(バルセロナ×百合)灰色の裏窓、極彩色のバルコニー

南條 綾

(バルセロナ×百合)灰色の裏窓、極彩色のバルコニー

 バルセロナの朝は冷たくて、息が白くなる。私は小さなアパートのキッチンにある、小さな裏窓に立って、外の狭い中庭を見ていた。向かいの建物の壁は灰色で、古いバルコニーの洗濯物が寒々しく風に揺れていた。

 二年経った今でも、この景色を見ると胸が少し緩む。

 東京で毎日押しつぶされそうだった心を、ここに来てようやく少し息をつかせてくれた。

 誰かと深く関わるのが怖いまま、毎日を淡々とやり過ごしていた。

 逃げてきたつもりでも、結局お金は必要だから、今日もカフェ・デル・ソルのシフトに向かって、アシャンブラ地区の細い路地を歩いていた。

 石畳が湿っていて、足音が小さく響く。ふと、壁に寄りかかって煙草を吸う女の人が目に入った。黒髪を無造作に束ねて、Tシャツにデニムというシンプルな格好。視線が合った瞬間、彼女が小さく微笑んで、手を軽く上げた。私は反射的に足を止めて、慌てて目を逸らしてしまった。

 心臓が急に速く鳴り始めた。そのまま逃げてしまった。こんな風に、見知らぬ人に気づかれるなんて、本当に久しぶりだった。

 失礼なことをして嫌な気持ちにさせてしまったかな?心の中で謝りつつ私は仕事場に向かった。

 その日の午後、カフェ・デル・ソルでカウンターに立っていると、朝の彼女が入ってきた。同じ黒髪、同じ服装。間違いない。私は一瞬息を飲んで、笑顔を作った。


「いらっしゃいませ。何にしますか?」


 彼女はカウンターに寄りかかって、


「アイスコーヒー、ブラックで」


 声が低くて柔らかくて、朝の微笑みを思い出すだけで体が熱くなった。注文を打ちながら、彼女がポケットからカードを出した。

 カードの表面に「ルシア」と書かれているのが見えた。

 ルシア……。その名前を、心の中でそっと繰り返した。


 コーヒーを渡すとき、彼女が小さく「ありがとう」と言って窓際の席に座った。

 パソコンを開いて、何かを打ち始める。時々、ふと顔を上げて私を見る。

 その視線に、逃げたいけど、逃げるわけにはいかなかった。

 シフトが終わって店を出ると、ルシアが外で待っていた。


「一緒に歩かない?」


 断る言葉が出てこなかった。ゴシック地区の狭い路地を並んで歩く。石畳が足音を吸い込んで、街灯が影を長く伸ばす。風が涼しくて、遠くから波の音が聞こえる気がした。


 ルシアがぽつりと言った。


「私も、昔は逃げてきたんだ。ここに」


 私は黙って頷いた。なんでわかったの私が逃げてきたって?。

 プラサ・デル・レイのベンチに座って、彼女の手が私の手に触れた。その手は温かくて、少し震えていた。


「アヤ、あなたの目、寂しそうだよ」


 その言葉で何かが崩れた。たったこれだけの言葉なのに、自然と涙がこぼれて止まらなかった。

 ルシアが私を抱き寄せた。


「一緒にいよう。ここで」


 唇が触れた瞬間、二年分の孤独が甘く溶け始めた。柔らかくて、ほんのりコーヒーの味がした。キスは短かったけど、その短さが心に深く刻まれた。引き離れて、互いに見つめ合う。頰が熱い。恥ずかしくて、でも嬉しくかった。


