第38話 鈴木洋
鈴木はバーベキューコンロの前で
1人立ち尽くしていた。
肩まで伸びた真っ黒な直毛が
丸眼鏡にかかっていて、
その眼鏡の奥の細い目は
焦点が定まっておらず、
何も載っていない網の上を
ただぼんやりと見ていた。
私が近づいたことにも
気付いていないようだった。
「こんにちは」
私が声を掛けると
鈴木はビクッと体を震わせた。
「あ、ああ・・こんにちは。
三ノ宮さん・・でしたか?」
「はい。
ごめんなさい。
驚かせたみたいで」
「い、いや。
す、少し考え事をしていたもので・・」
鈴木は長い前髪の間から
チラリとこちらを見ただけで、
すぐに網へ視線を戻した。
どこか思い詰めているような表情だった。
他人に構っている暇はないということか。
それはそれで都合が良かった。
私は鈴木の方を向いたまま
静かに目を閉じた。
いつの間にか。
濃い霧が一面を覆いつくしていた。
前も後ろも右も左も上も下も
わからない。
私は霧の中に立ち尽くしていた。
霧が私の全身を包み込んでいた。
私はその中から抜け出そうと足掻いた。
その時。
霧が目や口、そして耳や鼻の奥へと
染み込んでくるのを感じた。
私は咄嗟に目と口を閉じて耳を塞いだ。
すぐに息苦しさを覚えた。
呼吸ができない。
徐々に意識が遠のく中、
ふいに肺が空気で満たされるのを
感じた。
私は恐る恐る目を開いた。
霧が晴れていた。
広いリビングだった。
50インチ以上あると思われる
液晶テレビが壁に掛かっていた。
テレビから離れた所にあるソファーに
白髪の痩せた老人が身を沈めていた。
老人は天井を見上げたまま
目を見開いていた。
その目からは光が失われていた。
口が大きく開いて、
舌がだらしなく垂れていた。
老人の左胸の辺りが鮮血に染まっていた。
私は息を呑んだ。
その時。
シューという蒸気の音に気付いて、
私はダイニングキッチンの方へ
足を向けた。
薬缶が火にかかったままだった。
私は足をとめた。
ダイニングテーブルの下に
女が倒れていた。
女の背中には包丁が突き立っていた。
乱れた髪でその顔はわからなかったが、
それでも女が死んでいることだけは
はっきりとわかった。
ふいにリビングのドアが開いて
男が入ってきた。
黒髪のやや細身の男だった。
年の頃は20代半ばくらいか。
街ですれ違っても記憶に残らない
何の特徴もない男。
男の手には包丁が握られていた。
男はキッチンまで来ると冷蔵庫を開けた。
そして缶ビールを取り出すと
片手で蓋を開けて、
グビグビグビと流し込んだ。
「ただいま」
その時。
開いたドアの向こうから、
か細い声が聞こえた。
男は缶ビールを置いて
素早くそして静かにドアの方へ移動した。
そして壁に背を這わせた。
男の手に握られた包丁が
怪しく光っていた。
寸刻の後。
開いたドアから顔を出したのは、
鈴木だった。
鈴木がリビングに入ってくると同時に
ドアの影にいた男が飛び出した。
次の瞬間。
「うぐぅぅ」
という呻き声と共に
鈴木の体が崩れ落ちた。
倒れた鈴木の背中に向かって
男が2度、3度と包丁を突き立てた。
男が包丁を引き抜く度に
鮮血が周囲に飛び散った。
鈴木が息絶えたことを確認して
男はリビングのソファーに腰を下ろした。
白髪の老人の死体は先ほどと変わらず
天井を見上げていた。
ふいに男の視線が
テーブルの上の便箋を捉えた。
「・・ですか?
だ、大丈夫ですか?
具合でも悪いのですか?」
その声で私は我に返った。
鈴木が心配そうに
こちらを覗き込んでいた。
鈴木の細い目が
丸眼鏡の奥で鈍く光っていた。
「あ・・い、いいえ。
な、何でもないです」
私が慌てて首を振ると
鈴木は眼鏡の位置を戻すように
右手の人差し指で
そっとブリッジに触れた。
私は何度か小さく深呼吸をして
高鳴る胸の鼓動を沈めた。
それから改めて鈴木に向き合った。
「あ、あの・・鈴木さんとは
以前どこかでお会いしましたか?」
「私と三ノ宮さんが、ですか?
恐らく初対面だと思いますが?」
そして鈴木は首を傾げた。
なぜ初対面の男が私の命を狙うのか。
私はその疑問を呑み込んで、
「あ・・い、いいえ。
何でもないです」
と同じ台詞を繰り返した。
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