0020.風の目覚め

 


 その瞬間のことは、

 あとから思い返しても

 断片的にしか覚えていない。


 ただ、最初に目に焼き付いたのは──


 畑のど真ん中でイノシシに向かって

 クワを構えたゴードンじいさんの姿だった。


「じいさん!!」


 叫ぶ間もなく、ボスイノシシが地面を蹴る。

 土が爆ぜ、空気が押し出される。


 じいさんは、逃げるという選択肢を

 最初から捨てていた。


「ぬうううっ!」


 クワを、突進のタイミングに合わせて

 じいさんは、力強く振り下ろす。


 鈍い衝撃音。


 鉄と骨がぶつかる手応えが、

 ここまで伝わってくるようだった。

 クワの先は、イノシシの背中に突き刺さる。


 だが、それでも勢いは止まらない。


「──っ!」


 ゴードンの身体が、畑の上を

 転がるように吹き飛んだ。


 クワの柄が途中で折れ、

 刺さった刃だけがイノシシの背中に

 突き立ったまま揺れている。


 そこから赤い血が流れ出しているが、

 まだ深くはない。致命傷には程遠い。


 イノシシは一瞬だけ前足を取られたが、

 すぐに踏みとどまると、

 血の匂いにさらに興奮してに鼻を鳴らす。


 標的は変わらない。


 倒れたゴードンへ。


「じいさん!!」


 俺は全力で駆けだす。


 右足に鈍い感覚を感じるが、

 そんなものは無視した。


 地面に倒れたままのゴードンは、

 起き上がろうとして身をよじる。


 しかし、腕に力が入らないのか。

 やがて、すぐに崩れ落ちた。


「くっ……」


 嫌な音がした。


 さっきの衝撃で、

 どこか骨をやられたのだろう。腰か、肋か。


 這おうとすることすらできず、

 その場にうつ伏せに倒れたまま

 じいさんは、動けなくなっている。


 ボスイノシシが、再び地面を蹴った。


 一度目より、短い距離。

 逃げ場はほとんどない。


(間に合わない──!)


 走る速度と、突進の加速が、

 頭の中で冷静に比較される。

 どう計算しても“届かない”と結論が出る。


 分かっている。

 だが、足を止める理由にはならない。


(止まれよ……! 止まれって!!)


 無我夢中で叫びながら、

 身体は前へ前へと倒れ込むように進む。


 でも、二度目の衝突は、

 どうあがいても止められない。

 その事実だけが冷たく胸に貼りついた。


(無駄だって分かってても──)


 目の前で人が死ぬのを、

 見ているしかないのはもう嫌だった。

 穴の中でも、いつだって。

 “間に合わなかった自分”を見てきた。


 それだけは、もうたくさんだ。


「うおおおおっ!!」


 気づけば、俺は剣を抜いていた。


 自分の腕力じゃ、

 この距離から斬り込んでも届かない。

 突進の正面から入れば、逆に轢き潰される。


 だったら──届く位置まで、飛ばすしかない。


 自分でも、そう考えたのかどうか分からない。


 ただ、右腕を後ろに引いたとき。


 空間の“形”が、いつもと違って見えた。


 イノシシまでの距離。

 その間にある風の流れ。

 渦巻く空気の筋が、一本の線に変わる。


(あそこだ)