「これから、どうなるかわからないけど……一緒に、歩いてみない? この街を。人生を少しずつね」


 私は頷いた。言葉じゃなくて、ただ強く握り返した。それから、私たちの時間は少しずつ変わっていった。

 最初は手を繋いで歩くだけ。ルシアの指が私の指に絡む感触が、毎回新鮮で胸がざわつく。

 カフェのシフトが終わると、彼女が店の前に待ってる日が増えた。


「今日はどこ行こうか?」と、彼女の声が少し照れくさそうに響く。


 ある日、ルシアが「今夜モンジュイック山に行かない?」と誘ってきた。

 たしかユダヤ人の山っていう意味合いがあって、バルセロナの街を一望できる観光スポットだったはず。行ったこ事はなかった。

 ケーブルカーに乗って山頂へ向かうと、冬の澄んだ風が吹き抜けた。眼下には宝石をぶちまけたような街の灯りが広がっている。遠くにサグラダ・ファミリアの影が見えた。

 山を降り、ふもとのカタルーニャ美術館の前まで来ると、ちょうどマジック・ファウンテンのライトショーが始まるところだった。冬の夜空に、色鮮やかな水柱が音楽に合わせて踊り出す。水と光と音が複雑に絡み合い、冷たい空気の中で輝くその光景は、まるで夢の中に迷い込んだみたいだった。

 ルシアが私の肩に頭を寄せてきた。


「綾とこうしてるの、幸せだよ」


 私は言葉に詰まって、ただ彼女の髪を撫でた。でも、幸せの裏で、少しずつ不安が芽生え始めた。私はまだスペイン語が完璧じゃない。ルシアは地元の人で、友達も家族もここにいる。私はただの外国人で、いつか帰らなきゃいけないかもしれない。そんなことを考えると、胸が締め付けられる。

 次の週末、ルシアが「今日は特別な場所に連れていってあげる」と、いたずらっぽく微笑んだ。

 連れて行かれたのは、市街の喧騒から離れた北の端にある、パルク・デル・ラベリント・ド・オルタだった。

 ここはバルセロナで最も古い庭園だという。入場制限があるおかげで、観光地の騒がしさはどこにもない。一歩足を踏み入れると、一世紀以上前の静寂がそのまま閉じ込められたような、凛とした空気に包まれた。

 庭園の中央に現れたのは、高く切り揃えられたヒノキの生垣いけがきが作り出す、巨大な緑の迷路だった。冬の低い陽差しが長い影を落とし、迷路の入り口はどこか神秘的な雰囲気を漂わせている。

 ルシアが私の手を強く引き、迷路の奥へと進んでいく。


「ここ、昔から恋人たちが愛を確かめに来る場所なんだって」


 高い緑の壁に遮られて、周りの景色が見えなくなる。二人きりの空間で、彼女が立ち止まり、肩越しに振り返った。

 幾重にも重なる緑の壁を右へ左へと曲がり、ようやく視界が開けた。迷路の中心、円形の広場。そこには愛の神エロスの像が静かに佇み、小さな噴水が冬の凍てつく空気を揺らしていた。

 ルシアが不意に足を止め、私の方を向く。


「迷わずに来られたね」


 そう言って彼女がポケットから取り出したのは、小さな、けれど確かな重みを感じさせる箱だった。蓋が開くと、シンプルなシルバーのリングが冬の低い陽射しを弾いて、鋭く、優しく輝いた。


「これ、綾に似合うと思って。ずっと渡したかったんだ」


 指先が触れたリングは、冬の空気と同じくらい冷たかった。でも、その奥にある彼女の想いが伝わってきた瞬間、私の視界はにじみ、涙が溢れそうになった。私はこらえきれず、彼女の細い体に飛び込んだ。


「ありがとう……ルシア、大好き。本当に、大好き」


 初めて、震える声ではっきりと想いを言葉にした。


 あの日から、私たちの時間はこれまで以上に濃密に、溶け合うように重なり合っていった。

 朝は湯気の立つコーヒーを分け合い、午後は彼女が働くカフェのカウンター越しに、秘密のような視線を交わす。

 夜になると、どちらからともなくバルセロネータの海へと向かった。

 夏の喧騒が嘘のように静まり返った一月のビーチ。砂浜に腰を下ろすと、冬の夜風が容赦なく体温を奪っていくけれど、波の音を聞きながら肩を寄せ合っていれば、不思議と寒さは感じなかった。

