錆びついた歯車が刻む、銀世界の鼓動
@orangeore2025
第一章
空は低く、まるですりガラスを透かしたような灰色に染まっていた。街を包み込むのは、音を奪い去るほどの豪雪である。舗装された道路はとうの昔にその姿を消し、人々は足元の感触を確かめながら、慎重に冬の奥深くへと進んでいく。
大学生の湊は、駅前の時計塔の下で立ち尽くしていた。冷気が肺の奥まで入り込み、吐き出す息は白く、濃く、虚空に溶けていく。彼は何度も腕時計を確認したが、秒針は刻一刻と非情な現実を刻み続けている。約束の時間はとうに過ぎていた。
「遅いな……」
独り言が、乾いた冬の空気に吸い込まれて消える。コートの襟を立て、かじかんだ指先をポケットの奥へと押し込んだ。指先に触れるのは、小さな包み。今日、彼女に渡そうと決めていた贈り物だった。
彼女――雪乃は、いつも少しだけ遅れてやってくる。それは彼女のルーズさゆえではなく、彼女を取り巻く時間が、他の人間よりも少しだけ緩やかに流れているからだと、湊は勝手に解釈していた。雪乃は冬の妖精のように、白銀の世界にあまりに馴染みすぎていた。
その時、遠くから雪を踏みしめる音が聞こえた。リズミカルで、どこか危うい、聞き慣れた足音。湊が顔を上げると、吹雪の向こうから赤色のマフラーが揺れているのが見えた。雪乃だった。彼女は頬を紅潮させ、息を切らしながらこちらへ駆け寄ってくる。
「ごめん、湊くん! 電車が、雪で……!」
彼女の声が届いた瞬間、湊の心に溜まっていた冷たい澱のような焦燥感は、春の陽光を浴びた残雪のように、あっけなく消え去った。雪乃のまつ毛には小さな雪の結晶が付着しており、彼女が瞬きをするたびに、それは宝石のように瞬いた。
「大丈夫だよ。僕も今来たところだから」
ありふれた嘘を吐きながら、湊は彼女の手を取った。手袋越しでも伝わる、彼女の微かな体温。その温もりこそが、この極寒の世界で彼が唯一、現実のものとして信じられる指標だった。
二人は歩き出した。行き先は決まっていない。ただ、この静まり返った街を、二人だけの足跡で汚していきたかった。街灯が灯り始め、雪は次第に激しさを増していく。それは、これから始まる長い夜の序曲に過ぎなかった。
第二章
二人が逃げ込むように入ったのは、路地裏にひっそりと佇む古い喫茶店だった。木製のドアを開けると、カウベルが乾いた音を立て、焙煎された珈琲の香りと薪ストーブの柔らかな熱気が、凍えきった身体を包み込んだ。
店内の隅にある小さなテーブル席に座り、雪乃は大きく息をついた。彼女の眼鏡が真っ白に曇り、それを見て湊が小さく笑う。
「あ、笑ったな。ひどいよ、こっちは必死だったんだから」
「いや、あんまり綺麗に曇るからさ。ほら、拭いて」
湊は手持ちのハンカチを差し出した。雪乃はそれを受け取り、丁寧にレンズを拭き上げる。露わになった彼女の瞳は、店の照明を反射して深い琥珀色に輝いていた。
運ばれてきた二つのカップから、真っ白な湯気が立ち上る。湊は熱い珈琲を一口含み、喉を焼くような熱量に目を細めた。この一瞬の安らぎが、外の世界の厳しさを一層際立たせる。
「ねえ、湊くん。このまま雪が降り積もって、世界が止まってしまったらどうする?」
雪乃が唐突に問いかけた。彼女の視線は、窓の外で狂ったように踊る雪の群れに向けられていた。
「止まるって、どういう意味だい?」
「言葉の通りだよ。時計も、電車も、人々の営みも、全部。真っ白な雪の下に埋もれて、静寂だけが残るの。そうしたら、私たち、ずっとここにいられるのかな」
