センセ
夏目凪
センセ
夢は微睡み。現実は冬の網走の空気。乾燥に耐えかねた皮膚が赤く割れる頃、アタシは涙を流していた。
落ち葉が片付けられた冬の真ん中。子供もお年寄りもいない深夜の公園が寂しそうに見えて、気付けば足が吸い込まれていた。その姿が今のアタシと重なって。
取り敢えず目につくベンチに座った。木製の其れは冷たい。鞄を下ろせば、開いていた口から封筒が見えた。恩師の結婚式の招待状だった。アタシの叔父と結婚するらしい。金にも女にも酒にもだらしないあの男と。其の感情は失望という他なかった。あの人も、そんな俗物の物になるらしい。嗚呼、可哀想な人。
コンビニで買った350ml缶のビールを呷った。叔父はビールが好きだった。ALC.9%の表示を新年の親戚挨拶の度に見た。けれどアタシは酒に弱かったから、ALC.3%と書かれたビールを今日もちびちびと飲んでいる。
正確に言えば、恩師の結婚式の招待状は叔父から送られてきたものだった。親戚としての出席を求められている。けれど、あの人の結婚式に新郎側の関係者として出席するのは嫌だった。いつかの、「親に適当な処に嫁がされるわ」と言ったあの人の表情を思い出す。あの人は姑にいびられる。祖母はそういう人だった。
あの人がアタシの叔父でなければ、アタシが変わってあげるのに。何を思っても現実は変わらない。あの人は地獄へ嫁ぐのだ。そして、アタシと同じ処で息をする。
横浜には滅多に出ない雪予報。手始めの雨が降り始める。傘はない。家に帰らなくてはいけない。けれど、歩いて数分の場所にあるからという事実を免罪符にして、もう少し雨に打たれることにした。十分待って、雪に変わらなかったらその時帰ろう。
鞄のチャックを閉め、膝の上に抱えた。眠ってしまいたかった。目を覚めたら、幼いあの頃に戻っていたい。無邪気に先生が好きだった頃の、ちょっとぽっちゃりしたアタシ。もしくは雪による凍傷で……。あり得ない。都会の雪はそれほど冷たくない。ただ、苦しいだけだ。気道を絞めればすぐに人は死ぬけれど、頸動脈だけ絞めた人間が死ぬのには一体どれだけの時間がかかるのだろうか。アタシが絞められているのは頸動脈だ。貴方の諦念を見たあの日から緩く、しかし確かに絞められて死へと向かっている。
「礼さん」
幻聴だ。雪の見せる
「礼さん。大丈夫ですか?」
目を開いた。先生がアタシを覗き込んでいる。昨日、生家で見たその人がアタシを。
先生は傘を差した。アタシの頭上を布が覆う。濡れた身体が少しだけ寒い。しかし対象的に瞼は重かった。驚愕の眠気覚ましは直ぐに効果が切れたようだ。
「なんで……」
「もちろん貴方が心配で、」
「なんで、あんな男と……」
夢見心地だった。呂律は回らず、その目を見ている。綺麗な人だ。年齢を感じさせない。
「快太さんはいい人よ。顔合わせしたときに、この人ならいいかなって思えたから」
「パチンコ、酒、タバコ、金、ニート。すべて揃った嫌なやつだったとしても?」
「仮にそうだとしても私が支えるわ」
知らない目をしている。恋する女の目。アタシが蛇蝎のごとく嫌う、俗の象徴。
この人は誰だろう。何と話していたのだろう。眼の前がぐるぐるする。ナイトコアを始めて聞いた時くらい気持ち悪い。
ああ、この人も女なのだ。そんなことがふと頭に浮かんだ。途端に、ファンデーションの粉が浮いてその肌が年相応のものに見えてくる。神様じゃない、救いじゃない、赦しじゃない。ただの、女。ああ、アタシは何を見ていたのだろうか。
もう、先生が叔父と結婚することに疑問は抱かなかった。なるべくしてなったのだ。愚かな男と、愚かな女が結婚するだけのこと。ただの、この世に存在する事実のひとつでしかない。
寝ても醒めても、夢に浸かっていたかった。けれど、アタシを夢に連れて行ってくれた人はもう死んだのだ。そうだ、死んだのだ。
「ありがとうございました、センセ。帰ります」
雨は雪に変わり始めた。汚い雪が都会を染める。アタシは生家へ足を進めた。センセ、ようこそ。信仰にも似て愛してたよ。センセ。
センセ 夏目凪 @natsumenagi
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