殺人記

酒とゾンビ/蒸留ロメロ

殺人記

 私の通っていた小学校には黒井という女教師がいた。当時の担任だ、私は四年生だった。


 黒井は事あるごとに(事など初めから何もないのだが)、電柱の烏も鳴き止むであろうほどの権幕で癇癪を起し、無差別に教壇から受け持つ児童を罵倒した。

 言葉通り無差別なのだ。誰に何を言っているのかあの場にそれを理解していたものは私を含め、誰一人としていなかったろう。

 人にものを教える者は口以上に耳が達者でなければいけない。だが黒井には耳がなかった。騒ぐことが大好きな子供を上手く治めることができず、いつも朝っぱらから舌をまくしたてたのだった。


 授業が始まると必ず癇癪も始まった。一時間目からだ。

 そうでない日は稀だったと記憶している。


 声は廊下の端まで響き渡り校舎に反響する。それは上の階にまで響き渡るのだ、とそれには憶測もふくまれているが廊下に響き渡っていたことは事実だ。何故なら聞きつけた他クラスの教師もいずれ姿を現すようになったからだ。


 黒井が教壇で自己紹介を交えた日から、しばらくは何も問題はなかったはずだ。それも記憶は曖昧であるが。だが半年もせぬうちに代わりの教師が「黒井先生、落ち着いて」と治めるような光景を何度も見るようになった。何故なら癇癪を起した瞬間には、クラスの児童は呼吸することに気を遣うほど静かになっていたからである。

 それでも黒井は癇癪を起した。もうすでに場は静まり(いや、子供なのだから注意したところでまた騒がしくするだろう。教師でなくともそれくらいのことはわかるだろう)、誰一人声を出す者はいないというのに、それでも黒井は――――。


 問題が起きた。

 それはまだ黒井の癇癪が「問題化」する前であったのだろう。だが時間の問題であると他クラスの教師たちも薄々は気づいていただろうし、それまでに随分と長いあいだ黒井は児童の前で癇癪を披露していたのだから、家に帰って親に話さない児童が一人もいなかったはずはない。


「やる気がないなら帰れ、勉強する気がないなら帰れ」


 お馴染みの権幕で黒井は言った。

 すると本当に帰ってしまったのだった。


 それはクラスの中でも特にがたいの良い背の高い二人だった。

 無言のままリュクを背負い(四年にもなるとランドセルはボロボロになり使わない)、表情に精一杯の不服さを表していた。


「そうだ、帰るなら帰れ、やる気がないなら帰れ」


 死んだ魚のような小学生二人の視線が、大の大人に向けられていた。

 二人は教室を後にし、だがそれでも黒井は引き続き舌をまくしたてた。教壇をステージか何かと勘違いしていたのだろうか。


「ほら、帰りたいなら帰れ、他にもいるだろ、やる気がないなら帰れ」


 しばらくして黒井は静かになった。だが落ち着いたという感じではなかったことを覚えている。というより、むしろそれまで以上に表情は騒然としていたように思う。それまでの表情があまりにも非日常的なものであったからかもしれない。何故なら当時の私にとって、大人があれほどの権幕で怒鳴る姿を生に見ることなどそうなかったし、それが女性ともなるとさらに稀で、といってもその時点で黒井の癇癪は初めてではなく、だから「馴染みのある」ものであった訳だが、それでも、何度見てもそれは異様でありトラウマものだ。私だけではないはずだ。

 黒井は急ぎ足で窓を開けた。そしてぽつりと呟いた。


「え、ホントに帰ったの……」


 静かにしていた児童の数人が勝手に席を立ち、わざわざ窓まで行って外を見た。私も同じように見てみると、校内の塀の外に、下校する児童二人の姿が一瞬だけ見えた。


 すると二人の姿の見えていなかった児童がいたのか、通路側まで走り教室を出て、廊下の窓を開ける児童の姿が見えた。そこからはグラウンドが見えるのだ。門は北と南に二つあり、そちらの門は朝の登校時間外は締め切られているため、二人がそこから出るということは考えづらいが、パニックになっていたのか黒井も揃って窓から外を覗いていた。


 数秒前まであれほど私たちを罵倒していたものが、「見える? 二人はいる?」などと馴れ馴れしく訊ねている。無垢でお人好しな児童は「いない」と答えるのだ。

 当時、私は「死んだ魚のような目」など知らなかったから、どんな表情をしていたのか分からない。過去に戻れたなら見てみたいものだ。あの日、私がどんな目をしていたのか。だが私は、間接的には何かしら見えていたに違いないと思っている。だからこそあの日の二人の目を喩えられたのだ、その使い古された言葉で――。


 当時、教師の間でもそれは問題になっていたはずだ。教育委員会にチクられはしまいかと主任、あるいは耳に入っていたなら校長は気が気でなかったはずだ。

 黒井は児童二人の勉強する権利を侵害した。義務教育制度のある日本ではありえない話だ。小学生だった当時の私には分からなかったが、おそらく知らないところで保護者との話が進み、示談的な内容に終わったのだろうと思う。何故なら黒井は、その後も私たちが五年生に進級するまで、私たちの担任だったからだ。


 それは週明けのことだったかと思う。当時、生徒指導員のような立場を担っていた、熊のように大きな職員がいた。小学生であれ非行に走り暴力的な行動を取る生徒はいる訳だが、その熊はそれらを受け持っていたのだろうと記憶している。