彼女の声は、どこか遠い場所から響いているように聞こえた。湊は彼女の言葉に含まれた微かな寂寥感を見逃さなかった。雪乃は時折、自分たちが立っている現実という境界線から、今にも踏み外してしまいそうな危うさを見せる。
「世界が止まったら、珈琲も冷めてしまうよ。それに、ストーブの薪だっていつかは尽きる。僕たちは、動き続けなきゃいけないんだ。雪が止むのを待って、また歩き出すためにね」
湊は自分に言い聞かせるように答えた。雪乃は小さく微笑んだが、その表情は窓ガラスに映る雪のように、どこか透明で、触れれば消えてしまいそうだった。
彼はポケットの中の贈り物に触れた。歯車をモチーフにしたアンティークのブローチ。止まらない時間と、噛み合い続ける二人の運命を象徴するように選んだものだったが、今の彼女にそれを渡すのは、なぜか躊躇われた。
第三章
喫茶店を出る頃には、夜の帳は完全に降り、積雪は膝の高さまで達しようとしていた。除雪車の作業音も聞こえず、街は死に絶えたかのように静まり返っている。二人は肩を寄せ合い、街外れの公園へと向かった。
そこには大きな池があり、冬の間は一面が分厚い氷に覆われる。雪に埋もれたベンチを払い、二人は隣り合って座った。
「見て、星が見えるよ」
雪乃が指差した先、雲の切れ間から刺すような鋭い光を放つ星々が顔を出していた。寒冷な空気が、光をより純粋に、より鋭利に研ぎ澄ましている。
湊は、今がその時だと感じた。
「雪乃、これ。受け取ってほしい」
彼は慎重に包みを取り出し、彼女に手渡した。雪乃は驚いたように目を見開き、震える手でリボンを解いた。中から現れたのは、銀色の歯車が幾重にも重なり合ったブローチだった。
「綺麗……。どうして、歯車なの?」
「歯車はね、一つだけじゃ動けないんだ。隣にある別の歯車と噛み合って、初めて力を伝えていく。僕と雪乃も、そんな風にいられたらいいなと思って。時間が止まっても、この歯車だけは僕たちの記憶を回し続けてくれるはずだ」
雪乃はブローチを胸元に当て、じっと見つめていた。やがて、彼女の目から一筋の涙が溢れ、頬を伝って雪の上に落ちた。熱い涙は瞬時に冷え、小さな窪みを作る。
「嬉しい。でも、湊くん……私は怖いの。この雪が溶けて、春が来ることが。季節が変われば、私たちは今と同じ場所にはいられない。あなたは就職して遠くへ行くし、私はこの街に残る。境界線が引かれてしまう」
彼女の不安は、湊自身の不安でもあった。冬という季節が、彼らにとっての執行猶予のように感じられていた。この雪に閉ざされている間だけは、未来という不確実な怪物から逃げていられる。
「境界線なんて、僕が飛び越えてみせるよ。どんなに遠く離れても、僕たちの歯車は噛み合ったままだ。信じてほしい」
湊は彼女の肩を強く抱き寄せた。厚いコート越しでも、彼女の震えが伝わってくる。それは寒さのせいだけではないことを、彼は痛いほど知っていた。二人の頭上を、冷酷なまでに美しい冬の星空が流れていく。
第四章
翌朝、湊が目を覚ますと、窓の外は眩いばかりの白光に満ちていた。雪は止んでいた。雲一つない青空が広がり、新雪が太陽の光を反射して、世界をダイヤモンドの粉を撒いたような輝きで満たしている。
湊は急いで支度をし、昨日別れた雪乃の家へと向かった。昨夜の誓いを、もう一度言葉にするために。しかし、彼女の家の前まで来た時、彼は言いようのない違和感に襲われた。
玄関先には、彼女の父親が立ち尽くしていた。その表情は、今朝の晴天とは対照的に、深い絶望の影を落としている。
「……湊くんか。雪乃は、病院へ運ばれたよ」
