乾いた模造獣〜Reason,are you wet?〜
火之元 ノヒト
第1話 漂白された獣と、匂いなきシミ
無機質な排気音が、白い路地に響いた。
それは浄化の音であり、この都市が最も愛する理性の呼吸音だった。
「対象、生体反応停止。フェロモン濃度、規定値以下まで低下」
ガスマスク越しのくぐもった声が、インカムを通して鼓膜を震わせる。
イグナーツは、手に持っていた大型の
足元には、一人の男が転がっていた。
筋骨隆々とした巨躯。しかし今は、高電圧のスタンバトンで痙攣し、口からだらしなく泡を吹いている。
男のアルファだ。数分前まで
だが今、その股間は哀れなほど濡れていた。強制排尿させられたのだ。彼が腰に巻いている分厚い金属製の
「……汚らわしい」
イグナーツはマスクの下で吐き捨てた。
アルファは優秀な労働力だが、ひとたび理性のタガが外れればただの獣だ。股間の肉塊に振り回され、社会を汚す害虫。
イグナーツのブーツの先が、アルファの脇腹を小突く。
これほどの筋肉を持ちながら、たかが性欲ごときに支配され、地べたを這いつくばる。なんて無様なのか。
(僕とは違う。僕は選ばれた種だ)
イグナーツは、アルファベータである。
アルファの強靭さと、ベータの理性を併せ持つよう設計された新人類。
目の前の獣のように発情に狂うことはない。貞操帯の着用義務もない。彼はこの都市の治安を守る「ホワイト・スイーパーズ」の中隊長として、感情を持たない執行者として君臨している。
「回収班、この肉塊を処理施設へ。洗浄後、再教育センターだ」
「了解」
部下たちがアルファを引きずっていく。イグナーツはふと、自身の股間に手をやった。白い制服のズボンの下。そこに貞操帯はなく、自由がある。
だが、その自由な空間に収まっているのは、アルファのそれとは比べるべくもない、親指ほどの大きさの肉だ。興奮しても握り拳大になどならない。獣のような麝香も発しない。消毒液と、乾いた紙のような匂い。それが彼のフェロモンだ。
「……行くぞ。B区画の地下水路に、未登録の生体反応がある」
イグナーツは湧き上がる劣等感をねじ伏せるように、冷徹な声で次の命令を下した。
◇
コラード・シティの地下には、地上とは真逆の世界が広がっている。
白く清潔な地上に対し、地下水路は湿り気とカビ、そして廃棄物の臭いが充満する闇の世界だ。ここには、社会から弾かれた
イグナーツは単独で、反応のあったエリアへと足を踏み入れた。
暗視ゴーグルの緑色の視界の中、汚水が流れる音が反響する。
壁には「理性省死ね」「本能万歳」といった稚拙な落書き。イグナーツは舌打ちをした。こういう無意味な感情の発露こそが、文明を遅らせるのだ。
ピッ、ピッ……。
手元のスキャナーが反応を強める。近い。
イグナーツは焼却吸引機を構えた。火炎放射モード、スタンバイ。
角を曲がった先、行き止まりの空間に、それはいた。
廃棄された巨大な浄化ファンの残骸の上。
一人の女が、足を組んで座っていた。
「動くな。治安維持局だ」
イグナーツは銃口を向け、鋭く警告した。
女は逃げようともせず、ゆっくりと顔を上げた。
暗い空間で、彼女の存在だけが奇妙に浮いていた。汚れているはずなのに、汚れていない。
何より奇妙なのは――彼女からは匂いがしなかった。アルファの刺激臭も、オメガの甘い芳香も、ベータの生活臭さえもしない。まるで、そこだけ真空になっているかのような虚無。
「……抵抗すれば焼却する。IDを提示しろ」
「あら。暑苦しいご挨拶ね」
女がくすりと笑った。
その声は、耳ではなく、脳の奥の柔らかい部分を直接撫でるような響きを持っていた。
イグナーツは背筋が粟立つのを感じた。恐怖ではない。もっと原始的な、理解できないものへの警戒感。
女は、銃口を向けられたまま、ふわりとファンの上から降り立った。
無防備な歩調で、イグナーツへと近づいてくる。
「止まれと言っている!」
「いい匂いね」
女は立ち止まらず、鼻をひくつかせた。
「……え?」
「消毒液。それに、乾いた紙の匂い。埃っぽい部屋の隅っこみたいな……一生懸命で、寂しい匂い」
イグナーツの心臓が跳ねた。
図星だった。彼が一番気にしている、彼自身の中途半端さの象徴である匂い。
それを、この薄汚い無等級民の女は、あろうことかいい匂いと言ったのだ。
侮辱か? それとも憐れみか?
「貴様……僕を愚弄するか」
イグナーツは引き金に指をかけた。殺してしまえばいい。こんな、得体の知れないゴミなど。
だが、女はイグナーツの殺気を受けて表情を変えた。その瞳が、鏡のようにイグナーツの瞳を映し出す。そして、彼女の纏う空気が変質した。
先ほどまでの無臭が嘘のように、彼女からイグナーツの好む匂いが漂い始めたのだ。
それは、か弱く、庇護欲をそそる、理想的な守られるべき者の気配。
「殺したいの?」
女が首を傾げる。その仕草は、イグナーツが内心でオメガに対して抱いている、こうあってほしいという理想そのものだった。
怯えながらも、強い男である自分に運命を委ねる、従順な女。
「それとも、確かめたいの? その白い服の下が、どうなっているのか」
イグナーツの理性が軋んだ。
この女は危険だ。こちらの精神構造を読み取っているかのように、欲しい言葉を、欲しいタイミングで投げてくる。
本来なら即時処分対象だ。
だが、イグナーツの指は引き金を引けなかった。
彼女の言葉が、彼の劣等感の隙間にねっとりと入り込み、甘い毒のように広かっていたからだ。
強い男。そう扱われることに、彼は飢えていた。
「……確保する」
イグナーツは震える声で呻く。銃口を下ろし、腰から手錠を取り出した。
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