第28話 生々しく不快なまでの悪臭と紅茶の香り

「これが私の知っている

 笠原信明という男です」

応接室はしんと静まり返っていた。

「1つ聞いていいですか?

 今の話に出てきた人物と、

 今日ここに来る笠原さんは

 本当に同一人物なんですか?

 単に同姓同名というだけでは?

 それに。

 加害者がわかっているのなら、

 彼らは法の裁きを受けたのですか?」

「ふふ。

 罪人が必ず罰せられる。

 そんな都合のいい世界は、

 フィクションの中にしかありません。

 それに。

 こういうケースでは、

 被害者も話が大きくなるのを

 望んでいない場合が多いですから」

「そんな・・」

「もう1つの疑問にお答えしましょう。

 笠原信明が

 同姓同名の別人であることを

 私も願っています」

そう言うと江藤はにこりと微笑んだ。

その笑顔があまりにも魅力的で、

私は同性であるにもかかわらず、

思わず目を奪われた。

私はそっとカップを手に取り、

紅茶を啜った。

その音が場違いなほど大きく響いて、

私は慌ててカップを置いた。


応接室の柱時計が

コツコツコツと時を刻んでいた。


いつの間にか

私のカップは空になっていた。

江藤がポットを手に取って

私のカップに紅茶を注いだ。

ややフルーティーで

それでいてウッディな香りが

たった今聞いた事件の

生々しく不快なまでの悪臭を

掻き消していった。

私はカップに口をつけて一口だけ飲んだ。

そしてゆっくりと目を閉じた。


 いつの間にか。

 濃い霧が一面を覆いつくしていた。

 前も後ろも右も左も上も下も

 わからない。

 私は霧の中に立ち尽くしていた。

 霧が私の全身を包み込んでいた。

 私はその中から抜け出そうと足掻いた。

 その時。

 霧が目や口、そして耳や鼻の奥へと

 染み込んでくるのを感じた。

 私は咄嗟に目と口を閉じて耳を塞いだ。

 すぐに息苦しさを覚えた。

 呼吸ができない。

 徐々に意識が遠のく中、

 ふいに肺が空気で満たされるのを

 感じた。

 私は恐る恐る目を開いた。

 霧が晴れていた。


 目の前には白い世界が広がっていた。

 何もない。

 ただどこまでも白い。

 まるで雲の中に迷い込んだかのような。

 私は勇気を出して一歩足を踏み出した。

 そこには。

 存在しているはずの地面がなかった。

 私の体はそのまま白い空間へと

 落ちていった。



ハッと我に返った。

心臓が早鐘を打っていた。

「どうしました・・?」

目の前の江藤が

不思議そうに私を覗き込んでいた。

「ご、ごめんなさい。

 紅茶の香りが

 あまりにもいい香りだったので・・」

私は咄嗟に誤魔化した。

「いいえ。

 私の方こそ。

 つい話しすぎてしまいました。

 他のゲストの方が

 来られるといけないので

 私は失礼いたします」

そして江藤は応接室を出ていった。

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