血の気が引くのが分かった。雪乃は以前から心臓に持病を抱えていたが、ここ数年は安定していたはずだった。昨夜の極寒が、彼女の小さな身体に限界以上の負荷をかけてしまったのだろうか。
湊は、崩れそうになる足を引きずりながら病院へと走った。除雪が始まったばかりの道は滑りやすく、何度も転びそうになったが、彼は構わず走り続けた。
病室の白い壁。消毒液の匂い。規則正しく鳴り響くモニターの電子音。それは、彼が昨夜贈った歯車のブローチが刻むはずだった、幸福なリズムとはあまりにかけ離れた、無機質な音だった。
ベッドに横たわる雪乃は、驚くほど小さく見えた。彼女の肌は雪よりも白く、透き通っている。
「雪乃、雪乃!」
湊が呼びかけると、彼女はゆっくりと瞼を持ち上げた。その瞳には、まだ微かな光が宿っている。彼女の胸元には、昨日渡したブローチが留められていた。
「湊くん……来てくれたんだね。見て、雪が止んだよ。世界が、動き出した……」
彼女の声は微かな羽音のように弱々しかった。湊は彼女の手を握りしめた。その手は、昨夜よりもずっと冷たくなっていた。
「動かなくていい。世界なんて、止まったままでいいんだ。雪乃、しっかりして。春になったら、二人で海を見に行くって約束したじゃないか」
「海……いいなあ。でも、私の時計は、もうすぐ止まっちゃうみたい。歯車が、うまく噛み合わなくなっちゃったの」
彼女は力なく微笑んだ。湊は首を激しく横に振った。涙が溢れ、視界が歪む。なぜ、神様はこれほどまでに残酷な境界線を引くのだろうか。愛という感情が、ただの絶望への入り口に過ぎないというのなら、これほど無意味なものはない。
第五章
数年の月日が流れた。
街には再び、厳しい冬が訪れている。湊はかつて二人で歩いたあの公園のベンチに座っていた。
彼は今、この街の精密機械メーカーで時計技師として働いている。壊れた時計を直し、止まった歯車に再び命を吹き込む仕事。それが、彼に残された唯一の救いだった。
「雪乃、今年も雪が降ったよ」
彼は独り言を呟き、胸ポケットから一つのブローチを取り出した。あの日、彼女の形見として手元に戻ってきた銀色の歯車。彼はそれを丹念に磨き上げ、内部に小さなゼンマイ機構を組み込んでいた。
リューズを回すと、チチチ……と小さな、しかし力強い音が静寂の中に響き渡る。銀色の歯車が複雑に絡み合い、永遠に終わることのない円舞を始める。
雪乃はあの日、深い眠りについた。彼女の肉体は消えてしまったが、湊の中にある彼女との記憶は、この歯車のように回り続けている。
空を見上げると、雪がひらひらと舞い落ちてきた。湊は立ち上がり、コートの襟を立てた。かつての彼は、雪を「すべてを奪い去る冷酷な象徴」だと思っていた。しかし、今は違う。
雪は、過ぎ去った時間を優しく包み込み、保存してくれる白いゆりかごなのだ。
積もった雪の下では、次の春を待つ命が息を潜めている。そして、彼自身の心の中にも、彼女が遺した温もりという名の種が、今も確かに生き続けている。
湊は歩き出した。一歩一歩、雪を踏みしめる音が静寂にリズムを与える。
彼の腕にある時計の針が、新たな一秒を刻む。それは、過去から未来へと架けられた、目に見えない境界線を越えていく音だった。
冬はどこまでも深く、冷たい。けれど、その先にある春の光を、彼はもう疑っていなかった。
止まっていた彼の時間は、今、再び回り始めたのである。吹雪の向こうに、幻のように揺れる赤色のマフラーを追いかけて、彼は銀世界の中へと消えていった。
錆びついた歯車が刻む、銀世界の鼓動 @orangeore2025
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