 何の確信もないくせに、確信だけがあった。


 俺は剣を、その線に向かって投げた。 


 途端に、世界が変わった。

 剣が、風をまとった。


 シュッ、と音を立てた気がした。

 いや、それどころじゃない。


 投げた瞬間よりも、加速している。


 まるで、見えない手が前から

 剣を引っ張っているみたいに。


 剣は、風に抱えられるようにして、

 一直線にイノシシへ吸い込まれていった。


 横っ面から、頭へ。


 サックリと、音もなく深く沈み込む。


「……っ!」


 ボスイノシシの身体が、

 突進したまま前につんのめる。


 慣性で、そのままゴードンの身体を

 潰しにいくかと思った。


 けれど、致命傷が入ったせいか、

 足が崩れ、進路がわずかに横へそれる。


 地面をえぐりながら、

 ゴードンのすぐ脇を通り過ぎ、

 そのまま横倒しになった。


 土と血が、派手に跳ね上がる。

 じいさんにはわずかな泥だけがかかった。


「はぁ、はぁ……」


 自分の呼吸音だけが、やけにうるさい。


 腕が震えている。

 さっき剣を投げた方向を見つめながら、

 俺はようやく何をしたのかを理解した。


(……今の)


 剣にまとわりついていた風の感触。

 空気の筋を“掴んで”投げたような。

 無自覚が生んだあの奇妙な感覚。


 初めての感覚。

 初めての経験。


 だけど、その感覚は、

 まったく知らないものでもなかった。


(……見たこと、ある)


 遠い記憶が、鮮明に蘇る。


 ウインディの屋敷の庭。

 五歳の誕生日より、少し前の日。


 父のゲイルが笑いながら見せてくれた技。


 短い投げナイフが、

 風に押されるようにして、

 木の的に突き刺さった光景。


 そのとき父は、確かにこう言っていた。


『これはな、ヴェントゥス。

 風の付与魔術エンチャントの初歩だ』


 武具に風を宿し、速度と軌道を操る技。

 風の英雄の血に連なる者が得意とする、

 風のエンチャント。


 十年、忘れていたと思っていた記憶が、

 急に鮮やかになる。


(……今のが、俺の)


 自分の中に眠っていた“風”が、

 ようやく目を覚ましたのだと、

 直感だけは理解していた。 


「おじいちゃん!!」


 セリアが駆け出す。


 イノシシの巨体のすぐ脇に膝をつき、

 ゴードンの身体を仰向けにしようとして、

 そっと動きを弱める。


「どこか痛みますか!?

  動かすと痛いところは……!」


「ホッホッホ……。

 ちと、調子に乗りすぎたかの……」


 ゴードンじいさんが、

 歯を食いしばりながら笑った。


「腰と肋が、随分と文句を言っておるわい。

 ……セリアよ、悪いが少し診てくれ……」


「はいっ!」


 セリアが震える手で癒やしの術を行使する。

 淡い光が、じいさんの身体を包んだ。 


 俺は、その光景を遠くに見ながら、

 その場に立ち尽くしていた。


 ふらつく視界の端に見慣れた背中が現れる。


「ヴェル」


 カルドが、いつの間にか隣に来ていた。


「大丈夫か」


「ああ」


 短く答える。


 身体の疲労はある。

 けど、それ以上に──


 さっき剣を投げた瞬間の感覚が、

 頭から離れなかった。


 空気の流れが、一本の線に。

 絡まり、まとまっていくあの感じ。


 風が“こっちへ来い”と言えば、

 素直についてきた感覚。


 掌の中に、まだ微かに残っている。


(これが……俺の“風”か)


 胸の奥で、何かが静かに灯る。


 今までは、“穴の形”しか読めなかった。

 今日、この瞬間、初めて“風の流れ”を掴んだ。


 奴隷だった俺が、ストーム家の血を、

 ようやく少しだけ思い出した。


「……カルド」


 自分でも驚くくらい落ち着いた声で、

 隣にいる相棒に呼びかけた。


「今の、見てたか?」


「見ていた」


 俺に聞かれたカルドは、

 いつもと変わらない無表情でうなずく。


「剣が、風をまとっていた。

 お前の投げた瞬間より、

 速く、そして深く刺さった」


「だよな」


 俺は右手を握り、開いた。

 風は、間違いなくそこにあった。


 初めて掴んだ自分の“武器”の感触を、

 何度も何度も頭の中でなぞりながら。


 俺はイノシシの死骸と、

 その向こうでセリアに支えられている

 じいさんを見つめていた。

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