 暗い海を見つめながら、途切れることなく言葉を紡ぐ。街の灯りから少し離れたこの場所で、私たちはただの二人になれた。寄せては返す波の音が、私たちの新しい日常を祝福するように、静かに響き続けていた。


「日本に帰るの、怖い?」


 ルシアがぽつりと言った。私は正直に頷いた。


「怖い。でも、ルシアがいるなら、帰らなくてもいいかもって思う」


 彼女は笑って、私の額にキスをした。


「だったら、残って。一緒に暮らそうよ」


 でも、現実は甘くない。ビザの問題、仕事の問題、お金の問題。それに、家族にどう説明するかも。恋人を好きだってことさえ家族友人に言えなかったのに、今はスペインで恋人と一緒に暮らすなんて、想像もできなかった。


 ある夜、私たちはゴシック地区のプラサ・デル・レイ王の広場にいた。高くそびえる中世の石壁に囲まれたその場所は、夜の静寂がひときわ深く沈んでいる。ルシアが、私の指をなぞりながら真剣な顔で言った。


「綾、私も怖いんだ。君を失うのが。でも……貴女がいないバルセロナなんて、もう私には考えられない」


 その震える声に、私は彼女の手を強く握り返した。


「私も同じ。だから、頑張ってみよう。一緒に」


 それから数ヶ月が過ぎた。私はカフェでの仕事を続けながら、カタルーニャ語とスペイン語を学ぶ学校に通い始めた。新しい言葉を覚えるたび、この街が自分の居場所になっていく気がした。

 やがてルシアが私のアパートに泊まる日が重なり、私たちは自然と一緒に住み始めた。

 そこは、カサ・バトリョのすぐ近くにある古い建物の、一番高い場所にある屋根裏部屋。エレベーターはないし、冬の隙間風も容赦ない。カフェのバイト代とルシアの給料を合わせても、家賃を払えば手元には少ししか残らないけれど、私たちはこの「空に近い場所」を迷わず選んだ。

 小さなバルコニーに二人で並んで身を乗り出せば、すぐそこにガウディの波打つ曲線が見える。それは今や私一人の憧れではなく、私たちのささやかな生活を見守る象徴になった。

 市場の店じまい間際に安く譲ってもらった花や、蚤の市で見つけたコーヒーカップ。高価なものは何ひとつないけれど、部屋を少しずつ、ゆっくりと二人色に染めていく。

 窓から差し込むバルセロナの光の中で、私たちの新しい物語が、ようやく始まったばかりだった。

 最後の不安は、日本の家族への告白だった。ビデオ通話で、母にすべてを話した。


「実は、スペインで大事な人ができたの。女の子だけど……」


 画面越しに、母は少しの間黙り込んだ。けれどすぐに、いつもの優しい笑顔に戻って言った。


「綾が幸せなら、それでいいよ。いつか会わせてね」


 その言葉に、私は涙が止まらなかった。ずっと拒絶されると怖れていたけれど、家族はいつも私を見守っていてくれたんだと、改めて実感したから。

 今、私たちはエシャンプラ地区の新しいアパートに引っ越した。

 前より少し広くなって、二人分の服がちゃんと入る大きなクローゼットがある。毎朝、ルシアが焼いてくれるトーストを食べながら、「今日もがんばろうね」ってキスをする。

 バルセロナの冬は冷たいけれど、ルシアの隣なら、いつだって温かい。

 夜、アパートの窓からサグラダ・ファミリアを見上げる。塔のライトアップが、漆黒の夜空をまっすぐに照らしている。あの未完成の建築が、少しずつ形になっていくように、私たちの未来もまた、始まったばかりだ。

 私たちは、手を繋いだまま、この街を、もっともっと歩いていく。


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