿り気を帯びた音。


 走りながら右手から取り出したそのナイフが、髭面の男の体を貫いた。




 その男の頸動脈からは、凄まじい勢いで「液体」が噴き出していた。


 雪で湿った地面が瞬く間に、どす黒い濡れ色に染まっていく。


 みぞれ混じりの冷たい風が吹き抜け、錆びた看板が小さく鳴っている。


 「この重油のような液体を、まず取り除かないと」


 敷波は、右手の指先に絶対的な支配を感じていた。


 彼が指を数ミリ、左へ払う。


 それだけで、依頼人の脳にこびりついていた「男が絶命する映像」の輪郭が、音もなく削ぎ落とされていく。


 敷波は迷いなくグラフペンを走らせた。


 噴き出す血の量を、ゼロに。


 苦悶に歪む表情を、穏やかな寝顔に。


 


 その瞬間。


 バチッ、バチッ、とコンソールの端で、点からのプレゼントである「赤いランプ」が爆ぜるような光を放った。


(......噓でしょう?)


 コンソールの隣で、点は息を止めた。


 編集者の主観が混入しているという、致命的なエラーの警告。


 点がこのデバイスを贈ったのは、敷波が他人の悪夢に深く入り込みすぎた際、彼自身を見失わないための「命綱」にするためだった。彼を愛するが故の、優しさだった。


 それなのに。


 ランプは狂ったように鮮烈な、そして絶望的な「赤」を放ち続けている。


 敷波がペンを動かすたびに、光はその輝きを増していく。


 それは目の前の愛する男が、今まさに自分の手で「自分の犯した殺人」を「他人の記憶」として隠蔽していることを示す、動かぬ証拠だった。


「……よし、いい線だ」


 指先一つで、一体の死体を、ただの『眠る老人』という静止画に作り変えた。


 


 背後で、点が震える手で自分の口を覆った。


 


 部屋中が、ランプの放つ暴力的な「赤」で塗りつぶされている。


 


 敷波が依頼人の脳内にある「犯人の動き」のログを修正しようとした瞬間、ノイズが消えるどころか、異常なほどスムーズに、まるで磁石が引き合うように『線』が吸い込まれていった。




 赤いランプは、光り止まない。




 通常、他人の記憶をいじる際は、本人の認識との「ズレ」が生じ、多少の抵抗があるはずだ。しかし、この依頼人の視覚野は、敷波が引く「殺害の軌道」を、まるで自分の筋肉が覚えている動きであるかのように、完璧な精度でトレースしている。


 敷波は、現実の静寂へ、意識が戻る。


「……終わった。……酷いセッションだったよ、点」


 敷波はヘッドセットを外し、荒い呼吸を整えながら椅子に背を預けた。


 隣では、点が彫刻のように動かずに座っている。その足元では、先ほどまで狂ったように明滅していた「赤いランプ」が、役目を終えたように黒く沈黙していた。


「……お疲れ様、敷波くん」


 点の声は、冬の深夜の空気よりも冷たかった。




 翌日、それは突如として訪れた。


 丸の内の自宅兼仕事部屋には、何事もなかったかのような静寂が戻っていた。


 敷波は、昨日の編集結果に満足していた。


 すると突然インターフォンが鳴り、見知らぬ男が立っていた。


「……予約外の客か。誰だろう」


 敷波がドアを開けると、そこには晴れやかな表情をした男が立っていた。


「……先生。どうしても、直接お礼を言いたくて」


「......もしかして依頼の方?」


 男は深々と頭を下げた。


「先生、ありがとうございます。あの日、あの中華料理店の裏で、私がゴミ捨て場の陰から見てしまったあの恐ろしい人殺し……。あの光景が、今はもう、ただの遠い夢のように思えるんです」


 男は、自らが目撃者だと言い放ったのだ。


 この男は世界中のどこへ行っても消えないその恐怖を抱えて、この『ドリームエディション(株)』に辿り着いた。殺人を見てしまった人が、最高のセラピーを求めるのは、至って自然な流れだった。


「ようやく思い出せました。あの時私はただ、震えながら見ていただけだった。あ、そうそう。あの被害者の勅使河原とかいう犯罪人、ここだけの話、本当に死んでよかった。そう思いますよね」


 男は晴れ晴れとした顔で、もう一度頭を下げて去っていった。


 パタン、とドアが閉まる。


 敷波は、自分の右手をじっと見つめた。


 指先に残る、グラフペンの滑らかな感触。


 あの日、自分が市ヶ谷の裏路地に引いた、迷いのない一筋の「死の線」。


 それを、あの男はゴミ捨て場の影から、網膜に焼き付けていたのだ。


 敷波は手を見つめながら部屋に戻ってしまった。


 玄関先に残された点は、独白した。




「貴方は......赤が見えないのね」




 敷波が「赤」を失ったのは、天性のものではない。


 幼少期。逃げ場のない地下室。


 そこで見た光景が、彼の赤色を感じ取る網膜を、永遠に焼き切ったのだ。


 目の前に広がる、溢れんばかりの、粘り気を帯びた「赤」の洪水。


 それが誰の血だったのか、もはや思い出すこともできない。


 ただ、あまりにも暴力的なその色彩が、幼い彼の世界を埋め尽くしたとき、脳が生存本能として、その色を「拒絶」した。


『――見たくない。こんな汚い色、消えてしまえ』


 その瞬間、世界から赤という赤が消えてしまった。


 以来、彼にとって世界は「色」という感情を排した、純粋な「幾何学」の集積へと変貌したのだ。  


 彼が「線」という骨組みに異常なほど執着したのは、色という不確かな要素を感じれないためだった。


 彼はそもそも、線しか描くことができなかったのだ


 そして、自分には見えない「色」という不確定要素を管理するために、点は不可欠な存在だった。


 「敷波......」


 点が、彼の名前を呼ぶ。


 彼が自らの罪を「赤」として認識できないのであれば、点が一生、その色を彼から隠し通せばいい。


 彼が描き続ける冷徹な輪郭の上に、点が「正しい幸せの色」を何度でも塗り重ねてあげればいい。


「ねえ敷波、ランプ、光らなかったね。流石じゃん」


「ああ。本当に、点が僕のために作ってくれたこのランプのおかげだ。一回も光らない。それが、僕にとっては何よりの救いだ。……僕は、間違っていなかったんだって......そう、思えるから」


 点は、彼が見ることのできない鮮烈な赤を纏い、敷波の背後にそっと寄り添った。


 


「......点。僕、少し、書き間違えてしまいました」


 敷波は、自らの業を、デッサンの些細なミスであるかのように静かに告げた。


「塗り潰してくれますか?」

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真っ赤な嘘 山中康生 @KoseiYamanaka

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