熊に誘導され、一時間目、教室に入ってきた黒井は非情に穏やかな表情をしていた。化粧で顔を白く塗り過ぎていたからかもしれないが、不気味なほど穏やかだった。


「黒井先生、じゃあお任せしますよ?」


 熊の目つきは「大丈夫ですね、できますね」とまるで念を押す様な鋭いものだった。だが見守っているようでもあった、というのは性格の良すぎる解釈かもしれない。

 黒井はゆっくりと話し始め、まず児童二人を帰らせてしまった出来事についての説明を始めた。聞くまでもないことだ。

 またこれまで幾度に割って怒鳴り散らしてきたことについても触れ、謝った。頭を下げたかどうかは覚えていないので、おそらく下げてはいないだろう。そして黒井は不気味な笑みの表情のまま、それぞれの表情を確かめる様な仕草をしてこう言ったのだ。


「一人ずつ、順番に、先生のダメなところ、先生がなおさないといけないところを言っていってほしいの」


 例えば反省、気を付ける、改める、注意する、意識を変える。言葉はいくらでもあるように思えるが、黒井は「なおす」と言ったはずだ。だからその後、生徒たちはそれを引用して「ここをなおした方がいいと思います」と一人ずつ席に座ったまま答えていった。

 私はその黒井の説明を聞いた時、子供ながらに違和感を覚え「なんのために?」と心の中で疑問に思ったことを覚えている。未だに思うが、あいつは何がしたかったのか。おそらくは保身からくる論点ずらしだろう。黒井を含め、学校側はできるだけ大事にしたくなかったのだ。たとえば児童たちの中に不安が残るのならば、それが何かの形で自分のたちの責任として問われないようなら取り除いてもおきたかったのだ。だがそれも中途半端なものだ。

 そして何より、「もうこの一件は終わった」のだと、児童たちの中にすりこませたかったのかもしれない。


「大きな声を出して、すぐに怒るのはなおした方がいいと思います」


 そう言った女子生徒の表情を覚えている。黒井は「うん」「はい」と穏やかな笑みで頷き、「ありがとう」でしめる。

いずれ私の番が回ってきた。臆病な私は「特に、ありません」と恐る恐る答えた。


「……はい」


 黒井は頷いた。

 今思えば、誰も特別なことを言えなどとは言っていない訳で、だとすると“特にありません”は意味がわからない。ならば特別でないことを話せというものだが、黒井は小学生によくあるその陳腐な回答を許した。


 時間を半分ほど使いその茶番は終わり、残りの半分は自習でもない沈黙の時間だった。黒井は依然とした気色の悪い表情を顔に張り付けているのみで何も言わない。

 そうこうしているうちに一時間目が終わり、そして、二時間目に入り数十分した頃だったかと思う。非日常に慣れた児童はお喋りを始め、だが確か、それぞれは常に黒井の様子を確かめていたように思う。誰かの話し声が聞こえると、誰かがその声の方を見る。そして表情がそわそわし始める。中には席が近いこともあり、「静かにしていないと云々うんぬん」などと言って注意を促していた。が次第にそれもなくなり、各々は学習し始めた。

 大丈夫だろう、多分、大丈夫だろう。そして教室はあっという間に騒がしくなった。


「みんな、もう少し静かにしてくれる」


 黒井の満面の笑みが向けられた。一度教室は静まった。だが直ぐに騒がしさが戻る。

 そして――。


 黒井は癇癪を起した。


 児童たちの一言を「ありがとう」の言葉でしめた、数十分後のことだった。一時間もせぬ間に黒井はお馴染みの権幕でその癇癪をまたも披露したのだ。

 生徒一同は途端に死んだ魚の目をした。辟易し、もう恐れることもなかった。普段から態度の大きな者はわざとらしい溜め息を漏らし、一方では「まただ」「言ったばかりなのに」「意味がない」「もう無理だ」などの囁くような軽蔑が聞こえた。

 大人が子供に呆れられた瞬間である。

 生徒指導の熊が現れ、黒井は教室を退場した。


 その後のことは曖昧にしか覚えていないが平行線だったかと思う。黒井は日々、相変わらずの癇癪を起す。児童たちも慣れもう誰も相手にしなくなり、一応黙りはするが直ぐに盛り上がり騒ぎ出す。黒井が発狂する。この繰り返しである。


 今までと違うのは黒井がぎゃーぎゃー言っている間中、特定の生徒がぶつぶつと「あー、あー」と黒井の言葉に被せるようになったことだった。「あー」という声の音量調整を一度ミスり、黒井が露骨にその生徒を睨んだ時は笑えた。

 だが笑えはしたが、あの時、私たちの中に、明らかな大人への失望が生まれたに違いない。大人というものへの信用が落城したのだ。それまで当たり前のようにあった、何か大切なものが消えた。

 間違いなく、私たちは何かを失った。


 ちなみにその数年前の出来事ではあるが、母校では一度、殺人事件が起きている。近郊の中学に通うとある生徒が、放課後校内に侵入し刃物で児童を切り付けたのだ。

 私はおもう、偶然などないと。

 黒井が関係しているとか、そんなことを言っている訳ではない。

 そういう土地柄なのだ。負に集まりやすい、土地柄なのだ。


 私は常に危惧しながらわくわくしている。

 黒井という育成機関にお世話になった者の中から、いつか殺人鬼が現れはしまいかと。

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